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不思議なことが起こりました。これは何を意味するのでしょう?

自分は人生に悩んでいて、無欲が今時分に必要ではないかと、その思想に適した人をここで質問しました。するといろいろな思想家をあげられ、老子をすすめられました、翌日図書館で老子を借りて、しばらく一日そのほんをじっくり見ていました。自分は原文を読むのが苦手で、図書館で自分に読みやすそうな訳を書いてくれる本にしました。筆者は加藤さんという人でした。 そして夜になるとBSの番組で2時間番組でその本を緒方健が朗読しているではないでしょうか?こんな偶然ってあるのでしょうか?なにか見えない力ってあるのでしょうか?

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  • reikasuzu
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回答No.12

あると信じた方が人生が豊かになるのでは。 信じたいときに信じること、これは大事ではないでしょうか。 昔、知り合いのフランス人のおばさんがしてくれた話ですが、アフリカ旅行をして宿がなくてひどく困っていた時に、偶然宿を提供してくれる人に出会い、その人がおばさんの守護天使と同じ名前だったそうです。 その話をおばさんは、目をきらきらさせながら話してくれました。 別に私自身はキリスト教徒でもなんでもないので、「ただの偶然でしょ」と思ったのですが、 それでもそのおばさんには、人生で最も大切な偶然の一つで、どうやらそのことがおばさんの人生に大きな活力を与えているようなのです。 この場合愚かなのは、「ただの偶然」と思った私です。そこからはなんら人生を豊かにする価値が発生していないからです。 一方おばさんは、そこから私には計り知れない価値を汲み取り、そこから人生を豊かにしているように思えました。 というわけで、信じたいときに信じることは、とても人生を豊かにする力があるのだと思います。 わが道を突き進むためには、「信じる」力こそ最も必要だと思います。

noname#19556
質問者

お礼

たしかにそうですね。自分は信じる方向にこころが傾いてます。今ほんとに、老子が必要だったんじゃないかなと思います。一生の思い出です。 僕がフランス人のおばさんみたいに 誰かにこのことをしゃべるときが来るかもしれませんw

その他の回答 (16)

noname#104477
noname#104477
回答No.17

No.16です、1364さん何もそんなに落胆しなくても。 このような出来事は様々な見方が有りますから私はあえて夢の無い、無機質な回答をしてみたのです。 全国で10人弱居たとしてもここで質問なさったのは貴方一人です。1億2800万人のうちたった一人! そのたった一人が貴方だった訳でこれはすごい事ですよ! その貴方につたない回答を寄せた私、この二人がこういう形で会う確率なんて極めて低い訳でこれは大切にしたいと思います。

noname#104477
noname#104477
回答No.16

あえて冷めた言い方をします、ごめんなさい。 日本には1億2千8百万人も人間が居て1万人に一人がその本をその日に手にしたとすれば全国で12800人存在する訳ですね。 次にその番組が視聴率5%だったとします、単純に考えて12800人の人達の5%も見ている訳で、これは全国で640人が老子を読んだ次の日にBSのその番組を見たと言う事です。視聴率の定義などは突っ込まないでくださいね。 でそのうち1%が教えて!gooを開いたとすると6,4人、お!これはやはりすごいのかな? 老子を読んだ次の日にBSでその本を朗読するのを見てここ教えて!gooに投稿する人は全国に10人も居ない計算になりますね。 う~ん、やっぱりすごいのかなあ?? でもありえない話ではないですよね?

noname#19556
質問者

お礼

なんかそうですね・・・・ 自分になにか大切なことを教えてくれた奇跡だと信じた自分が馬鹿でした。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.15

