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頑張らねばという気持ちが強く物事を楽しめない
うまく言えないのですが…、「楽しむ」という感覚が分からなくなってしまい悩んでいます。 同僚に「どうせ仕事するなら楽しくやらなきゃ」と言われ目からウロコでした。仕事や勉強とは辛く厳しいもの、それに負けずに歯を食いしばって頑張るもので、それが自分の糧となり自信に繋がるのだと信じ、そういう気持ちを支えに今までやってきていました。 思えば遊びや飲み会、恋愛なども含めた一般的に「楽しいもの」についても心から楽しめた覚えがなく、常にどこか自分の「修行」として頑張らねばという感覚で臨んでしまいます(コミュニケーション能力の向上の為、ニーズに合った自分を演出する力を向上させる為等)。むしろこちらの方が頑張りに比例した結果になるとは限らず、仕事の何倍も疲れたりします。 やはりこんな自分は間違っていて、何事も楽しんでやれる人が最終的には良い結果も残せるし、周りにも好影響を与えられるのだと気づきした。 思えばどんなに頑張っても未だに自分を許せる自信を持つことが出来ず、自分が疲れるだけでなく、周りも疲れさせ、頑張ることが何の意義もないように思えて急に絶望的な気持ちになってしまいました。 しかし自分には頑張ることしか取り柄がなく、頑張らなくなったら何もしなくなってしまいそうでそれが恐怖です。「楽しむ」ということは頑張ってできることではなく、どうしたらいいのかがもう分かりません。 もともと頑張る原動力が、劣等感の強い脆弱な自分を克服しなくてはならないというネガティブなところから来ているからかもしれません。 ひとりよがりの意味不明な文で本当に申し訳ありません。 なんだか本当に自分に絶望して自分のことがよく分からなくなってしまいました。 こうしたら頑張らねば癖から抜けられる、こんなところが間違っている等、ちょっとでもアドバイス頂ける方がいらしたらありがたいです。
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視線恐怖症のカウンセラーの方の言葉でヒントがあればと思い 投函しました。 その方のアドバイスですが、 努力する所と努力しない所の区別をする事が良いそうですよ。 努力しても努力しても成果の出ないものは、努力をする所ではなかった のでは・・・と一度考えたほうが良いそうです。 そうしなければ成果が出なかった場合 疲れ果て、自分への自信を失うそうです。 今の悪い所ばかり考えるのではなく どうしてこういう状態になっているのかを考えて、 一度人間関係のことを忘れてじっくり整理して、元々何が原因で 自分が劣等感を感じる様になったかを素直に考えることが大事だそうです。 また、すべての劣等感から開放された素の自分を知り、 その自分自身を受けれる事が必要だそうです。 自分ではどうする事も出来ない辛い状況を我慢する努力は 必要でなく、良いと思った事を実行すると言う努力は必要だそうです。 また、安易に良いと思った事をするのもある場合には危険が伴うので よく考慮してから、正しい判断をしてからそれを実行する必要はありますよね。 なので、努力の全てが悪いわけではなくて、努力すべきでない事に 力を入れ過ぎているのかも知れませんよね。 例えば楽しく仕事をすると言っても仕事には責任が伴うと思います。 でも人間誰でも集中できる時間は限られていますよね。 2時間が限度だと聞いています。 その少しの息抜きにトイレなど行くと思います。 その息抜きの時に楽しい会話をしたり、仕事と仕事の合間のメリハリを 付けると楽しく仕事が出来ると思います。 ずっと眉間にしわを寄せて何時間もしていたらストレスもたまるのは 当然だと思います。 でも仕事をだらだらおしゃべりして楽しく・・・は失敗の元だし 不真面目な事だと思います。 大切なのはメリハリだと思います。 仕事など努力し集中すべき所では努力する必要があると思います。 でも遊びや恋愛、飲み会は違うと思います。 そこは、先に述べた努力すべき所ではない部分に入ると思います。 リラックスして素の自分を本来は出す所だと思います。 時には気遣いも必要になる場合もあると思いますけど、 上手に自分を表現出来ると良いのかも知れないですよね。 (これ・・私自身に言い聞かせてもいるんです。)
