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シニフィアンとシニフィエの基本的なこと
シニフィアンとシニフィエについて、基本的なことがよくわかりません。教えてください。 例えば、音声として発生された「ネコ」は、シニフィアンで、「猫」という観念は「シニフィエ」だと思っているのですが、そうだとすると、疑問は、「具体的に目の前にいる猫」は、シニフィエには成り得ないのかということです。 もう少し具体的に言うと、以下の会話(1)でAが語っている「猫」という音声は、シニフィアンで、それに対する、シニフィエは、一般観念としての「猫」だと思います。これに対し、(4)でBが語っている「そこに座っているその猫」と言う音声は、全体として、シニフィアンと考えて、「目の前に具体的にいる猫」がシニフィエと考えていいのでしょうか? それとも、やはり、シニフィエは、具体物では有り得ないのでしょうか? (1)A「君のところは、猫を飼っているの?」 (2)B「飼ってるよ。」 (3)A「どんな猫?」 (4)B「そうだねー、黒と白の混じった....、あっ、今、そこに座っているその猫とそっくりだよ。」
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#1,3,5です(長くなってきた)。 >イスやネコと違って、幸福については、人類共通の理解がない >シニフィエの「個人性」を意味する >結局、言語の破綻ではないでしょうか? イスやネコに「人類共通の理解」があるかどうかも不明ですけどね。 私にはイヌとオオカミの区別はつきません。 植物の種類なんてさっぱりです。 魚と言ったらタイですか、マスですか、ウナギですか? イスはどこからどこまでがイスでしょうか? 石が風雨によって削られ、イスのような形(?)になったらイスでしょうか? みんながそれに座るようになったらイスでしょうか? ウチに持って帰って室内においたらイスでしょうか? 核となる意味(プロトタイプ)がある程度一致してたらよしとしておいて、細かいところは知識や推論などで補えばよろしい。 コミュニケーションは言語だけで行われるものではない、というのは#8さんのおっしゃるとおりです。 コミュニケーション全般に使える完璧な道具を脳内に備えるよりも、ある程度不完全でも単純な道具(言語や推論能力など)をいくつか組み合わせて使う方に、人間は進化してきました。 誤解は生じるかもしれない、訳が分からないと言うこともあるだろう、でもそれは受忍限度内だと思うしかないですね。 #わたしはチョムスキーは寝転がっても読めますが、 #ヴィトゲンシュタインは唐人の寝言です。 #でも受忍限度内です。 #ちなみに「変人度」でいえば、ヴィトゲンシュタインのほうがソシュールよりもはるかに上です。
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- yajiro-bay
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シニフィエとシニフイィアン、どっちが、「聴覚映像」だったか、なかなか覚えられませんね、記憶に残らないのは、重要性が低いのだろうと、本能を信じているオバカさんです。 ご回答に対するお礼などを拝見すると、ソシュールの言う「ラング」と「パロール」の区別が、まだ曖昧なのだろうか、といった印象を受けました。なぜならご質問者は「会話」を例にあげておられます。「会話」には、語の意味とは別に、場の意味、会話の前提、等々、言語以外の表情やゼスチャーが絡みます、此処では、言語の正確な意味より、「あれを、あっちで、これ、お願い」で成立する事もあるのでは。 シニフィアンとシニフィエに関しては、お見事な回答がすでにありますから、屋上屋を架ける事も無いでしょう。 ソシュールからチュムスキーに至る言語学は、従来の比較言語学等の対象である「発話された言葉」は恣意的で、言語の本質を扱うに為には、一線を画すことを主張しているのではないでしょうか。つまり、言語学の対象は「言葉」でなく「言語」(ラング)だという事。人間や人間集団の脳のなかにある言語は、地域・民族により、「諸言語」の「言葉」は違ってくるが「言語」の本質は普遍的に同一なのか、それを問題にするのではないでしょうか。私の感想で表現すると『現実の表象を人間の脳が諸感覚を利用し言語的に分節・構成する形式は同一なのか?』おっと話がソシュールから脱線しました。 尤も、言語が現実に対応していない、言語は現実の名称目録で無いとする立場も一つの立場ですし、従来の言語学が無用なわけでもありません。 蛇足ですが、ソシュールは変人らしいです(笑。主著と言われる「一般言語学講義」も後で編集されたものです。 