三つの宗教とは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ですが、これらは、「至高の神」として、「同じ神」を信仰していると主張しています。ただし、一番古いユダヤ教は、キリスト教の「神」と、ユダヤ教の「ヤハウェ」は同じ神だと認めていますが、イスラム教の「アッラー」を「ヤハウェ」と同じ神だと、必ずしも公式に認めていなかったはずです。「アッラー」が「ヤハウェ」であるというのは、イスラム教の主張です(キリスト教も、アッラーが、自分たちの信仰する神と同一とは、公式には認めていないはずです)。
キリスト教は、元々ユダヤ教の一派でした。ユダヤ教の異端がキリスト教だとも云えるのです。無論、独立した教義を持つ宗教となったキリスト教は、ユダヤ教と「異教」関係にあり、異端関係にはないのですが、ユダヤ教側からすると、「異端」だということになります。
聖都エルサレムやその周辺施設などは、ユダヤ教の聖なる地であり都市であったのですが、エルサレムをめぐって、キリスト教の誕生の中心的なできごとがあったので、エルサレム及び、イスラエルやパレスティナなどは、至るところ、キリスト教にとって聖なる地、記念の地となっています。例えば、エルサレムに限らず、ガリラヤ湖とか、ナザレとかは、キリスト教にとって聖地または記念の地になる訳で、キリスト教徒の観光客などは、このような聖地や記念の場所を訪ねます。
キリスト教は、最初、自分たちの教えこそが、唯一神ヤハウェの「真の新しい教え」だと主張し、ユダヤ教の伝統を、『旧約聖書』の形で、継承し、一方、ユダヤ教とキリストの福音はどう違うかで、『新約聖書』の形で聖典をまとめたのです。ユダヤ教は、『旧約聖書』とは呼びません。それに相当する文書記録は、『ユダヤ聖典』となります。『新旧約聖書』の「旧約」を認めては、ユダヤ教の立場がなくなるのです。
キリスト教は、元々ユダヤ教の分派で、独立した教義を立てて、「異教」となったのだと云えます。しかし、ユダヤ教の教えは、「古い啓示」に基づくものだという考えを持ちます。従って、分離までのユダヤ教の歴史は、そのままキリスト教の歴史に取り込まれ、ユダヤ教の聖地や記念の場所も、全部、キリスト教の聖地、記念の場所として継承しています。エルサレムはユダヤ教の聖地・聖都で、それ故、キリスト教の聖地でもあり、また、「ゴルゴタの丘」とか、「十字架の道」などは、エルサレムにある、キリスト教の聖なる記念場所となっています。
イスラム教は、ユダヤ教の分派でも、キリスト教の分派でもなく、むしろ、アラブ族の民族宗教だとも云えるのですが、古い多神教のアラブ族の宗教の限界を超えるため、ムハンマドは、天使ジャブリール(キリスト教の天使ガブリエルに対応)から啓示を受けたと主張し、「神」は、ユダヤ人に啓示を与え、「聖典=ユダヤ聖典」を与え、自己の意志を表明したが、うまく人類に伝わらなかった。そこで、「預言者イーサー(イエズス)」を使わし、新しい啓示と新しい「聖典=新約聖書」を与えたが、なお、人類は、「神」を正しく認識しなかった。そこで、「最後の封緘」として、「最後の預言者ムハンマド」を使わし、ムハンマドを通じて、「最後の啓示=聖典クルアーン」を人類に与えた。これがイスラム教であるというのですが、これは、ユダヤ教・キリスト教の分派ではなく、勝手に、ユダヤ教やキリスト教の聖典や預言者や教えを、ムハンマドとその預言に先行する預言であるとして、教えに取り込んだもので、最初から分派でないのです。
