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愛妻家? 恐妻家?
歴史カテで良いのか分かりませんけど、 日本史世界史問わず、歴史上愛妻家、恐妻家だったとされる人物はだれでしょうか? ※山内一豊は愛妻家だったのか、恐妻家だったのかが気にかかりました。 何しろ世継ぎがいないのに側室を持たなかったというのが珍しい(類を見ない)と思います。
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恐妻家 ソクラテス 有名すぎて解説の必要なし?(実は愛妻家では? という話もありますが) 隋の文帝(楊堅) もともと妻の独孤氏のほうが家格が上だったということもあり、全く頭が上がらず。側室を持つことすら許してもらえません。こっそり会っていた愛人の存在がばれてしまった(愛人は斬られた)際には皇帝なのに家出をしました。その後宰相に叱られて戻ってきますけど。 後梁の朱全忠 唐にとどめをさした朱全忠も恐妻家で、出かけていても妻に呼ばれると必ず途中から引き返したそうです。 ビザンツ帝国のベリサリウス ヴァンダル王国や東ゴート王国、ササン朝ペルシアなどを撃破しまくりビザンツ帝国の版図を最大にした、世界史上でもおそらくトップクラスの軍事的才能を持つ彼ですが、これも妻アントニナには頭が上がらず、浮気されたり自分の部下を妻が勝手に罰しても文句一つ言えないありさまです。 ユスティニアヌス1世 ベリサリウスの主君だったこの人も皇后テオドラに尻に敷かれたような格好です。民衆の反乱があったときユスティニアヌスは逃げようとしていましたが、彼女が「逃げるくらいなら死ぬほうがまし」と叱咤したので思いとどまりました。結局反乱はベリサリウスに鎮圧されるんですが、もし逃げていたら国が失われていたかもしれません。 愛妻家 プロイセンのビスマルクとモルトケ 当時最強のコンビですが両方ともかなりの愛妻家で、モルトケにいたっては二十以上も年下の妻を娶り、彼女が夭折したあとは独り身を貫きました。 薩摩の島津義弘 朝鮮に出兵していたとき戦場で妻からの手紙を心待ちにしていたそうです。 南宋の韓世忠 奥さんの梁紅玉も女将軍として有名です。もとは町の芸妓さんが軍人の彼に惚れて押しかけ女房、一緒に金軍と戦いました。
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- tachiuo
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有名な恐妻家で、この人が挙がっていませんね。徳川秀忠。妻の「お江与」(おごう、崇源院)は秀忠の姉さん女房で、織田信長の姪にして茶々の妹です。恐妻家秀忠は、奥さんが怖いので側室を囲うこともままならず、唯一浮気をして出来た子が保科正之(甥である4代家綱の補佐役となる)です。 でも、恐妻家はイコール愛妻家でもありまして、秀忠はお江与との間に2男5女を儲けております。 これは、昭和天皇と同じですね(そのうち二女は夭逝ですが)。昭和天皇も愛妻家だったのでしょう。 昭和天皇というと、皇女ばかり4人続けて生まれるので、側室を取ることを周囲に勧められ(当時は、制度としてはまだ存在していました)、これを断固拒否したため、皇室の側室制度廃絶につながったのです。 おまけ。現在の恐妻家として思い浮かぶ人々。括弧内は妻。田中直紀(田中眞紀子)、峰竜太(海老名美どり)、川崎麻世(カイヤ)、野々村真(坂上俊恵)などでしょうか。
お礼
No.4さんが初めに挙げてくださったようです。 愛妻家でもあり恐妻家でもあった感じですね(^^) 昭和にもまだ側室制度があったのですか! びっくりです。 現在の恐妻家についても、ありがとうございました。
- phantom1
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いささか偏執的な愛妻家として細川忠興が有名ですね。どこまで本当かは知りませんが、妻で明智光秀の娘の玉(ガラシャ)を他人が見るのも許せない程に溺愛したらしいです。関ヶ原の戦いの際、長男忠隆の妻が玉を助けずに逃亡した事(玉は屋敷で自害)に怒って、夫の忠隆を追放してしまった(妻は実家に帰された)そうです。非常に激しい性格の人だったようですね。 恐妻家のほうでは、最後のロシア帝国皇帝ニコライ二世などはどうでしょう。気性の激しい妻のアレクサンドラ皇后に頭が上がらず、政策の事でも皇后の意見に引き摺られる事がしばしばだったそうです。こちらは性格的に弱い人物だったようです。ある意味愛妻家でもあったのでしょう。
お礼
細川忠興がそんなにすごい愛妻家だったとは知りませんでした。 ガラシャは美女だったそうですけど、悲劇の女性は美女扱いされることが多いようですから 本当は分かりませんけど、明智光秀の血筋は品のある美貌の血筋とも聞いたことがあります。 本当であれば、その血を引いてきれいな女性だったのかもしれませんね(^^) ニコライ2世は確か恋愛結婚ではなかったでしょうか? 従姉妹か何か血縁関係があったアレクサンドラに好意を寄せていたという お話を読んだことがあります。プレゼントをしたこともあるとか。。 どうもありがとうございました!