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- judymary2001
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私もちょっと似たタイプかもしれません。 がんばろうとする生き方、賛否両論はあると思いますが私は肯定派です。 実は私も今ほぼ同じような壁に当たっています。 なのでアドバイスになるような回答ではないかもしれません。 私も含めてあなたのような方の場合、例えば仕事が忙しいときなど周りがみんな真剣になったとき、とても必要とされるタイプではないかと思います。 そういう場面ではあなたの本領が発揮されることでしょう。 逆に飲み会などの場面ではムードメーカー的な人が必要とされる場合もあるかと思います。 でもそういうムードメーカー的な人の中にも何かに真剣に取り組むことが苦手という人は結構多いと思います。 みんな楽しそうに見えても、やはり誰にでも得意な場面、苦手な場面があり、人それぞれに違った悩みがあるのではないでしょうか。 私は不真面目な人についても肯定的です。 真面目な人も不真面目な人もそれぞれに「良さ」があると思っています。 文章を拝見させていただいて限りではあなたのような生き方、とくに間違っているところはないと私は思います。 ときには辛いときもあるかもしれませんが、一生という長い目広い視野で考えた場合、そのこつこつと地道な努力が将来的にみていい人生になるんじゃないかと思います。 今のその生き方も全然悪くはないと思いますが、一生という人生はまだまだ長いと思いますので、その中で考え方をちょっと変えてみたり、楽しさを見つけてみたりしてみるのもいいのではないでしょうか。 私自身も今壁に当たっている状態なのでいいアドバイスができなかったかもしれませんが、自分自身ももうちょっと視野を広げてちょっとずつ考え方を変えていくことも考えてみようと思っています。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですよね。自分だけでなく他の人も楽しそうに見えて辛い思いも抱えているんですよね。 私は不真面目な人を無性に許せなくなったりします。 不真面目な人についても肯定的になれるというのは質問者さんは十分視野の広い、きちんと自分を分かっての上での真面目な頑張りやさんなのではないですか。そうであればどんな壁も乗り越えられると思います。 私も周りに翻弄されない自分を確立できるよう、まずは自分を見つめなおしたいと思います。ありがとうございました。
- true-1
- ベストアンサー率20% (22/105)
ストレートに述べましたが、決して質問者さんを責める、責め立てる、という事を目的にしているわけではないことを、ご理解下さい。 考え方の間違い、を指摘しました。しかし、今回、質問者さんに指摘した問題は、程度の差こそあれ、恐らく、世界の人々の大半が犯している、「間違い」、なのです。質問者さんが特別、おかしい考え方の持ち主なのではなく、周りの人々みんなが等しく持っている考え方なのです。ただ、程度が悪い方に傾いている人は、様々な場面で悩み、一方、程度が軽い人は、あまり悩まない、という違いは出てきます。 自信が持てない人は、潜在的に、いっぱいいます。皆、自信が持てなく、宗教に走ったり、異性に依存したり、両親に依存したり、等、誤魔化して生きているのです。表面上は、「私は自信があるよ」と、格好つけて振る舞ってはいますが、内心は、戦々恐々と人生を歩み、生活している人ばかりです。強がっているだけ、という話です。 >「頑張る」ということを免罪符にして弱い自分を克服しているつもりが結局逃げているだけだったんですね。なんか途方もなく悲しくなってきてしまいました・・・。 悲しむ必要はありません。今まで、自分が不安な日々を送っていた原因が分かったのですから、その原因をしっかり認識して、対処するよう、日々生活してけばいいのです。原因が分からないまま、これからも生きて行かねばならない、という事に比べれば、雲泥の差というほど、ラッキーなことです。確かに、今までの自分の一部を捨てなければならないこと、今までの努力の一部が無駄だったかもしれないと認めること、これは苦しいし、辛いことかもしれません。 