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遠景の喪失(?)と子育て
みょうなタイトルですいません。本来ならば、子育て・教育関連の分野の質問なのかもしれませんが、ここのほうが、いろいろな意見をうかがえるような気がするので書いてみました。 私事ですが、20年ほど前に、上京・進学し、そのまま就職。結婚後も、東京で子育てをしております。 郷里にいたときは、遠くの山を見ながら育ちました。そのことに、なにか意味があるのかと問われると、自分には答えはありません。 いま、自分の子供は町中に住んでいるので、遠景というものを日常的に見ずに育っているように思えます。おそらく中景としては、立て込んだ町並みを、近景としては、家族やご近所を見ながら育っているのではないでしょうか。 昔であれば、江戸の町からは富士山が見え、それが精神的な拠り所でもあったように聞いております。つまり、江戸の町の遠景には富士山が意識されていたと思いますが、今の東京の町では、望むべくもない話です。 遠景・中景・近景を見ながら育つのと、中景・近景のみの視覚で育つのでは、やはり多少の違いがあるような気がしますが、もちろん確証はありません。 例えば、遠景に富士山を見ながら育つ、静岡県や山梨県の人が、「幅広い視野を持つ」とか「長期的視野に富む」というようなことがあれば面白いのですが、とくにそんな話を聞いたこともないです。 でも、「遠くを見渡さないで育つこと」に、なにか違和感を感じるので、皆さんの意見をお聞きしたいのです。よろしくお願いします。
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心の故郷と、現実の故郷が一致しない子らは、いわば自らの半身を求めて、彷徨っているのかも知れません。親子にして根っこが違う所にあるという寂しさは、むしろ、根っこを持たない子らに対する不憫さのようではないかとも思いました。確かに同じ原風景でも、ビルディングや電柱は、郷愁の対象にはなっても、心の拠り所にはならないとも思えます。それらの寿命は自分達よりもある意味で短く、儚いもので、そこで育つという感覚は、ロボットに育てらる赤ちゃんのようなイメージさえ持つことができます。人の生き死にを超えたサイクルを実感して、それと共に育つのと、人の営みの中に埋没して育つのとの差は、只の違いと言うよりも、おっしゃるとおりの「違和感」が芽生えても不思議でない違いのように思えます。 根無し草の子らにとって、里山体験のような原風景が持つ心の意味は、何によって補完されるのでしょうか。 無理に答えは出さずに、その人の心が、必要なものを求めて動いていくだろうと思って、これ以上考えないことにします。里山体験のように、人の生死を越えたサイクルを感じさせてくれるようなものと出会うのは、都会の子らにとって、そう容易なことではないと思うからです。 ただ、人間関係の中に、それが見出されうるならば、あえて、親子の間でと、質問者様がおっしゃったことは、なにか深い意味が隠れているのかもしれません。 たどり着く末は あの川か かの荒れ野か 時が隔てし 異郷へは たどり行く術 もたぬこの身か 都会人の心は、見たことの無い故郷への、望郷の念に駆られて、旅をしているようです。
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>> アマゾンとモンゴルの人が通じ合えないかと言えばそうではありません。 >というのは、それはそうでしょうが、それはどのレベルでの話しょうか。 そのことと、 >> あなたと子の間にも、通じるものは少なからずあると思います. >というのは、ちょっとくくり方というか、話をする上でのベース・基準点が違うようにも思いますが。 話の仕舞いを駆け足で降って行ったので、疑問をもたれても当然と思います。話をする上での基準点は、育ちの違いはどうであれ、同じ人間ではないか、と言うつもりで回答させていただきました。 心の拠り所となる原風景が、人工物であるか自然物であるか、又はそれに遠景が含まれているかいないか、そういう項目によって、見方、考え方などに違いは出ると思うけれど、それとは別に、人の生き方というものは存在しうるのではないでしょうか、と言うのが私の意見でした。 蛇足になるかもしれませんが、ユングという精神科医が語る、集合的無意識というものがあります。端的には、ユングは、住んでいる地域や時代を越えて、別々の民族が、または人々が、共通の神話(象徴)を共有していると言うのです。モンゴルとアマゾンの人々は住む地域が違います。あなたとお子様では住む時代が違います。世界中を見れば違いだらけです。違いだらけですが、何かしらの共通普遍の象徴を抱いて、人々は生きていると思われる事がある。普遍的な生き方のかけらを見出せるかもしれないと私が言った事は、ユングのそれと近いとは言えませんが、私も、地域や時代をこえて、普遍的な何かがあるのだろうと考える一人です。