#9です。すみません、もう一度おじゃまします。 不思議なことでも珍しいことでもない、という見方もあるようですが、やはり確率的には非常に稀なことと言えるのであって、その偶然性に着目するのはごく自然な感覚と言えるように思われます。 質問者さんは朝から晩までテレビを見ていたわけではなく、何より老子を毎日どこかのテレビが放映しているわけではありません。 質問者さんが老子の本を借りてきた時と放映の時が重なった、ということ自体は紛れもなく(稀有な)偶然と呼んでいいのであって、珍重? されるべき事柄として認められてしかるべきでしょう。 無論、別の誰かにとっては、たとえば昨日買ったばかりの服を着て友人の家へ行ったら、その友人も同じ服を着ていて、帰る時に雨が降っていたので傘を借りたら、自分の持っている傘と同じものであった、などということが起こることもあるわけです。 しかし、どちらも本人にとっては何度も起こるようなことではないわけで(まぐろの刺身を食べたいと思っていたら夕食がまぐろだった、などという例は含めませんが)、「奇跡【的】な偶然」という認識は別に間違いではないような気がします。 ただ、何かの不思議な力によって意図的に引き起こされたものではない、という点だけに留意する必要がある、ということではないでしょうか。 自分がその日興味を持ったある「特異な商品」が、巨大なデパートの品揃えの中から見つかったからといって偶然だと解釈するのは確かに誤りなわけですが、たまたま遊びに来た友人が同じものを持っていたとすれば、「そう起こり得るものではない偶然」と位置づけるのは妥当であろうと思います。 ただ、だからその友人とは何か特別の前世からの因縁があるなどという方向に発展してしまうのであれば、そては非論理的だ、ということにすぎないのだろうと思われます。

noname#19556
質問者

お礼

またまた、論理的に説明ありがとうございます。 ますます説得させられました。

noname#20102
noname#20102
回答No.14

別に不思議なことでも貴重な体験とも思えません。 そんなことは日常茶飯事に誰にでも起こります。 要するに、そのことに関心を持ったから、そのことが視野に入ってきたというだけのことです。 例えばカバティというスポーツに興味を持ったとします。 本屋に行ったらカバティについて書かれた書籍が目に飛び込んでくるのと同じです。 それまでもそこに存在はしていたのです。 でも自分の中で意識をしたから視界に入ってきたというだけです。 それまではあっても気づかなかったのです。 私も毎日のように起こりますよ。 今日覚えたばかりの歌が、テレビをつけた途端に流れてきたとか、 今日疑問に思ったことが、まったく関係ないファッション雑誌を開いたら答えが書いてあったとか、 今日勉強しようと思い立ったことが、教育テレビをつけたらやっていたとか。 いつでもやっていたのです、自分が気づいただけです。

noname#19556
質問者

お礼

たしかにそうですね。意識しないとありえませんですね。 流されているだけですね。

回答No.13

 よくあるたとえ話ですが、たとえばラジカセで電車の中での会話を録音するとします。  そうすると、ほとんど会話が聞き取れずに雑音ばかりが録音されていますね。  会話をしている時は、相手の言うことがよく聞き取れていたのにです。  あるいは、周囲の騒音の中で熟睡している母親が赤ん坊の泣き声にだけは反応して  飛び起きるとかの話もありますね。  つまり、人間の感覚器官は、選び取りたい情報だけを選び取っているわけです。    このことは「老子」のその番組がその夜、放映されたこと自体は「偶然」にしても  あなたの潜在意識が「老子」関連の情報に鋭敏になって、(これまでなら見逃したであろう)  「老子」の番組の放映をキャッチしたということを意味します。    実はこうした無意識は、ユングが「集合的無意識」と名付けたように 根底において全人類が共有しているものですから  ちょうど会いたいと思っていた人と会ったとか、  そろそろ電話がかかってこないかなと思っていた人から電話がきたとか、  の現象もまた(時間の遅いか早いかの違いはあっても)  必ず起こるものであって、別に摩訶不思議なことではありません。    チベットの高僧のところを、イギリス人のジャーナリストがはじめて  訪ねた時に、その高僧が「ああ、やっと会えたね。」  とまるで運命を見透かしたように言ったということが驚きをもって  書かれた紀行文がありましたが、こうしたこともまた  この「共有意識の広がり=共時性」さえ理解すれば、何の不思議もないことです。    

