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1980年末期に中国はなぜ革命が起きなかった?
この年代はチェコスロバキアやポーランドなどの社会主義国だった国が革命のような体制を変化させている時代なのになぜ中国はそのまま社会主義で来れたのでしょうか?天安門事件の時に騒動が全土へ行かなかったのではなぜでしょうか? ふと思ったことなので皆さん知っていらっしゃるかもしれませんが教えてください。 よろしくお願いします。
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それは鄧小平のやり方が巧妙だったからです。鼡を取る猫はいい猫たということで、お金を儲ける人間はいい人間という、経済開放政策を採り、これに民衆が支持を与えたからです。途中で天安門事件という、中国共産党にとっては危ない事件がありましたが、これは徹底的に弾圧しました。しかしそれが成功したのは鄧小平の政策を民衆が支持していたからこそでした。 弾圧で政府が持ちこたえられるならソ連だってルーマニアだって、東ドイツだって持ちこたえられた筈です。決定的な違いは民衆の支持です。これは鄧小平が毛沢東の側にいて学んだことなんですね。毛沢東のやり方はとにかく民衆の支持を梃に使うことでした。文化大革命も同じ手口でした。
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- IXTYS
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1989天安門事件が東ヨーロッパの民主化とソ連崩壊の直接的な動機となったのは紛れもない事実である。 それなのに、何故お膝元の中国だけが、のうのうと社会主義を謳歌しているのか。 私は1987年と2002~2003年にODAの仕事で中国を訪問した。 はっきりいって、中国は変った。 どこを見ても社会主義の面影は見えない。 ホテルの経営権は完全に香港に支配され、従業員訓練も資本主義のやり方が浸透しつつある。 香港を吸収した積りが、香港に支配されつつある。 中国共産党に資本家も入党できることになっている。 資本家階級から党の最高幹部が生れるのも時間の問題である。 この国から一党独裁の火が消えるのも時間の問題である。 私はODAのコンサルタントとして、数ヶ月間、中国の新彊ウィグル自治区の省都に滞在した。 省一の大病院の医師達に英語会話を教える羽目になった。 この国の医学部の入学試験に英語は大きな比重を占めている。 教科書は全部英語で書かれているからである。 というか、原書でないと先進の医学は学べなくなっている。 だから彼らは英語の習得に必死である。 この国が開放されるのも時間の問題だとわかった。
- IXTYS
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> 1980年代末期に中国はなぜ革命が起きなかった? これは大変良い質問です。 何故なら、1989天安門事件が数多くの政変事件政体の変更を生み出したのに、肝腎の中国が何一つ変らなかったのです。 今も強い締め付けが行なわれていると想像されます。 あの事件の直後、国際アムネスティという民間の団体が中国の李鵬首相に抗議の書簡を出しました。 簡易便箋に英語、中国語、母国語からなる抗議の手紙です。 我が家も全員書き、6通投函しました。 世界中から百万を越える抗議の手紙が李首相のもとに届き、彼は一時強度のノイローゼになったと聞きました。 しかし、この国の政治体制を揺るがすには至りませんでした。 1989年の6月のある日、東ドイツのホーネッカー首相が天安門事件における中国政府の行動を支持する生命を出しました。 世界中の首脳が沈黙を守っていた時の最初の指示表明でした。 これに一番最初に呼応したのが、東ドイツの国民でした。 『こんな東ドイツには将来はない』と抗議の声が上がりました。 これに素早く反応したのが、ヨーロッパの名家であるハプスブルグ家です。 7月の某日、オーストリア内にあるハンガリー国の飛び地で政治的な意味合いの濃い集会を開催する。 この間はハンガリー・オーストリア国境の検問所は開放するとアナウンスされました。 そこへ、東ドイツの民衆がどっとなだれ込み、オーストリアを経由して、西ドイツへ亡命していったのです。 東ドイツでは大混乱となり、ホーネッカーは責任を取って辞任、後任は民衆よりの政策を余儀なくされ、同年の11月には西ドイツへの渡航許可が出て、ベルリンの壁が崩壊したのです。 その後は東ヨーロッパ各国の一党独裁が崩れ、民主化への道が開かれたのです。 そして最終的にはソ連も複数政党制と大統領制が導入されるに至ったのです。 いわば、中国の1989天安門事件が東ヨーロッパにおける民主化の発端となったのです。 その中国でこのまま何も起らないという事がありうるでしょうか? 私は『まだ起っていない』であって、『決して何も起らない』ではないと思っています。 、
