まず、仏教で「記」という言葉は「いずれかに決定する」という意味です。だから「無記」というのは、「どちらとも決めない」という意味ですね。
例えば唯識で「無記」と言えば「善でも悪でもない」という意味ですし、「授記」と言えば「悟ったと断定する、証明する」という意味になります。
決して「書く、記録する」という意味でもないし、「答えない」のでもありません。実際に、お釈迦さん自身がはっきり「無記」という言葉を口にしているシーンが経典に幾つもあります。
ご質問の「無記」は、お釈迦さんが形而上的な内容の質問に対して「無記」と言った、つまり「その答えはどちらであるとも言わない」と言明した、というものです。
あちこちの経典に出てくるこの態度が次第に整理されて、十無記、十四無記、十六無記などと呼ばれるようになりました。
参考のために一番簡単な十無記を挙げると、
(1)世有常(この世は永遠か)
(2)世無有常(この世は永遠でないか)
(3)世有底(この世は有限か)
(4)世無底(この世は無限か)
(5)命即是身(魂と身体は同じか)
(6)命異身異(魂と身体は別物か)
(7)如来終(如来は死後存在しないか)
(8)如来不終(如来は死後存在するか)
(9)如来終不終(如来は死後存在し、かつ存在しないのか)
(10)如来亦非終非不終(如来は死後存在せず、かつしないでもないか)
((5)や(6)の「命」というのは「個我」、つまり霊魂のような不滅のもの、輪廻の主体になるものをいう言葉です)
ざっと見ると「無記」というのは、世界の成り立ちについて、そして霊魂の存在についての質問に対する態度であることがわかります。お釈迦さん在世の時代、いくら「縁起」や「無我」を説いても、霊魂をめぐる死後の問題への人々の強い関心はなかなかぬぐい難かったのでしょう。
こういった答えの出ない問題、どちらと答えても際限ない議論に陥る問題に関わることは修行者の利益にならない、従って関わるべきでない、というのがお釈迦さんの考えでした。
中阿含経の巻六十には、こういう問題に関わることは「智におもむかず、覚におもむかず、涅槃におもむか」ないために、これに対して答えないのだ、という言葉もあります。
もっとも、経典を読む限りお釈迦さんを「無記」に追いこむような質問をするのはほとんどが外道、つまり教団外の異教徒ですので、裏を返せばこのような質問がナンセンスだということは、お弟子達の間ではよく理解されていたように思えてほっとさせられますが。
ご質問の後半、大乗経典との関係ですが、「無記」は抽象を否定するものでは必ずしもない、ということではないでしょうか。無論、数多くの大乗経典の出現はお釈迦さんの予想しなかったことでしょうが、たとえ抽象度は高くとも、世界の成立とか霊魂を巡る諸問題(輪廻、霊肉ニ元論…)などを主テーマとして肯定的に扱ったものはさすがにありません。その意味では、お釈迦さんの意図した原則は守られていると言えるのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。「無記」は「記さない」ことと思っていましたので、ちょっと疑問があったのですがご説明でよく理解できました。 確かに、抽象的ということと形而上的ということは区別して考えるべきなのでしょうね。