チョムスキーは難解ですが、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」が面白そうですよ。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >「ラング」と「パロール」の区別が、まだ曖昧なのだろうか、といった印象を受けました。 「ラング」と「パロール」の区別が曖昧なのか、それとも、「パロール」と「エクリチュール」の区別が曖昧なのか、私には、よくわかりませんが、いずれにしても、シニフィエは現実界の具体物を直接指示するわけではないので、シニフィエと現実界の具体物を結合するのは、非言語意識(直観)の働きなのだろうと思うようになりました。 >言語学の対象は「言葉」でなく「言語」(ラング)だという事。 言語学の対象が何であるかはわかりませんが、「常に変化する現実世界」に柔軟に対応するためには、パロール先行で、ラングを変革するしかないと思います。 >言語は現実の名称目録で無いとする立場も一つの立場ですし、従来の言語学が無用なわけでもありません。 これについては、別スレで、<「言葉は物の名前である」は何故間違いか?>の質問をさせていただきました。よろしくお願いします。
フランス語で考えると難しいです。 シニフィアンというのは、sound imege シニフィエというのは、concept のことです。 目の前の具体物はシニフィエではありません。
お礼
そうですね。#1,3,5さんが、おっしゃっていることですね。ご回答ありがとうございました。
晴耕雨読ということで 畑に行ってトマトだやららら茄子だやらららピーマンやららら採ってきて夕飯に備えたら言語破綻の前にしあわせ~な気持ちが湧いてきそうだな.
お礼
そうですね。そんじゃまかさ、かんじゃまかさ、おまけに、どんじゃまかさで、ありがとうございました。
#1,3です。 ややこしすぎると、単なる観念的な遊びになってしまいそうですね。それはそれでいいかもしれませんが。 >知覚像も概念の一種と考えておられますか? 言葉を定義なしに使うからいけない。(反省) 「概念」でも「知覚像」でも何と呼んでもいいのですが、とにかく言語外現実とは別物の、頭の中にある「心的イメージ」「心的存在」です。 脳の中に「知覚機能」と「言語機能」が別個に存在しており、さらに「統合機能」(意識?)があるとすれば、言語と外界との関係はかなり間接的となります。 その意味では >具体的な「猫の知覚像」は、”言語機能を通してではなく”、意識の働きによって、「猫の概念」と結合されるということになる といえるでしょう。 >客観的現実を全く無視して成り立つことはないのではないか 言語記号は言語外現実に対応物があっても構いませんが、必ずしもその必要はありません。 kobarero さんは名詞のことをお考えのようですが、そもそも名詞・動詞・形容詞・助詞などの区分に言語外の根拠などありません。 ヨーロッパ諸語の多くは理由もなく(?)疑問詞を文頭に動かします。SVO か SOV かという語順にも外界の理由付けはありません。 つまり言語機能をほとんどは、「客観的現実」とは無関係に存在しています。一部の名詞にたまたま外界に対応物がある(ように思っている)だけです。
補足
ご回答ありがとうございました。お陰さまで、自分なりには、非常にクリアになりました。せっかくですので、私の理解を以下に整理しておきました。もし、間違っていたら、ご指摘ください。2つの場合に分けて考えた方がより明確になると思いました。 (1)外界の対応物がある場合: 「ちょっと、そのイス取ってよ」と言ったとき、相手がちゃんとイスを取ってくれた場合の「イス」というシニフィアン。この場合は、以下の3つを考える必要がある。 (1)シニフィアン: 「イス」という音声の抽象化されたイメージ (2)シニフィエ: 「イス」の概念 (3)外界の対応物: 「現実界のイス」 ここで、(1)と(2)は、言語の働きで結合するが、(2)と(3)は、言語の働きではなく、直観的(?)意識の働きで結合するという風に理解しました。 (2)外界の対応物がない場合: 「キミにとって、幸福とは何か?」と言ったときの「幸福」というシニフィアン。この場合は、言語外の客観的対応物がないので、以下の2つだけで説明ができる。 (1)シニフィアン: 「幸福」という音声の抽象化されたイメージ (2)シニフィエ: 「幸福」の概念 そして、この場合は、「幸福」の概念、すなわち、「幸福」のシニフィエは、人によって異なるという大問題があると思います。そのため、イスやネコと違って、幸福については、人類共通の理解がないのだと思います。しかし、これは、真面目に考えると、シニフィエの「個人性」を意味するので、結局、言語の破綻ではないでしょうか?