- Willyt
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>No.2の方はどうやって入力したのでしょうか? 漢字はちゃんと用意されていますから、宜しければコピーして漢字登録なさってください。 違反MSGです 確信犯(^_^;)
- sudacyu
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革命の開始は、イデオロギーで起きるのではありません。 近代以後の政治は、多くの場合経済の後追いで動いています。(絶対王政が崩壊し、多数の国民の欲が政治を動かすシステムになったからです。) 政治が変わる前には、経済の流れが大幅に変わっています。経済の流れが変わって、個人の持つ不満が増大し、その集積が政治体制を吹き飛ばすのです。 革命が起こる状況は2つです。 1.多数の国民が生活苦に陥り、食えない・国がなくなっても今以上悪くならないと思ったとき。 2.多数の国民が十分に豊かになり、国がなくても自分は自分の実力で今以上にやってゆけると思ったとき。 多くの国民が今の生活を捨てたい・もっといい生活を作れると思う状況ができれば革命が起きますし、今の生活を守りたいと思う状況の中では、革命は起きません。 チェコやポーランドのように、第二次大戦後自由主義諸国となった国々と国境を接するような国は、第一次世界大戦の前から経済構造が西欧諸国のようになりつつあり、ソビエト連邦となった地域より豊かでした。 鉄のカーテンで仕切られているとはいえ、自由主義諸国に接し、これらの国々が経済発展をして、自分たちよりはるかに豊かになっている状況が良くわかるポーランドやチェコ・東ドイツは、ソ連の軍事力による締め付けがなくなったとたんに、国民の不満が噴出しました。 中国は、軍の締め付けがあったのは他の回答者さんたちのご指摘の通りですが、経済面からのほうが影響が大きく、国民の多くが毛沢東思想による経済・生活の締め付けがなくなり、鄧小平路線で生活が豊かになりつつあったので、同調しなかったのです。 本当に革命が起こる状況では、軍が出動しても起きるものは起きるのが普通です。 これは1970年代の日本の世相と似ています。東大・京大を筆頭に全国各地の大学で学園紛争が起こりましたが、社会全体はかなり冷ややかでした。 エリートと自認する学生が、豊かになったのに伴う社会の歪の解消のため、急進的な民主化を求めたのに対し、社会全体は「緩やかな民主化でよい・豊かさを享受できるので、多少の歪は我慢する。」との姿勢でした。 自由主義国のなかでの急進的民主化=左向きの改革 社会主義国のなかでの急進的民主化=右向きの改革 という根本的違いがありますが社会体制の右左を入れ替えると、その経済状況・社会心理学的構造は極めて似ています。 1970年代、次に革命が起こるのはソ連だと私は言ってきました。下記の<参考>を見てください。 今後の展開として、中国でも共産党一党独裁は必ず崩壊します。 国民が十分に豊かになり、(一人当たりのGDPが5000ドルから8000ドルくらいになったときです。)自分の経済活動・能力に自信を持てば、民主化要求が出てきます。 このとき政権が一党独裁を維持する行動に出れば、事件・革命まがいとなります。 軍がどちらに付くか(ソ連崩壊のときは、軍が民衆側につきました。)が焦点となり、軍が政府を支持すれば混乱は長引きます。 <参考>ソ連における革命 1.理論と実際の矛盾 マルクスの共産主義理論によると、資本家が労働者を搾取して資本の蓄積を行い、労働者に還元しないため、労働者が革命を起こし共産化するのです。 そして、新たに生まれる共産主義社会は、資本主義社会が労働者を搾取して作り上げた資本蓄積を引き継いで発展することになっています。 ところが、実際には資本主義の進んだ国では修正資本主義(資本主義によって得られた利益を、労働者にも分配することによって、資本家と労働者がお互いに妥協点を見出し、革命を起こさない。)