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幸せの定義…

自分で幸せだと思えたなら間違いなく幸せですよね? なのに何故、人は幸せを比較して確認しがちなのですか? 愚かであると同時に可能性もあるように思えて憎めません。 そして私がどうかと言うと、人との比較は兎も角 本当に自分の満足を信用していいかと疑います。 決断と若さが反比例しているようにも思えます。 …意見をいただければと思います。

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回答No.27

 例えば自分が、辛いことをしたと後悔していたのに、それが誰かの幸せだったと知ったなら、辛いことも救われることにはならないだろうか。幸せは、思いも知らないところへ飛び火する、そうおもえれば、勇気が沸かないか?  人それぞれにはカラーがあって、それが交わりあうことに、可能性を感じられているのではないかと思います。いつの間にかポケットに、知らない赤が入っていたら、君はそれを鍵にして、柔らかい春の扉を開くだろう。知らない間に夜が来て、全ての色が違って見えて、自分の色を見失ったら、勇気を持って、触れてみないか。目の前の、青にまみれた亡失の色に。

noname#22412
質問者

お礼

まさに、そうなの。 知らないのが1番辛い、良くても悪くても知りたい。 でも皆がそう思うわけでない。 自分を知りたくない人から本音を得ることは出来ても 説得はしてはいけない…本人が望むまで。 難しいのは、自分が辛いのは我慢出来るのに、自分が辛いことで伴侶が悲しむことには耐えられないこと。 ウソも甘えもイヤなら、上手くバランスを見極めるしかないよね。

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  • Mumyou
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回答No.17

お待たせしました。 >幸せの定義は「変化」で、幸せの感情は「生きていることを喜んでいる状態」ではと考えて質問しました。 >幸せに「満足」は必ずしも必要ないのではとも感じます。 幸せの定義は「変化」で、幸せの感情は「生きていることを喜んでいる状態」ではと考えるに至った過程を聞かせていただければ、すこしは早い話になりそうで嬉しくはありますが…取り敢えず――。                     私の考え方はとしては、全ての現象は関係性の中に存在している のであって実体はない。すべては繋がっており、現実として分割できない。 そうなると、大小はありますが、何らかの影響が相互に必ず起こります。 ということは、「生きていることを喜んでいる」状態となっている人も また、主客合一した【幸せ】とは限りませんが、何かを発している事に なります。そこで入力だけじゃなくて、出力も含んで考えると―― (1)シアワセ━(゜∀゜)━ !!!!!っと感じている人が全体のシステムの中で   受動的であらざるを得ない、またはあった場合、自己満足は発生しないです。  Ex:小さな子供    年齢関係ないけれども、言うなれば幸も不幸も未経験、またはサンプルが    少ないため、物事の質の程度をしらない。    自身の関係性における立場の未自覚:自我未発達。         (2)シアワセ━(゜∀゜)━ !!!!!っと感じている人が全体のシステムに対して  能動的であった場合、自己満足が発生します。  なぜなら内なる必然から自発的に行為するための能力・権利・責任  覚悟などが問題となるため、自らを自律的に統御しなければならない  からです。自らを律すると言うことは基準を作らねばなりません。  その基準に沿って照合する事で確認・処理する事になります。  それは客観的評価が可能か否か、利己的か否かに関係なく、自分自身に  または自分の行為が自己実現や自己保存のための条件に合っている事に  自ら満足することです。  ちなみに、客観的評価をするまでもない自己妥協や他人の意見を無視した独りよがりは  自己実現や自己保存による新たな価値創造性を(拡散し、変化を奪って)文化構築に人を  関われなくする。  自分の意志・判断によって、みずから責任をもって行動し、現象の外面に表れたふるまいには付いて来ざるを得ないって感じ。私にとって、平穏や平安のさらに上の平和(修復と最適化)を 目指すには自発性ありきなので、自己満足をつけました。  何だか、これ系の研究は現象学が担っていたと思うんだけれどもなぁ…。 理論に穴があるかもしれませんし語彙に不足がありますが、そこは知識と知恵が足りないところ。

noname#22412
質問者

お礼

どちらかと言うと私はアウトプットを重要視します。 クラインの壷…でしたか? あれを連想させますね。 袋の中身が重要・問題・面白いんです。 同じ人間同士だからこそ、袋についてあーだこーだ言い合えます。 出入力についてあーだこーだは、結果論的になりがちですよね。 たぶん私は人間の能力にもっと期待していて、そして欲深いんだと思います。 長くなるので18に理由を書きます。