又お邪魔します。 気分転換で読んで下さい。 記憶は覚えた、所得したイメージの再現という現象で、 本来はこの現象といういうものの方が 主観で納得するものであるかも。 所有は人間以外の者(生命体を含むあらゆる物質)が 他の自然に対してまで所有の権利を主張し 悩んでないからです。 動物も本能的に威嚇したり防御するものの、 義務感でしていないようなのだから。 人間だけが自然の存在にまで義務を負うという 精神活動があると思います(違うかもしれませんね)。 ネコの原子も自然から一時的に借りているもので、 精神も肉体に付随するものとして、 自然からの借り物ですよ。 だからネコの存在も、 「ネコ」と発せられた音波の現象も、 自然の精神内(謎)での流れの一部 という見方はどうでしょうか。 >潜在的権利を主張して、「ボクのものはボクのもの、アナタのものもボクのもの」と言い出すと、混乱するので、法律を定めて、便宜上の交通整理をしているのではないでしょうか? アナタが所有したものを、ボクは見て満足するなら 主張して責任をとる義務もなくなるので、 主張しないで納得するなり、 満足するなら楽になりますよ。 だから結婚という隷属の形式を選択するより、 お互い独身なままで楽しくいる関係もあって、 所有を主張しないのが便宜でもズルイのではなく それで満足しているからで。 法律は満足を保証する為にというより、 所有権を守るためにあるような気がします。 話しが命題から反れてしまっていそうですが、 反れてますね? 実は私も言っててよくわかりません(逃)。
補足
ご回答ありがとうございました。 >本来はこの現象といういうものの方が主観で納得するものであるかも。 私にとっては、現象以外には何もないように思います。 >人間だけが自然の存在にまで義務を負うという精神活動があると思います(違うかもしれませんね)。 それは、人間だけが世界を現象化するせいではないでしょうか? すなわち、この世界全体が「我が心の中の現象」であり、すなわち、「我自身」だと思っているのではないでしょうか? 少なくとも、自分の体は、自分のものだと普通の人は思いますよね。自分の体の範囲は何を根拠に決めるかというと、神経が到達している範囲と考えるのかも知れませんが、それだと、髪の毛や爪は自分のものにならないので、実は、神経の到達範囲なんかではなく、この世界全部が自分の一部だと心の底では思っているのではないでしょうか? だから、自然を大切にしましょう。 >「ネコ」と発せられた音波の現象も、自然の精神内(謎)での流れの一部という見方はどうでしょうか。 「自然の精神内(謎)での流れ」=「我が心の世界での流れ」なのではないでしょうか? だから、自然を大切にしたほうが、やはりよさそう。 何が何だかわからなくなりました。 シニフィアン「何が何だか」のシニフィエは何でしょう? 「何が何だか」の概念でしょうか? 自分で支離滅裂な文章を書いていて気付いたんですが、シニフィエなきシニフィアンっていくらでもありそうですね。思わせぶりなシニフィアンを勝手に作って、受け手に、いかにも重要なシニフィエがありそうだと錯覚させるというのも面白いかも知れません。例えば、「自然精神の内在化」というようないい加減なシニフィアンを私が作ったら、それに対応するシニフィエを想像できますか?