譬えとして、あまり良くありませんが、病気の原因が初期ガンであることが判明した場合、どうしますか?私なら、手術に臨み、ガン細胞を切除してしまい、健康な状態を求めます。これと同じように、心の中のガン部分の考えを切除し、健康な心になって、正しいものの捉え方、考え方、に切り替えていく、こうなれば、心としての健康状態に向かっていけます。 「今まで、こんなに頑張って努力してきたのに、弱い自分を克服するために、他の人より数倍も頑張ってきたのに、報われないなんて。」と、思うでしょうが、努力というものは、基礎ががっちりできていないうちは、あまり効果が出ません。基礎とは何か?それは、何度も述べてますが、「自分を知る」という事です。自分を知るという事は、人間を知ることであり、人間の心を知るという事です。人間の心を知ることができれば、いままで周囲の人との関係がうまくいってなかった人でも、うまくいくように変われます。 今までの努力はなんだったのか、というように過去の事にこだわり、過去に生きることをしても、意味がありません。今現在、原因を知ったならば、次の一歩から、どうするのか、ここが肝心なところです。自分の悪いところは改め、良い考えは素直に受け入れていく、これが大切です。 「な~んだ、いままで自分の考え方が間違っていただけなんだ。なら、それを変えて、違う自分になって、生きていけば、肩の荷も少しは楽になるわね。」というように、自分自身を楽にしてあげて下さい。また、今の自分は自分で、素直に認めてあげて、必要以上に自分を責めないで下さい。人は、皆、不完全の存在であり、欠点だらけで、嘘ばかりつく存在です。世の中には、完璧な人などどこにもいません。ありのままの自分をまずは、見つめ、そんな不甲斐ないかもしれない自分だけど、それが自分なのね、なるほど、との受け止め方で、自分と接して下さい。 ------------------------------- ☆自信が持てないのは、なぜ? 自信とは、「自分を信じること」だと思いますが、人はなかなか自分に対して自信が持てないものです。その原因の一つとして考えられるのは、周りの人間が立派に映ってしまう、そう見えてしまう、あるいはそう見てしまう、という人間特有の妄念(迷いの心)があるからだ、と言えます。こう見てしまうと、自分自身は情けなく、心許なく、小さい存在だ、と卑下してしまうので、当然自信なんてものは持てなく、自信がない、になってしまうわけです。これは、妄念自体に誤りがあるので、それを是正すれば、自分を卑下しないようになり、少なからず自信を持てるようになります。 自信が持てないもう一つの原因を考えていきたいのですが、それは何なのでしょうか? それは、自分の本当の心、本心(本音)を知らないからです。具体的に言えば、自分が何を思い、何を伝えたく、何をしたいのか、を明確に知らなく、ぼんやりしているからでしょう。今まで自分を知る努力をしないで、知る時間をとらないで、やり過ごして生きてきたので、今の自分が何者であるのか、が分からなく、地に足が着いた状態でない事から、自信すらも持てないわけです。 人は、自分が思っているほど自分の本心を知らないものです。いやいやそんな事はないですよ、と言ってみても、いざ何か意見を求められた時に、言葉にすらできない場合があるものです。それは、普段からしっかり見つめていないので、自分の思いが言葉にならなかったり、思いが言葉としていくつか浮かんでるものの、どれが本当の思いかが分からないので選べなかったり、という事です。 人間の本心とはどういったものなのでしょうか?キレイなものなのでしょうか?実は、人間の本心というものは、決してキレイなものではなく、汚いものなのです。人を憎む心、陥れる心、謗る心、妬む心、自分だけ得をしようとする心、欲まみれの心、自己中心的な心、いじめる心、等々、到底受け入れたくない心が、まさに人間の本心なのです。この本心を真摯に見つめ、しっかり受け止め、受け入れられるか、が必要不可欠なのですが、人間は自分に対して、キレイである、という妄念を持ちたがるので、なかなか受け止められません。どちらかと言うと、自分のおぞましい本心から逃げ、見ないように回避したがり、実際そうしてしまうものです。 