が一般化しました。 そして、実際に共産主義革命が起こったのは、農業国から工業国になりかけた、資本家が経営者として未熟で労働者を搾取することしか知らない、資本の蓄積のまだ進んでいない国でした。 これらの国では工業化に際し、農民・労働者を国家が搾取して資本の蓄積を行なうしか方法がありませんでした。ですから、社会が豊かになってくると、労働者が資本家に対してではなく国家や共産党に対して革命を起こす事となりました。(中国はソ連の失敗を見て、経済の資本主義化に方向転換しました。) 2.国際競争 社会主義体制をとった共産主義諸国は、自由主義体制の資本主義諸国と競争することとなりました。しかし、人口・資源・生産力・市場など、経済力は世界の4分の1程度でした。ところが、軍事・技術においては対等の競争を余儀なくされ、共産主義国は無理を重ねました。 社会主義国の盟主であったソ連は、無理を重ねたことで社会に矛盾が蓄積し、経済力がこの競争を支えきれなくなって、崩壊に至りました。 止めは、アフガニスタンと10年間戦い続けたことです。最後には末端の戦線に補給が届かないことが頻発し、「このままの経済体制では戦えない。」と軍首脳が政権と政治体制を見放しました。
- cse_ri2
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革命というのは、リーダーがいなければ絶対に成功しません。 そして、天安門事件当時の民主化運動のリーダーは、ほとんどが北京に集まっていたため、ここを軍隊で制圧された時点で将棋で言えば詰みでした。 また民主化運動をしていた人たちが主に大学生であったため、経験不足で国を相手に効率よく戦うことができませんでした。 革命の種類は違いますが、トウ小平は日中戦争・国共内戦、そして文化大革命を戦って勝ち抜いた革命運動の猛者(もさ)中の猛者でした。 晩年の豊臣秀吉のように、年老いてもうろくしていれば民主化運動側にも勝ち目はあったでしょうが、残念ながらトウ小平は老いても頭の中は正常でした。 言い方は悪いですが、戦う前から既に勝負は既に決着していたのです。 ※トウ小平の最初の一文字が、うまく入力できません。PCから入力するとそこだけ消えてしまいます。No.2の方はどうやって入力したのでしょうか?
- buchi-dog
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「共産党当局が強力な弾圧を行って鎮圧したから」です。 革命と言うのは「反政府勢力が、政府の力を上回った場合」に起きます。東欧諸国の場合、中国よりは社会の進歩の度合いが高く、中国や北朝鮮のような無慈悲な弾圧はできません。軍隊や警察や秘密警察への締め付けの度合い、政権への服従の度合いも中国や北朝鮮の方が高いです。 仮に天安門事件の際に中国共産党が徹底弾圧をしなければ(できなければ)、その時点で共産党独裁は崩壊して何か新しい政治体制になったかもしれません。必ずしも民主化が実現したとは限らず、新しい独裁が生まれ、内戦状態になった可能性もありますが。
- adaypajimy
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政権を誰かの手に渡さないためです。 中国は民主主義が不可能な国だといわれています。共産党なり何かの大組織が卑劣な手を使ってでも牛耳らなければ、中国は成立しない国なのです。鄧小平の言葉をかりれば「(もし民に政治的な自由を与えてしまったら)10万の政治団体ができて、100万の占いとか宗教の集団ができてしまうだろう」あの大陸国家は50以上の民族の上に成り立っていますので、強い勢力が政治的な力をもっていなければ、国家としての形を形成できません。 だからこそ天安門事件にしても、なんらかの政治組織や宗教組織が発生するなり力を持てば、政府は徹底的にぶっつぶします。民に政治的自由を与えたソ連は混乱を引き起こしました。 資本主義的な要素をとりいれるならまだしも…10億以上の民の上に、民主主義的な政治を築くのは、良いか悪い以前の問題として現実的に不可能なのです。 今だって中国のYahooでは、天安門事件を検索にひっかからないような仕組みを国がつくっていて、国が国民の情報をも監視しているのは有名な話ですが…あの国の政治家は、徹底して権力を振りかざすしかない状況なのですよ。