noname#19556
質問者

お礼

実に現実的ですね。たしかに納得できます。

回答No.11

5回連続競馬予想を当て、次も必ず当てるといって大金を懸けさせる詐欺にひっかかりそうですね。ご注意下さい。

noname#19556
質問者

お礼

ギャンブルは性格上たぶん一生やりませんので大丈夫です。

noname#20467
noname#20467
回答No.10

それって、そんなに驚くほどのものなのでしょうか? 普通にありそうなことだと思いますけど・・。 以前、全く知らない人なのだけど、知人によく似ている人と出くわしました。 似ているなぁ、と思っていると、 なんと向こうも久しぶり!と声をかけてきます。 くりかえし言っておきますが全くの赤の他人ですよ! あるいはどこかで向こうはこっちを見ていたのか? でも、私はその人と話すのは、始めてです! で、なぜかそのままその赤の他人の家に上がり込み、 お菓子を食べ、ジュースを飲み、ご家族にまで挨拶して、そのまま帰ってきました(汗)。 今ではその家がどこにあるのかも分かりません。一度しか行ってないから。 あれはなんだったのでしょう・・未だに謎。 てなことを考えると、よくあることなんじゃないかなぁと思いますが・・。

noname#19556
質問者

お礼

それは、ほんとにすごいですね。 参考になりました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.9

貴重な経験をされましたね。 非常に稀少な出来事ですから、そういう意味では幸運だったと言えるでしょう。 ただ、冷静に良くお考えいただきたいのですが、「不思議なこと」というのは元々起こるようになっているものなのです。 なぜかと言うと、 「不思議なこと」というのは「確率の低いこと」を意味しているにすぎないからです。 たとえば、ここに2個のサイコロがあるとします。 1364さんが、このサイコロを5回振って、5回とも全て同じ目が出たとしたら、どのようにお感じになるでしょうか。 『不思議なことが起きた』とお感じになるでしょうし、私もそう思うと思います。 では、地球上全ての人間が2個のサイコロを振った場合を考えてみましょう。 5回振って5回とも全て同じ目が出る人は何人ぐらいいるでしょうか。 計算に弱いので正確なことはわかりませんが、何人か、あるいは何十人かはいるのではないでしょうか。 この例でおわかりいただけるように、 「あり得ないことが起きた」というのは、正確に言うと「簡単にはあり得ないことが起きた」ということなのです。 つまり、『いつかは起こること』だったのです。 本の内容は違っても、1364さんと殆んど同じ経験をされた人は他にもいるような気がしませんか。 私としては、さらに、 そういう話を友達にしたら、その相手もまた同じ本を読んでいるところだった、などという条件が加わっている人さえいるのではないか、と推測します。 ただ、稀有な体験として稀少価値はあるわけですから、大いに大事にされて、老子への興味がより深めやすくなった偶然に感謝するのは良いことでしょう。 1364さんを含めて人がこの世で生きている、という事実以上の不思議なことはありませんよね。 何億というお父さんの精子のうちから、1364さんの元になる精子がお母さんに辿り着いて1364さんが生まれたわけですから、これ以上の不思議はないでしょう。 かといって誰かがそのように仕組んだわけではなく、非常に奇跡的なことではあるが起こらないことではなかった(1364さんの隣の精子が辿り着いていなかったとは言えないわけですから)ので起こった、というだけのことです。 科学性・論理性を常に携えながら思想の世界に踏み込んで行かれるよう願っております。