#1です。 だんだんややこしくなってきましたね。 こういうのは言語哲学者の大好きなテーマではあるんですが。 さて、 >「そこに座っているその猫」というシニフィアンが >直接指すもの というのがくせ者です。 シニフィエそのものは頭の中にある「概念」であり、具体性はありません。 ではシニフィエと「言語外現実」の「指示対象」とはどういう関係にあるのか? 言語外現実は境目のない連続体をなしたカオスであり(ひよことニワトリの境目は? 親族はどこからどこまで?)、それを言語というシステムによって区分けしたものが記号である。 なお、その区分け自体には根拠はない。色は何色に分けてもよいし、姉と妹を区別する必要もない。 根拠は不要であればこそ、抽象概念も操ることができる。言語は現実とは独立して存在するのだ。さらに言えば、我々が「現実」と呼んでいるものは言語によって構築された仮構物(心的存在)に過ぎない。 シニフィエは「指示対象」ではなく、現実とは無関係に成立しうるものである。その意味であれば、 >まさに目の前にいる具体的なその猫を >指しているのではない。 したがって、 >「言語によっては、結局、具体物を直接指示することはできない」 そのとおりです。
補足
ご回答ありがとうございます。 おっしゃっていることは、一応(?)わかったような気がしますが、再び、新たな疑問が沸いてきてしまいました。 よろしければ、教えてください。 <疑問1> <シニフィエそのものは頭の中にある「概念」であり、具体性はありません。>とおっしゃっていますが、ここで言う「概念」という言葉の意味が、今ひとつはっきりしません。というのは、私が「そこに座っているその猫」と言うとき、意識にあるのは、「猫の概念」というよりは、「猫の知覚像」です。知覚像は、具体的であるが故に、概念ではないような気がするのですが、知覚像も概念の一種と考えておられますか? それとも、「猫の知覚像」とは別に、意識の中に、「猫の概念」を思い浮かべているということでしょうか? もし、そうだとすると、具体的な「猫の知覚像」は、”言語機能を通してではなく”、意識の働きによって、「猫の概念」と結合されるということになるのでしょうか? <疑問2> <シニフィエは「指示対象」ではなく、現実とは無関係に成立しうるものである>についてですが、ここで、「無関係」というのは、「切り取り方が無関係」という意味と解釈して良いですか? この疑問の意味は、「無関係」とは言え、客観的現実を全く無視して成り立つことはないのではないかという意味です。例えば、天空にある無数の星を見て、どの☆とどの☆をどう結びつけて一つの星座と見るか(そして、その星座を何と呼ぶか)には、恣意性がありますが、一個一個の☆の位置まで、言語が勝手に決めることはできないという意味では、恣意性はないと思うのです。 ややこしくて、済みませんが、よろしくお願いします。
難しい質問で答える能力もないのにお邪魔します。 音声による「ネコ」は共有するデーター(記憶) があるから通じるのですが 空間と区別されるべき異なる抵抗を有する 「具体的?なネコ」というのも、 主観で都合良く解釈したネコであるでしょう。 必ずしも 部分のデーターの総和が全体を示すもの になるとはならないで 全体は部分の総和以上を含んでいそうですもの。 ネコとCatでは唯一の同じものを示していたとしても 違う言語、音声信号であるが、 同じ空間に位置する他の空間と区別されている のが確認されている点において 理解し合えるものになります。 言語は所有できないものの一つと思いますが、 物質的な存在は所有したくなればすることも出来ます。 所有するということは責任が付随しますから 言語というものが所有できないものであるから 責任をとる必要もないのではないか? ということで 「シニフィアンとシニフィエの基本的なこと」 など全然知りませんでした。 それに調べてもいません。 これには自信と責任を持てます(笑) しかしとにかくあてずっぽで書いてみました。 (削除可)
補足