恐妻家 徳川秀忠--正妻は浅井長政の三女小督。 将軍でありながら側室は少なく、庶子も保科正之のみ。 徳川綱教--紀州藩3代目藩主で、正室は綱吉の娘、鶴姫。 将軍の娘を妻にしたので、側室ももてなかったとか。 足利義政--軟弱将軍で有名、側室の今参局に翻弄され、妻の日野富子に翻弄された人生。 愛妻家 浅井長政・柴田勝家--妻は同じく織田信長の妹、市。 両人とも愛妻家として知られる。 吉川元春--毛利元就の三男、妻は熊谷信直の娘、新庄局。 「蓼食う虫も好き好き」といわれる醜女だが、夫婦仲はよかった。 玄宗皇帝と楊貴妃--白居易・長恨歌で有名なので、言うまでも無いでしょうけど >天にありては願わくは比翼の鳥となり、地にありては願わくは連理の枝とならん
お礼
将軍の娘を妻にしたら、側室はもてませんよね(^^) 織田信長が怖かったから、というよりお市の方が絶世の美女だったから、 妻を大切にしたのでしょうね~ どうもありがとうございました!
- caesar-x2
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世継ぎがいないのに側室を持たなかったという事実だけで 愛妻家だろうか恐妻家だろうか、と考えるのは早計です。 山内一豊自身が不妊症であった可能性もありますから。 豊臣秀吉にしてもそうですが、不妊症はそれほど 珍しい症状ではないです。 原因はさまざまですが、遺伝的要因以外にも 性病などが原因になることは非常にありえます。 事実はどうあれ、自分が種無しだと思っていたら 側室を作るはずがありません。 子供が出来ないのがわかってるなら妻以外には 愛人で十分なわけですから。 日本で恐妻家で有名なのは源頼朝かな? 愛妻家と言われる人はかなりいますね。 実際仲がよかったかどうかは本人たちにしかわからんけど。
お礼
詳しいご回答ありがとうございます(^^)! 女の子が産まれて幼くして亡くなっているそうですので、 まったくの不妊という訳ではなさそうです。 種無しや包茎はヨーロッパでは結構聞きますけど、日本史上はあまり聞きませんね。 (隠していたのかな…?) 北条政子は確かに女傑だと思います(^_^)
- PENPENMAKKY
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秀吉に取り立てられるまで400石しか所領がないのですが… 江戸末期の文献ですが、100石以上500石未満は生活が困窮するのだそうです。家の格式上人を雇わねばならず、それが家計を圧迫するのだそうです。 そんな状況にある人物が側室を抱えられると思いますか?
お礼
ご回答ありがとうございます(^^) つまり貧乏で?余裕がなかったということですね。
お礼
たくさんありがとうございます。(何だかアンケートのようですけど^^) 朱全忠も韓世忠も、田中芳樹の小説で読んだ(目にした)ことがありますけど、 朱全忠情けないですね。。