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瀕死の病人
トルコは瀕死の病人と言われるようになったのは、いつからですか?またその理由はなぜですか。教えてください。
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質問者が選んだベストアンサー
>東方問題が発生したころから、瀕死の病人と言われるようになったと考えてよろしいんでしょうか。 ごめんなさい。少し省略しすぎたかもしれません。 東方問題の最初と言われるのが1736年の露土戦争。 しかし、まだこの頃はまだ「外圧」にすぎず瀕死の病人とは言えないのです。なぜならオスマン帝国内の指揮系統は弱体化したとはいえまだ機能していたからです。 実際に瀕死の病人と呼ばれるようになったのは、ギリシアとエジプトの独立後1830年代からです。 外からの圧力(東方問題)、内からの圧力(民族自決の機運)が、オスマン帝国の大きな特徴であった強力な中央集権体制を無力化させ、それが顕在化したのが上の二つの事例になるわけです。
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- sudacyu
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質問者のNo1の回答に対する >東方問題が発生したころから、瀕死の病人と言われるようになったと考えてよろしいんでしょうか。 との認識は、まさに正解です。 アジアの専制君主国家に比べて人口の少ないヨーロッパ諸国は、長い間劣勢でした。(国力=生産力=人口) ところが、ヨーロッパ諸国は産業革命(これによって、人口と国力の=の関係が成立しなくなりました。)を通して、世界史の中で列強と呼ばれるほど、国力を急激に伸ばしたのに対し、生産物の価格競争で負けたアジア諸国は、原材料の生産地・生産物の消費地となり、富を失っていきます。 こうして、欧米列強はヨーロッパに隣接した、広大かつ弱体化したトルコ帝国の領土を切り取り、自国の支配下に置くことを目指し、互いに争うようになりました。 「瀕死の病人」であるからこそ、自国が取らなければ簡単に他国のものになってしまうと考えた列強は、お互いに自国の支配下に置こうとして争ったのです。 これが、正に「東方問題」の起きる根本的原因です。
- pius
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19世紀からです。 16世紀スレイマン大帝以後、オスマン帝国は緩やかな衰退の道をたどっていきました。そして長年のライバルであった欧州諸国が近代化していくにつれ、国力差が決定的となりました。 18世紀末にはロシアがクリミア半島を領有しました。 19世紀に入ると、このような外圧が一層強まりいわゆる東方問題として列強の進出を招きます。一方でムハンマド・アリーのエジプト独立・ギリシア王国独立など帝国は内部から分裂していき、中央政権の指示系統は機能しなくなります。 それでも、アブデュルメジト1世のタンジマートやミドハト・パシャによるミドハト憲法制定などで帝国を立て直そうとしますが、結局手遅れでした。 まさにその手の施しようがなくなったオスマン帝国を例えて瀕死の病人と言ったわけです。
お礼
ありがとうございました。 東方問題が発生したころから、瀕死の病人と言われるようになったと考えてよろしいんでしょうか。
お礼
よくわかりました。ありがとうございました。