ご回答ありがとうございます。 猫は特定の空間を占める物質であるという前提がありますか? 猫は分子や原子や電子でできていることになっていますが、その分子や原子や電子は、実は、精神に直接作用を及ぼす数学的関数なのではないかと最近思うようになりました。もし、そうだとすると、猫は、物質でないばかりか、精神の外にある何者かでさえなく、結局、精神内出来事ではないかと思えるのです。 ただ、ちょっとひっかかるのは、もし、精神内出来事なら、私と他の人が、同じ猫を見ることができるのは何故かということですが、それは、多分、私と他の人が、同じgooの画面を見ることができるのと同じではないかと考えています。 ですから、「言語というものは所有できないが、物質的存在は所有したくなればすることも出来ます」について考えてみると、物質的存在なるものが、精神内出来事であるとすると、潜在的には、初めから所有していると考えられるように思います。ただ、その潜在的権利を主張して、「ボクのものはボクのもの、アナタのものもボクのもの」と言い出すと、混乱するので、法律を定めて、便宜上の交通整理をしているのではないでしょうか? 自分で書いていても、何を言っているのかさっぱりわかりませんが、なんとなくこんな感じです。
シニフィエであれシニフィアンであれ、具体性はありません。 シニフィアンは実際の音声ではなく、「聴覚映像」です。 シニフィエは具体的な事物ではなく、頭の中の「概念」です。 実際の発音は人によって違うし、同じ人でも物理的に全く同じ音声を発することは不可能です。あくまで頭の中にあるイメージ(映像)に過ぎません。 具体物といっても、正円や正方形は存在しません。ましてや「一角獣」「シニフィエ」「理論」といった想像上のものや抽象物は存在し得ません。あくまで頭の中の概念です。 さて、ご提示の会話ですが、「猫」はすべての場合において共通の概念を表し、シニフィエは共通です。 ただ、(1A)の「猫」は不定(indefinite)でかつ不特定(unspecific)の「猫」です(一般観念ではない!)が、(4B)の「猫」は定(definite)でかつ特定(specific)の「猫」です。 個々の単語の意味・シニフィエが文脈の中で広がったり狭まったり、あるいは全く別物になったりするわけです。つまり、意味・シニフィエは固定したものではないし、変化もするものだ、ということです。
補足
ご回答ありがとうございました。 >シニフィエであれシニフィアンであれ、具体性はありません。 シニフィアンについては、よくわかりました。シニフィエについては、新しい疑問がわきましたので、よろしければ、教えてください。 (4B)の「猫」は定(definite)でかつ特定(specific)の「猫」であることは、わかりますが、それにも関わらず、「具体性」はないとおっしゃっているのだと思うのですが、「具体性」がないという意味は、以下のように理解してもよろしいでしょうか? Bが発話する「そこに座っているその猫」というシニフィアンが直接指すものは、一般的な「そこに座っているその猫」のことであって、まさに目の前にいる具体的なその猫を指しているのではない。 なぜならば、「そこに座っているその猫」というシニフィアンは、「今、ここで、B」が具体的に発話した音声を指しているわけではなく、「色々なときに、色々な場所で、色々な人」が具体的に発話するであろう全てに共通した音声イメージを指しているので、その結果、そのようなシニフィアンに対応したシニフィエも、「今、ここで、B」が示す具体的な猫に対応しているのではなく、「色々なときに、色々な場所で、色々な人」が指す具体的な猫(ども)に共通のイメージを指しているから。という理解でよろしいでしょうか? そして、もし、そうだとすると、大変面白い結論になるような気がします。それは、「言語によっては、結局、具体物を直接指示することはできない」という結論になりそうですが、そう理解してもよいでしょうか?文字の場合は、その通りのように思いますが、音声の場合、あるとき、ある場所で、ある人によって話された言語の場合は、具体物を指すものと思っていました。
お礼
色々、教えていただき、大分理解が深まりました。 改めて、別スレで、<「言葉は物の名前である」は何故間違いか?>の質問をさせていただきましたので、そちらも、よろしくお願いします。 たびたび、ありがとうございました。