あの人なんてフラレればいいのよ、あの人なんて降格すればいいのに、あの人なんて傷つけばいいのよ、あの人なんてバナナの皮の上に乗って転べばいいのよ、というような事を、腹底の心で平気で考えているのが、人間です。建前は素敵な微笑みを浮かべ、人の良さそうな顔して話している人でも、腹底訪ねていけば、おぞましく怖ろしいことを考えていたりします。人間の本性、真実の自己とは、そういうものなのです。 人間の本心は、悪たらしいものですが、どうすれば知ることができるのでしょうか?それは、周りの人に対して、親切や善いこと、を実行することです。当然、親切や善いことは、周りを一生懸命観察しないと、適切な行為には繋がりませんので、関心・興味をしっかり持つように日々努力することです。その親切や善いことをする中で、腹底の心で何を感じたか、何を思ったか、をしっかり振り返って下さい。この繰り返しで、自分の本心が少しずつ見えてくるはずです。様々な悪い心が見えてきますが、逃げずに受け止めて頂きたいと思います。 例えば、電車で年寄りに席を譲ったとします。その年寄りが御礼の挨拶もせず、むすっと席に座った場合、心の中でどう思うでしょうか?私なら、「せっかく、わざわざ譲ったのに、御礼の一つも言えないのか、このくそばばぁ!」と、腹底の心で思い、不快になるでしょう。これが、本心です。つまり、善いことをしているのに、腹底の心では、それ以上に悪い事を平気で思っている、怖ろしい存在、これが人間というものです。善いことをしても、ついつい「見返り」を求めてしまうのが、悲しいかな、人間なのです。ただ、こういった悪たらしい腹底の心をしっかり見つめ、汚い心だけど、これが自分の心なのだ、と受け入れるのが非常に大事です。所詮、人間の心はキレイなところはありませんから。 どんどん善いことをしていくと、見返りを常に求めている自分に気づけるようになります。もしかしたら、純粋な善などできないかもしれない、と思えるようになります。それぐらい、善をすれば、自分の本心はだいぶ見えてきている状態にあると思います。 ここで、注意がまた必要です。悪々しい自分の心ですが、これを開き直って、悪いことをしていい、という勘違いをしないで頂きたい、と思います。悪い心があることを認めつつ、悪いことをしないように行動をする事が大切なのです。自分が悪い要素を持っていると知れば、悪い縁を絶ちきり、悪い行動にならないようにします。例えば、アルコール依存症の傾向があると知った人は、飲み会を避けたり、冷蔵庫にアルコール類を置かないように配慮したりして、アルコールの縁を絶ちきります。これで、アルコール依存症になることを回避しようと努力します。 人は、自分の本心が分からないから不安を抱え、自分に自信が持てません。しかし、決してキレイではないかもしれない本心、を知れば、人は自分に対して自信を持てるようになっていきます。自分を知って自信のある人生にするのか、自分を知らずして自信のない、不安な人生にするのか、それは偏に自分の選択一つにかかっているので、怖いかもしれませんが自分を知ることを選択して欲しいと思います。 ☆人の本性は? 人は、本音と建前を持って生活しております。本音だけ、建前だけ、では、当然人生はうまく渡ってはいけません。本音と建前をうまい具合に使い分けしないといけないのですが、相手次第で受け取り方が違う事情から、トラブルになる事も多いかと思います。さて、ここでスポットにあてたいことは、人間の本音とは一体どういったものなのか、という事です。 人の本音とは、本心、本当の心、腹底の心、と言えると思います。この本心というものは、普段気をつけて見ているものではありませんが、キレイなものなのでしょうか?それともキタナイものなのでしょうか? 例えば友人がいきなり、「彼氏ができたの!」、と喜び勇んで報告してきたとします。目の前では、私が世界中の幸せを独り占めしているかのように笑っている友人がいるわけです。「へぇ~、良かったね!」と、あたかも一緒になって喜んでいる表情を見せつつ、内心は、というと、「どんな奴がこんな娘を好きになったんだろう」という悪たらしい事を平気で考えていたりします。これが実は何を隠そう、人間の本心です。決して、キレイなものではなく、キタナイ心と断言しえる醜悪な心なのです。