つまり、イスラム教の側では、ユダヤ教やキリスト教は、共通の神の啓示を受けた「兄弟」となるのですが、ユダヤ教側からは、勝手な理屈を付けて、ユダヤ教を汚す宗教にしかならないのです。だから、ユダヤ教とイスラム教は、歴史的に、決してよい関係ではなかったということがあります。キリスト教は、ユダヤ教から分派したということが歴史的に明らかなので、イスラム教は、キリスト教により寛大で、キリスト教も、イスラム教よりも、ユダヤ教の方に、より好意的だとも解釈できます。
こういう経緯で、元々、サウディアラビア半島に起こった、ユダヤ教とは、一応別の宗教であるイスラム教が、エルサレルなどを聖地にするのは、根拠がないのですが、「教え」から言えば、エルサレムは、神アッラー=ヤハウェが、かつて、ユダヤ教で崇拝を受けた聖地であり、イスラム教固有の聖地であるメッカ、メディナに次ぎというか、同格ぐらいの重みで、教義上聖地となります。
ただ、キリスト教にとっては、エルサレムもイスラエルもパレスティナも、キリストに関連する直接の聖なる場所などが至るところにあるに対し、イスラム教は、メッカが第一聖地で、パレスティナには、それほど聖地はありません。ただ、ヤハウェ=アッラーの神殿などがあったエルサレムは、特別な聖地となる訳で、預言者ムハンマドは、一夜にしてか、アラビアから天使の翼に乗って、エルサレムを訪れ、そこの「聖なる岩」から天に昇り、神との出会いの聖なる体験をしたなどという話があり、エルサレムの「岩の神殿」というのが、イスラム教にとって、固有の聖なる場所になっています。
ユダヤ教にとって、イスラエル・パレスティナなど、あのあたり一帯は、「紫のカナーン」と呼び、神から与えられた「約束の土地」で、至る所聖地だらけなのです。キリスト教徒もその伝承を継承していて、かつ、キリストゆかりの多数の聖地や記念の場所があるので、エルサレム、イスラエル、パレスティナなどは、「聖地」になります。イスラム教にとっては、エルサレムは聖なる都ですが、「紫のカナーン」は、ヤハウェ=アッラーが、ユダヤ人に約束した土地であって、エルサレム以外の場所では、それほど拘りはないと云えます。
パレスティナ問題は、元々ユダヤ人が、紫のカナーンへの侵略者であったこと。この地域は、必ずしもユダヤ人の独占地域ではなく、昔から、ユダヤ人と砂漠のベドウィンや海のペリシテや、その他多数の民族などが共有してきた土地で、第二次世界大戦後、イスラエルを建国し始めた時、そこにはすでに、「パレスティナ人」というイスラム教の人々と、ユダヤ教を信奉するユダヤ人が共存していたという事実があるのです。
第二次世界大戦後の「イスラエル建国」において、ユダヤ人は、また侵略者として登場した訳で、原住民であるパレスティナ人が、迫害され、イスラエルに対し抵抗運動を行っているということです。このことは、エルサレムが、三つの宗教の「共通の聖地」という問題とは、また別の問題なのですが、イスラム教とユダヤ教は昔から仲が悪く、特に、イスラエルを建国した、西欧から来たユダヤ人は、イスラム教を認めない人々だったので、問題が複雑になったのです。
話が少しずれましたが、イスラエルに三つの宗教の聖地があるというより、三宗教共通の聖地は、一応「エルサレム」です。ユダヤ人は、エルサレムにかつてあった、「神殿」の名残=嘆きの壁、神殿の壁を聖なる場所とし、キリスト教は、エルサレルムの神殿は無論、ゲッセマネ・ゴルゴタなど、キリストに関係する場所が記念の場所で、聖地になり、イスラム教にとっては、「岩の神殿」跡が聖地になるということになります。
聖都エルサレムが、三つの宗教の共通の聖地になります。その理由と、どの程度の範囲かは、以上に述べた通りです。
お礼
細かい歴史的な部分まで回答していただき、大変有り難うございました。感動しました。勉強になりました。