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 確かに「地域や時代をこえて、普遍的な何かがある」のかもしれないとは思いますが、私が考えているのは(近視眼的ですが)親子関係のことであって、それは「普遍的なにか」というよりは、もっと具体的で卑近なものを考えております。 啄木の歌で、 かにかくに渋民村は恋しかり おもいでの山 おもいでの川 ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな しいて言えば、こうゆう感覚・感情を子供と共有できなさそうであることを悲しむものです。
- yajiro-bay
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面白い視点ですね。 なんでも観察したがる私は、時々、スズメの様子を観察します。 彼らは、何時も地面をつつき、せわしなくあちこち動き回ります。 餌を探し、天敵から逃れる事に精一杯、電線に止まって遥かな山並みを眺める事もないのでしょう、眠るときも、木の中に隠れ、恐らく油断なく何かしらの警報は備えているのかもしれません。 都会の子供も、危険が一杯ですね。 歩道にいても、車は突っ込んでくるかもしれませんし、塾に行かないと、成績が下がって、お望みのゲーム機も買ってもらえない、何時の間にか、友達に成績を逆転されるかもしれない。テストで悪い点を取って両親に叱られたり、うっかり自転車を盗まれたり、財布を落としたり、そのつど叱られてしまう。 遠くを見渡すためには、まず、身の回りの安全の確保が必要です。 今だけや明日や明後日のテスト、車の行きかう道を塾に急いだり、今と自分の身の回りで精一杯では、遠くを眺めたり、遠い将来に考えをめぐらす機会は少ないでしょう。 近くを見る事は、他人を見ているのかも、逆説的ですが、遠くを見ることにより、自分を見つける。 空間的にも時間的にも、遠くを眺める姿勢は大切のような気がします。 ご質問の意図を十分理解できたか不安ですし、中景は解りません。 残念ながら、この事に関する、文献は、無学の故知りません。 (と言うか、結構本読みますが、気がつきませんでした) 数年前、出雲の国府跡を訪ねた事があります。 標識以外、それらしき痕跡は残っていませんが、背後に小山を従え、 日当たりの良い場所から、霊峰大仙が望めた事が今でも印象に残っています。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 ところで、 > 遠くを見渡すためには、まず、身の回りの安全の確保が必要です。 案外、現実的には、こんなところかもしれませんね。世知辛い世の中だから、仕方がないのかもしれません。 「遠くを見ること」が、時間的・空間的な遠方を考えことにはつながらないかも知れませんが、日常的には目の前の出来事に巻き込まれている状態の自分に気付くきっかけくらいにはなるかもしれませんね。 おそらく出雲の国府の背景として霊峰大仙が意識されていたように、現代でもきっと「なにか」があるのでしょうが、それが何なのか私には分からないということが、今回の疑問の出発点なのかも知れません。
遠くを見渡さないで育つと言うよりも、原風景を共有できていないことに違和感を感じられておられるのではないでしょうか。現代の都会で育った子供達の原風景は、ビルディングになると思います。私などのように、電信柱に郷愁を抱く方も居られると思います。 ただ、遠くを見渡さないだけならば、例えばアマゾンの森林に住む人たちも、木立を縫うようにしてしか、遠くに目線を飛ばすことはできないでしょう。モンゴルの原野で暮らす人たちには、中距離の景観を眺める経験が抜け落ちているのかもしれません。 質問者様は、何か、社会が持つシンボルのようなものの合致を求めておられるのではないかと思います。江戸社会ならば富士、アマゾンなら雨、中央アジアの原野ならば風?と言う様な。 質問者様は、遠くの山並みを見て、「皆」と一緒に育ち、○○県の象徴(山々)を地元の皆と共有して育った。だけれど質問者様のお子様は、大都会、東京のシンボル、高層ビル群を象徴にして育っている。あなたと子との間には、社会の持つ象徴を共有できていないが故に、見方、考え方の違いが大きく現れるのかもしれません。 しかし、アマゾンとモンゴルの人が通じ合えないかと言えばそうではありません。あなたと子の間にも、通じるものは少なからずあると思います。その中には、人工と自然と、双方に共通する何かも、存在しているのかもしれません。 つまり、普遍的な生き方のかけらのようなものが、見つかるかもしれないと言うことです。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 「原風景の共有」という切り口、なるほどという部分があります。 > 遠くの山並みを見て、「皆」と一緒に育ち、○○県の象徴(山々)を地元の皆と共有して育った。 これはその通りでしょう。とはいえ、同じ環境で育ちながら、そんなことを考えない人もたくさんおりますが。 むしろ、 > 大都会、東京のシンボル、高層ビル群を象徴にして育っている というとき、(たかが?)人工物なんぞを、精神的拠り所となるべき象徴にしていいものか、という疑問かもしれません。やはり、新宿のビル群を見ても、「所詮、あんなものは」と思っているのが正直なところです。そのへんが、今回の質問につながっているのかもしれませんね。 ところで、 > アマゾンとモンゴルの人が通じ合えないかと言えばそうではありません。 というのは、それはそうでしょうが、それはどのレベルでの話しょうか。 そのことと、 > あなたと子の間にも、通じるものは少なからずあると思います. というのは、ちょっとくくり方というか、話をする上でのベース・基準点が違うようにも思いますが。
- kigurumi
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>遠景の喪失(?)と子育て >「遠くを見渡さないで育つこと に的確に答えることができませんが、参考程度に。 視覚から入った情報がイメージとなりますが、例えばコマーシャル。 「山の神様からのおくりもの」とナレーションが入って森が画面に映る。 実はこれは人工の森なんですね。 日本のほとんどの山は植林されており、自然が勝手に作ったものじゃないそうです。 我々はそんなことは知らないので、杉林を天然に生えた森林だと思って育っている。 森を描くとき、それは実は人間が作った森だと気づかないで描いている。 宮崎駿氏。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF 恐らく彼は幼少時代には富士山を遠めに見て育ったと思えます。 平野はビルという木がいっせいに立ち並んで森となった。 その中で彼は仕事のキャリアを積んできたようです。 その彼が「となりのトトロ」の作品から、作風をガラっと変えた。 そして「もののけ姫」という作品によって訴えるものをアニメーションで表した。 となりのトトロは森の神が出てきます。 日本列島が人工森になる前の話しだと思えます。 この神は創造と育成の神。 もののけ姫は神と人間の戦いです。 人間が神の領域を征服するという物語。 宮崎駿氏は人間の自然破壊に対する警告を発するために作品を作ったと思います。 http://ghibli-fc.net/rabo/monoke_yo/yomitoku.html 必要以上に母なる神から搾取し、征服しようとする行為は、自殺行為だと言っているわけです。 これはファンタジーやSFの世界でのみあるものじゃあない。 実際、必要以上に搾取し、征服してきたため、今度は母なる大地から罰を受けています。 山を破壊し、森林を破壊するという行為は、直に人間に帰ってきている。 いくら人工林を植えたり、人工も森を作ったり、堤防を作っても、自然の流れを征服するなど、人間にはできないし、やろうとしたため、人間にその傲慢さゆえの結果が帰ってきているというわけです。 昔、山は神が住む霊界だと思われていました。 人びとはその山麓に住んでいた。 春になると神が下りてきて、芽吹かせ、作物を育成し、秋になると実らせ、村人と一緒に収穫を祝い(祭り)、また山の森に帰っていった。 だから神社はモリとも読む。 山麓に神社があるのは、山の神を奉っているという意味もあるらしい。 山麓にある神社なら、山まで登って収穫を神と共食しなくても、神社でできるからかな? 宮崎駿氏の心の奥にあった過去の遠めに見た富士山のイメージが、となりのトトロによって蘇ったのかもしれません。 過去=遠く。 彼は今も遠く山(過去に見て育った)をイメージしながら、作品を作っているのではないかと思います。 ということで、遠くを見るというのは、視覚だけではなく、過去でもあると思えます。 過去の山・神の記憶を持つ人はどんどん少なくなっていっていると思えます。 もう人工森林づくしですから、本来の山・森を見ることはできませんし、それによって心をはぐくむことはできません。 子どもに「あれが自然だ」と指差しても、実は人工を指差しており、それを子どもは人工だと知らず、それが神だと思って育つ。 当然、大事にする心は育ちません。 また作ればいいからといって、壊すことにためらいの無い子が育ちます。 家が立ち並び、まるで森のようです。 高層ビルがその中にあって、まるで山のようです。 将来子どもたちはそれを森と呼び、山と呼び、それを神だと思うようになるのではないでしょうか。 そのために自然を破壊することを躊躇しなくなる。 高層ビルを神の家だと思い、そのビルに勤務することがステータスとなり、そのビルのとっぺんに君臨したとき、自分を神だと思い、なんでも自分の思いのままに人間(部下)を支配しようとするのではないでしょうか。 