思ってはいけない、いけない、と思いつつも、悪い心が蠢動してしまい、言動や行動に時として露呈し、大失敗を犯したりします。 人を裏切ってしまう心、人に嘘をつく心、人を蹴落とす心、人を罵る心、人を妬む心、人を謗る心、人を卑下する心、人を軽んずる心、自分だけが得しようとする心、等々、数え上げたらキリがない位、人は、本心では悪い事を考えています。浄い心ではなく、真実は、汚い心なのです。自分の心くらいはキレイであって欲しい、という妄想で、汚い、という真実を拒否しがちですが、これが私の本心なのだ、というように、真摯に受け止め、受け入れ、認めることが肝心なことなのです。 ここで注意が必要なのは、本心が悪ならば、悪事を働いてもいいだろう、と短絡的に考えてしまう事です。これは、間違いです。本心が悪である事が認識できれば、その悪を発動させないように注意しながら、日々の生活をしていくのが必要です。もし、自分にとって悪い縁であると分かったならば、その悪縁を遠ざけ、自分の悪性を発動させないように行動する事が大切なのです。 人はよく妄念によって、何事に対しても美化したがります。自分の心は浄い、あの人の心は浄い、というように、心に対しても、間違った美化をしてしまいます。それでいて、自分の本心が汚いという事に気づくと、美化した本心とのギャップに苦しみ、最終的には汚いという事実を押し隠す事をしてしまいます。事実に背いて生きていくという事、これは自分に対して嘘をついて生きていく事になり、精神的なストレスを多く抱える結果となります。 人の本性とは何なのか、その真実をしっかり見極めて、認めていく事が大切です。自分の本性を知ると、少しずつですが、自信がつき、人生に対しての不安も軽減するので、悪性たる自分の心から逃げずに受け入れるよう努力して頂きたいと思います。
お礼
再度御回答頂き本当にありがとうございます。締め切らなくてよかったです。お礼が遅くなり申し訳ありません。読解力が乏しく、よく考えながら読ませて頂きました。 ちょっとパニックになったお礼を#5でしてしまいすみませんでした。 とりあえずくこれからは落ち着いて自分について考えてみたいと思います。 自分の本音といっても、とにかくあらゆる面で向上して理想に近づきたいということしか今は思いつきません。 自分の汚い面や未熟な部分は認識しているつもりでしたが、そうした部分について「受け入れる」と「克服する」の違いがよく分かりません…。もう少しよく考えます。
- true-1
- ベストアンサー率20% (22/105)
目の前の物事に対して、全力を尽くす、努力をする、という事は、決して間違いではなく、良いことですし、必要であると思います。 質問者さんは、今現在、恐らく、空回り状態にあるように見受けられます。その空回りになる原因となっているであろうものを数点上げさせて頂きます。 (1)自分というものを知らない(己知らずの状態) (2)自分を知らないがために自信が持てない (3)他人や周りの人間と自分を比較して、必要以上に自分を卑下している (4)自分の固定観念に縛られて生活している(仕事・勉強は辛く苦しいもの) (5)楽しめない人間はダメ人間である、と思っている >仕事や勉強とは辛く厳しいもの、それに負けずに歯を食いしばって頑張るもので、それが自分の糧となり自信に繋がるのだと信じ、そういう気持ちを支えに今までやってきていました。 >しかし自分には頑張ることしか取り柄がなく、頑張らなくなったら何もしなくなってしまいそうでそれが恐怖です >なんだか本当に自分に絶望して自分のことがよく分からなくなってしまいました。 上記の言葉からは、自分を頑張るしか取り柄のない人間である、と、ある種断定し、思い込んでいて、それ以外の何者ではない、としている印象を伺い知ることができます。本当に、それだけの人なのでしょうか? 今は、それしか取り柄がないと思っているから、それに固執し、周囲に負けないようにがむしゃらに努力している、頑張っている、みたいですが、それだけ、と決めているのは、質問者さんであり、誰が決めたものでもありません。正直言って、100のうちの1程度も自分というものを知らないのではないでしょうか? 人というのは、素晴らしい存在ではありません。頑張ったり、努力するのは生きていく上で大切であり、必須ですが、所詮頑張ったところで、その頑張りの方向性が間違っていれば、大した人間になることはあり得ません。