noname#19556
質問者

お礼

たしかに、奇跡を信じすぎるとよくないですね、 科学性・論理性を常に携えながら思想の世界に踏み込むことにします。ありがとうございました。

回答No.8

 何を意味するか、というご質問ですが、意味を読み取ることが出来るのは、それ実際に体験したあなた自身なのではないでしょうか。  世にいう「偶然の一致」と言われているものに「意味がある」のか、それとも「単なる偶然」なのか。あなたではない他者が、一連の出来事について、それらしく、つまり意味ありげに何かを言う。そんなことは世間で人気のあるといわれているあの占い師でもない限り自信を持って言えるはずがありません。(勿論、私のスタンスは、そんな占い師は偽者だと考えていますが)  その「一連の出来事の一致や符合」があなた自身にとって「次の行動の指針を示唆」したり、あなたがこれまでの人生で培ってきた信念なりに「決定的な影響を及ぼす」とあなたが思えば、それはあなたにとって「意味ある」ものだと言えるでしょう。この場合、出来事の解釈により「意味」が生まれるのではなく、その出来事があなたの行動に影響を与えた場合に「意味あるもの」として感得されるのだと、私は愚考します。  たとえば、横断歩道にやってきた老婦人が歩行者用信号が赤になっているのを見て歩みを止めます。婦人は横断歩道を渡りたいので近くにあるスイッチを押します。その途端、マンホールの蓋が爆発音とともに宙に舞ったとします。老婦人は自分が歩行者用の押しボタンを押したから何かが爆発してマンホールの蓋が飛んだと思ったとします。そして、何日も何日もそのときの自分の行動を責めたとします。押しボタンと爆発には何の因果関係もないものです。偶然の一致です。ですが、老婦人はその二つの出来事の間に自分なりに意味を見出し-自分がスイッチを押したから爆発したのだ。わたしが押さなければそんなことは起きなかった-数日間の憂鬱な日々を過ごすことになったのです。(注:これはあくまでたとえ話ですよ)  この例で言えば、他人、が老婦人が体験した一連の出来事に意味を見出すことができるでしょうか? 答えは「出来ない」ですよね。  ですから、質問者さんが考えて答えを出す以外ないと思います。ご自分の洞察力を総動員して現象の背後に何かの力を見出すか、あるいはデータ不足で思考が進まなかったりするか、もし悩むに値するとお考えなら徹底的に考え抜いていいのではないかと思います。  多くの場合、悲しいかな人間は生きるという雑事のあれこれに翻弄されて、そういったことに思考を集中することが難しく、また別の悩みに苛まれたりして思考を中断し(エポケーですね)、もとの日常に戻っていきます。(別な見方をするとそれこそが健全な生き方ということになります)  確かユングという心理学者がそういった一連の出来事の一致や符合について「シンクロニシティ」という概念を提出しています。さらに追求されるならこの言葉をキーワードにしてみてはいかがでしょう。

noname#19556
質問者

お礼

優れた人は 静かに身を修め 徳を養う 無欲でなければ志は立たず おだやかでなければ 道は遠い 学問は静から 才能は学から生まれる 学ぶことで才能は開花する 志がなければ 学問の完成はない 私の一番好きな文ですが、ここでの 無欲、静の意味がいままでわかりませんでした。 自分なりに、どうせ社会の秩序を守るために言ってるだけだろうとおもいました。 だけど老子に出会いやっと意味がわかりました。 後、自分が尊敬してる人で如水と名を変えた人もいました。自分が好きで尊敬している人もみんな、老子の思想をとりいれていることに気がつきました。これもなにかに奇妙な一致をしているのではないかと思います。なにかを自分にきずかさせるためにと思うことにします。

noname#118935
noname#118935
回答No.7

宝くじだって、当たる人は当たりますからね。当たらないひとのほうが圧倒的に多いけど。 だから、あなたの場合も、宝くじに当たったようなものなんです。そして、宝くじ同様、当たらなかった(その本を読んでなかった)ひとのほうが圧倒的に多かったでしょうけど。

noname#19556
質問者

お礼

大変参考になりました