というわけで、生き残っている過去の遠くに見える自然の山を知っている人たちが、過去を呼び覚まし、訴えるしかない。 ということで宮崎駿氏はがんばっているわけです。 宮崎駿氏息子さんは・・・・ 彼は人口の森を天然の森と同一視してしまっているようです。 彼の作品は訴えようと力んでいますが、その彼の指差すものは、天然ではなく人口の森。人工の山。 ・・・・・・ ゲド戦記の原作者はアメリカ原住民の血が流れいるそうです。 そればかりではなく、その文化も流れているようです。 彼女は仕事をしないときは、自然の中で暮らしている。 訴える力がまったく違います。 ゲド戦記の作者は日本のアニメーションになった自分の作品になれの果てを見たとき、非常に落胆したそうです。 まったく別な作品だと。 訴えているポイントがまるで違う。 恐れを知らない愚か者といいたかったでしょうね。 ゲド戦記にはまとこと名という概念が出てきます。 まことの名は実体を表している。 まことの名は信頼できる相手にしか教えない。 神のまことの名を知らない人が作品を作ると、知らないことが露呈してしまう。 宮崎駿氏の作品を観ると、彼は神のまことの名を知っていると思えました。 神は創造と育成以外 もう一つの面を持つ。 破壊の面も持っていることを宮崎氏は知っている。 だから警告を発しているわけです。 人工森林で育った若い世代は、もう知る術は無いのでしょうか。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 残念ながら、私自身が、宮崎駿氏も、その息子さんにもまったく関心がなく、おっしゃられている対比が正確に理解できるかどうか、心もとないところです。 曲解かもしれませんが、 ・遠景:神、自然 人智を超えた存在? ・中景:社会、世間 現実の世界 ・近景:身近な、身の回りの存在 と考えてみました。 自然=神というのは、日本人にとっては伝統的な思考だといえると思います。 「遠景の喪失」と私が思いついたとき、ひょっとして「手の届かない、畏怖すべき存在」が見えなくなっている、と言いたかったのかもしれませんね。 もうすこし、考えてみたいと思います。
- gg13
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狂言師の野村万乃丞さんの稽古をする上での心構え「大きく、ゆっくり、遠くを見る」 ある禅者の訓話「地球に足を踏ん張り大空を背負って宇宙に向かって呼吸をせよ」 このような言葉に接しますとあなたのおっしゃることは理解できるような気もします。しかし、「人生いたるところ青山あり」の言葉もありますように、遠景はいたるところにあるのではないでしょうか。空、雲、星、夕日、月などなど。禅ではまた、「一粒の砂に大宇宙を見る」とも申します。大切なことは心の中にあなたのおっしゃる「遠景」を育てることではないでしょうか。 因みに私は360度遠景の田舎で育ちましたが、郷土出身の視野の広い人物は360度見回してもなかなか見当たりません。善人はゴマンといますが。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 > 遠景はいたるところにあるのではないでしょうか。空、雲、星、夕日、月などなど そうですね、空を見上げれば、無限遠はあるのですが、いかんせん、町中だと夜が暗くなくて、身に迫ってかんじられないかもしれません。田舎では、ちょっと引っ込めば、「ふるような星空」が見られるのですが。 先日の十六夜の月は、台風一過、空も澄み渡り、素晴らしく大きく見事な月でしたが、ビル越しに見ると、なんだか都市の一部のようにも見えました。 都市化が進んで、自然の偉大さが感じられなくなっているのかもしれませんね。例えば、原っぱに立つ巨木は、なんとなく偉大な感じがしますが、町中で隣に大きなビルがあったりすると、そうは見えないような気がします。 > 大切なことは心の中にあなたのおっしゃる「遠景」を育てることではないでしょうか これが、なかなか難しそうですね。 ちなみに、私の郷里も、360度遠景ですが、やはり善人はいても、視野の広い人物はいないようです。善人というよりは、むしろ悪知恵が働かないだけだったりして。
お礼
度々のご回答、ありがとうございます。 以下の部分、かなり核心を突いているように思います。 「親子にして根っこが違う所にあるという寂しさは、むしろ、根っこを持たない子らに対する不憫さのようではないか」 「根無し草の子らにとって、里山体験のような原風景が持つ心の意味は、何によって補完されるのでしょうか」 私も、もうしばらく考えてみたいと思います。「粘弄」という言葉があって、無理に答えを出さずに、しかし、ずっと考え続けるということだそうです。私も、そうしていきたいと思います。