せいぜい、人生上のスキルや仕事上のスキルが少々、アップするだけで、人としての力量が向上するのとは必ずしもリンクしません。 人としての力量をアップする為には、まずは自分を知る、ことです。自分は何を考え、何を思い、何を伝えたいのか、そして自分は何者なのか、これをとことん追求し、知っていくことが大事です。本当の自分は、キレイごとでは表せないほど、汚い存在であり、不浄そのものです。あの人、仕事失敗して恥をかけばいいのに、あの人、バナナの皮を踏んで転べばいいのに、あの人、彼氏に振られて少しは不幸になればいいのに、等々、心の奥底を訪ねてみると、とんでもない、極悪非道なことも平気で考えていたりするのが、まさしく人間の心なのです。その不浄な考えに溢れている腹底の心をしっかり見ていく事が肝心なことであり、逃避することなく受け止めていくことで、己というものを知ることができます。 己を知ることができれば、少しずつですが、自信が持てるようになります。自分を知らないで一歩進むのと、自分を知って一歩進むのとでは雲泥の差があります。不浄な自分かもしれないけど、自分をしっかり知っている人は自信を持っていて、堂々と振る舞える人が多いかと思います。 自信を持つための方法論に関しては、下記URLの私の回答を参照してみて下さい。 いかに自信をつけるかは、こちら・・・(#6) http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1911445 建前と本音については、こちら・・・(#5) http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1860680 >もともと頑張る原動力が、劣等感の強い脆弱な自分を克服しなくてはならないというネガティブなところから来ているからかもしれません。 (3)で上げましたが、必要以上に自分を卑下し、責め続けているように思います。現実の自分とはどういう人間なのか、なるほど、そういう人間なのか、と、現実そのままの自分を受け止める事が必要です。質問者さんは、恐らく、現実の自分が嫌で嫌でたまらなく、認めていない、そして受け止め、受け入れていない、ものと推察されます。しかも、その現実の自分が自分にふさわしい存在ではないので、必要以上に責め立て攻撃しているのだと思います。これでは、自分が疲弊し、自分が落ち着く時間などないことでしょう。 上記でも述べましたが、人は素晴らしい存在でもなければ、大した存在でもありません。自分に過剰に期待してしまうのは、単なる妄念、妄想であり、理想を追い続けているだけの徒労にしか過ぎません。美化しても、所詮自分の本当の姿自体は変わりようがない訳で、この本当の姿と真摯に向き合い、認め、受け止め、受け入れることが大事です。 理想(美化)と現実のギャップがあればあるほど、人は苦しんでしまいます。理想の自分に常に裏切られるからです。ですから、その意味のない理想を即刻捨て去り、現実の自分を素直に受け入れることを勇気を持って行っていただきたいと思います。 他人と比較する癖も、恐らく持っておられると思いますが、比較しても意味がありません。世間では、自分の評価は、他人が大抵つけるものです。しかし、この他人の評価というものは、全く当てになりません。出世街道まっしぐらの上司に媚びへつらって、讃辞を投げかけていた部下も、その上司が左遷となるや否や、手のひらを返すように、陰で悪口を言うようになったりします。昨日、褒めてくれた相手が、一週間後に、けなしている場合もあります。人というものは、己の都合一つで、己の損得勘定で、人を評価します。つまり、他人の評価は全く当てにならない、という事です。当てにならない評価に対して、一喜一憂したり、頑張らねばと、捻り鉢巻きをして評価を得ようとしたりするのは、正直言って愚の骨頂と言わざるを得ないわけで、そういった自分に気づいて、心を改める事が肝要です。ですから、他人の評価が当てにならない事から、当然、他人との比較をする事自体も意味がりません。比較は自分の都合一つや、他人の評価という情報一つで、してしまうもので、全く当てにならないもので、絶対的な比較などできようはずがないからです。 >「楽しむ」という感覚が分からなくなってしまい悩んでいます。 >「楽しむ」ということは頑張ってできることではなく、どうしたらいいのかがもう分かりません。 世間では、人生は楽しい、とか、楽しめる、とか、心の持ちようでいくらでも人生は楽しい、とか言われてますが、人生は決して楽しいわけではありません。人生は苦なり、と言われますが、人は皆等しく苦しんでいるものです。楽しい、というのは、時間で言えば一瞬です。一瞬、一瞬の楽しい、という状態を、あたかも連続して楽しい状態を得ている、というように錯覚しているだけであって、実際は、苦しい状態に、たまにポツポツ写真のように、楽しい、が演出されるだけです。 こういった現実を知っている、知っていくと、人生が多少苦しい状況になっても、必要以上に苦しむことはありません。元々、人生は苦しいものだ、と認識していれば、ちょっとの苦しみは大したことがないからです。これを、人生は楽しいものだ、楽しいはずだ、と、妄想を抱き、理想の中で生きていけば、この理想に裏切られ、苦しみの状態に落ちた時に、必要以上に、苦しまなければならない事になります。どういう心構えで生きるか、どういう姿勢で生きるのか、これによって人生が全く変わっていってしまうのです。 質問者さんは、自分の考え方の間違いにまずは気づいて頂く事が肝心です。そして、世間の間違った常識にも惑わされないことも併せて肝心なことです。いくつか、指摘をしましたが、すぐには受け入れられないし、理解できないであろうと思います。しかし、理想や美化では、人は生きられないという事を十分認識した上で、現実を見据え、真実とは何かが分かるような視点を養えれば、今の苦しみからは抜け出られるものと考えます。 わずかな文面で伝える為に、かなりストレートに書きましたが、指摘が強いものでありましたら、ご容赦下さい。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。すごく深い内容のご回答ありがとうございます。何回か繰り返し読ませて頂きました。 正直言うとやっぱり私は間違っていたのだと客観的に指摘されてとてもショックです。こうして受け入れられないのはやはり弱い自分を克服できていないのだと改めて感じました。 「頑張る」ということを免罪符にして弱い自分を克服しているつもりが結局逃げているだけだったんですね。なんか途方もなく悲しくなってきてしまいました・・・。 本当の自分を知る、というのは・・・恥ずかしながらどうすればできることなのでしょうか。自分で自分のことを考えても、それが本当に本当の自分なのかもう分かりません・・・。
- yo-zo-ra
- ベストアンサー率23% (99/419)
こんにちは。 その同僚の方はいい方ですね。そのことに気付く時がきっときます。 私も以前は頑張り過ぎてしまう人でした。私も人から指摘されて気付きました。 毎日普通に過ごしていたつもりなのですが、言われてわからなくなりましたね。 その時は「今までは何だったの?これからどうすればいいの?」 って全て崩れた感じで、かなり精神的に不安定になっていました。 今の質問者さんの気持ちがわかる気がします。 人から指摘されてからかれこれ7年ぐらいたったと思います。 最初の2~3年はやっぱり不安定でしたよ。 人の事や自分の事信用できなくなったり、すごく泣き虫になったり、 不安になったり、楽しくない時でしたね。 でも、今この質問を見るまでそんな状況だったこと忘れていました。 いろんな経験していろんな事を考え成長したんですかね。 無理して頑張るのではなく楽しく頑張る事ができるようになりましたよ。 質問者さんにとってもこの経験は大切な経験だと思いますよ。 きっと頑張りながら楽しさを見つけることができる時がきますよ。 まずは普段頑張ってしまっている事に気付いて下さい。 そして頑張っている事を褒めて認めて見てください。 何か変わってくると思いますよ。 まずは自分の頑張りを褒める事。これすごく大切ですよ。
お礼
お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 その同僚の自然体な感じに、なんかいくら頑張っても敵わないと感じ、自分の今までのことが急に間違いであった気がしてきてしまいました。ちょっと仕事が立て込んで精神的に不安定になってしまったのかもしれません。 これを乗り越えた方のご回答、心強いです。 本当にありがとうございました。
