漱石はいま読んでおいて損はないと思いますよ。
面白いと思うか思わないか、それは分からない。でも五年十年と経ってから読み直してみると、その素晴らしさに感激すると同時に、自分がちゃんと経験に学びつつ成長してるんだ、ってことに合点がゆく、かもしれない。それと、大人になった自分が、漱石を読みながら中学生だった自分をまざまざと思い出すことができる、かもしれない。中学生である、ということがどういうことであったかを。
さて、漱石が専業作家として活動した日々は僅々十年足らずでしたが作品の数は少なくありません。そしてほとんど全てが傑作です。でも中学生に奨められるのは、ふうむさて、まず次の三つかな。
一。『夢十夜』と『永日小品』。この二つの小品集はたいてい抱き合わせになってるはずです。幻想的なものがお好き、短かさの中の工夫もお好き、ってことなら、最初の漱石はこれがベストでしょう。文体も平明でありながら、とんでもない魔術・曲芸も随所に繰り出してきます。じつに素晴らしい。夢十夜はぜんぶ「こんな夢を見た」で始まります。つまりみんな夢の話で十本。第三夜がその極端な恐ろしさ、悪夢の佃煮のような忌まわしさで有名ですが、第一夜は漱石が冒頭に据えただけのことはある悲しくて美しい大傑作です。永日小品は『昔』という短篇の書き出しがもうなんともこの、たまりません。
二。『漱石書簡集』。もし漱石って面白そう、と思ったら、漱石本人がどんな人だったかをこれで探ってみましょう。それにはもううってつけの本です。漱石が書いた手紙を集めたものです。これがまたどれもこれも、本当にいい手紙なんだ。こんなの貰えたらどんなに嬉しいだろうっていう。漱石は本当に心の優しい人で、今もこれほど人気がある一番の理由はそれなんだろうと思います。最初のほうの親友正岡子規が相手のものは文語体なので後回しにしましょう。でもこれが実に実にいい手紙なんですけどね。(読まされた本のくだらなさに激怒して送りつけた抗議文なんか最高です。)
三。『坊っちゃん』。これはご存知でしょう。でも、これほどの人気作でありながらこれほど誤解されてる作品も少ないかもしれない。
これは中学校が主な舞台なので子供むけと思われているようですが、大人にならないと分かりにくい深い悲しみと苦さに貫かれています。これ、若くて正義感にあふれた中学教師があれこれ無茶をしてかす痛快作、って、いや、書いててほんとにそんなことを思う馬鹿がいるのかと思うけど、そう思われてるらしくて。
これが映画化されると、主人公は二枚目(たとえば三浦友和)が演じるんだけど、この坊っちゃんを演じるに一番ふさわしいのは柳沢慎吾だ、と喝破した人がいて、そう主張する一文を読んだとき、私は「その通り!」と絶叫しました(心の中で)。
それはともかく、この『坊っちゃん』って、これまた気付いてる人は少ないようだけど、遠距離恋愛の話なんですよ。どんなわけだか好きで好きでどうしようもない二人の男女がよんどころなく遠く別れて、また一緒になる、という。
ただその二人ってのが若いおっちょこちょいの男としわくちゃな小さいお婆さん、ってことになってるんでこれがずいぶんと深く激しい純愛物語だということにみんな気が付かない。でも二人が交わす言葉、態度、行為、みんなみんなこれはもう愛し合う若い男女のものですな。(漱石はたぶんそんなのをまともに、普通に書くのは照れくさかったんでしょう。)
これの最後の一ページの見事さと悲しさはちょっと他に比べるものがないかもしれない。最後の最後、締めくくりの一文は「だから」で始まります。この「だから」を見逃してはいけません。この「だから」くらいに優しい、情のこもった接続詞が使われたことは日本語の歴史の中にない、というようなことを井上ひさしという小説家がどこかに書いていました。その通りだと思います。
現役の作家の作品なら酒見賢一の『後宮小説』が、まず間違いなく楽しめると思います。娯楽と文学の間、だいぶ娯楽寄りに位置する名作です。アニメにもなりましたが、この楽しさは映像化すれば消えてしまうと信じてそれは見ていません。中学生くらいの年齢の女の子が主人公です。
ただし、いま文学畑でいちばん面白い文章を書くのは町田康で決まりでしょう。文学、とはなにかを知りたかったら挑戦してみてください。
お礼
たくさん教えてくれてありがとうございます! 今、図書館でチラッと「坊ちゃん」を見かけたので、借りて少しずつ読んでいます。 まだたいして読み進めていませんが、二人の男女というのは主人公と下女のことですか!? ちょっと驚いてしまいました。 純愛物語ということをちょっと意識して読んでみようと思います。 「後宮小説」は以前から気になっていた作品です。 「十二国記」にハマっていたので、同じ年代の少女が主人公のものを探していたのです。 回答、ありがとうございました!!