- sinkaigyo
- ベストアンサー率25% (2/8)
こんにちわ。 私の回答があなたの求めている回答になるかはわかりませんが、回答させていただきます。 私はがんばることは意味があると思います。 何事もがんばらなければいけないとも思います。 ですが、少しからだの力を抜いてみてはどうでしょうか? 少しリラックスして物事に取り組めば、視野が広がると思うし、何か変わるかも知れないですよ。 あと、これはすぐには出来かもしれないけど、考え方を変えてみることもいいかもしれません。 凝り固まって見ているとおもわぬところに盲点があることってあるじゃないですか! でも、一番は自分を受け入れて好きになってあげることじゃないですか? 弱い自分でもいいじゃないですか。 自分はこの世の中にたった一人しかいないんですよ。 みんな違うんです。 他人と比べるんじゃなくて自分のいいところを見つけてみてください。 自分の悪いところを責めないであげてください。 「楽しむ」っていうのは意識してすることじゃないと思うんですよ。何かしてて自然と感じること(楽しいと感じること。)だと思うんですね。私は。 だから、「楽しもう」と、無理して気張ることはないと思います。 なんだか脈絡なくてごめんなさい。 質問者の望む回答になっていない気がします・・・ごめんなさい。
お礼
いいえ、回答頂いて本当にありがたいです。 おっしゃるとおり、自分を受け入れることができるようになるために自己研鑽に励んできたつもりなのに、根本的に自分を好きになれていないのが全ての原因だとは思うのです。それを解決するには「頑張って克服する」という考えは方向が間違っていたかもしれないと何となく気づいてしまいました。でも、どうしたら頑張らないで済むのか、楽しいと感じるにはどのような心持ちでいれば良いのか、信じられないんですが全く分からなくなってしまいました。 とにかく回答頂いたとおり、少しでも自分の良いところを良いと素直に感じ、自分を責めないようよう心掛けたいと思います。
- process9
- ベストアンサー率29% (81/271)
がんばることはいいことだと思います。 ただ、あと1歩って気がします。 大きな頑張りもいいですが、小さな頑張りで 上手くいったとき、思ったとおりになったとき ほんの少しでも嬉しくなったりしませんか? それをじっくり味わうこと、それが「楽しむ」ことです。 小さな頑張りは、仕事(予定したとおり終わった)でも、遊び(カラオケで好きな曲がとちらず歌えた!など)でもいいんですよ。 未来を考えることも大事ですが、今努力した結果目標を達成した気持ちを味わうのも大事なことだと思います。それが、未来の大目標への 原動力となると私は思います。
お礼
あと1歩だといいんですが。なんだか理想からどんどん遠くに行っている気がしたりもしています。 上手くいったこと、嬉しかったこともあるはずなのに、失敗したこと、至らなかった部分などだけが思い出されて気の休まることがないのです。 おっしゃるとおり、少しでも上手くいった瞬間を味わえる余裕を持てれば自分をもう少し安定させることができ、地に足をつけて堂々と未来の大目標へ進んでいけるのだと思うのですが、自分をうまく許すことができません。 遅い時間に回答して頂き本当にありがとうございました。
お礼
ありがとうございます。カウンセラーの方のお言葉とても参考になりました。努力すべきところとそうでないところの区別をつけることが確かにできていないと思います。頑張っても成果が出ない場合、そこは頑張るところでなかったのだという発想になったことはありませんでした。自分の頑張りが足りないからだとなぜか解釈してしまう癖があり、それは結局自分というものが定まっていないからだと分かりました。 何が原因で劣等感を感じているのか、今まで何回も何回も考えたのですが良く分かりません。本来の性格と、堅い家族からの期待や失敗すると恥というプレッシャーを感じていたことは確かですが、それも勝手な理由であり、むしろ恵まれている環境でありながら自分を活かしきれていないことへの劣等感かもしれません。全く情けないです。 遅い時間にお時間割いて頂き本当にありがとうございました。