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  • Mumyou
  • ベストアンサー率18% (11/58)
回答No.16

>幸せに「満足」は必ずしも必要ないのではとも感じます。 少し?待ってください。 自分の感覚が伝えられる様な文章を 作成中ですので…。

noname#22412
質問者

お礼

私こそ時間を下さい。 実はこんな質問をしたのも母が子宮ガンと分かり、自分は結婚を控え、その他色々ある中で混乱した状態なのです。 「喜び」は必須の要素であっても、「満足」は必須ではないのでは、と思えたのでお聞きしたかったんです。

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noname#17702
noname#17702
回答No.15

『反動形成』は幼年期によくあるんだよ。 好きな子に逆に意地悪したり……… 君の場合もそれによく似ている。 そう、『マリッジブルー』だ。 結婚目前、幸せの絶頂期……… ふと、不安になる。 この幸せを本当に信じていいのかと……… 似たような心理に『マタニティーブルー』があるね。 愛する待ち望んだ子どもが正に生まれるのに不安感に囚われる……… それらの心理と似ている。

noname#22412
質問者

お礼

男は結論を出そうとする。 女は結論を知っている。 そう思わないかい? 実際的なロマンティストって、いるじゃない? あなたは現実的なロマンティストのように感じるよ。 あなたは率直だから、いい友達。 ただね、今回の質問はマジなの。 ありきたりのなぐさめは、ちょっと辛いんだな。 それと普遍的な部分での愛・幸福の定義をそれなりに真面目に探ってるの。 ごめん、でもありがとね。

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noname#17702
noname#17702
回答No.14

う~ん、、 それは、心理学の専門用語で言う『反動形成』かもな………、、 A君が大好きなのに、いつも意地悪しちゃったりってヤツ! 好きなんだけど嫌いっ! 幸せなんだけど、これ本当っ!?って自虐的に考えたり……… そんな事は誰にでもある事だと思うよ!(^^)

noname#22412
質問者

お礼

解んない。 大好きでだから凄い好き、好きだから「好き」ってスキがあれば言ってるもん。 幸せ過ぎて本当?はまさにそんな感じ。 好きな人に出会える事実が凄い不思議。

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noname#17702
noname#17702
回答No.13

うん、まあ何事もない平穏な毎日に無上の幸せを感じたりもするもんね。 そして、これが本当のものかと自身で疑うのは若さからかも知れない。 もっと可能性があるんじゃないか?、もっと高い次元があるんじゃないか?と……… これは比較伝々と言うより、若さならではの好奇心や向上心の表れではないだろうか………、、

noname#22412
質問者

お礼

ごめん、逆もありうるよね! 年を追うごとに人間関係が複雑になるから、むしろ悩むかも。 ただ私は経験的に、納得(あきらめに近いもの)すると死に易いと感じてしまったの。 私はだから、幸せを求めることに無意味さを感じてしまう。 だけど幸せになろうとすることは、大切な人達の幸せに繋がると信じてる。 いずれにせよ自分が納得出来なければいけないのだけど。 だからこそ自分の判断を常に疑ってしまい、人を傷付けてしまうこともある。 今は目先の結果に確かなものは出せないけど、いずれ100倍返しとかだせたらいいなと思って。 またよかったら回答をちょうだいね?

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.12

#7です。 ご返事ありがとうございます。 『>絶対自我が遠いことを知っていることが「幸せ」という感情を持たせるのかもしれません。』 とのことですが、それは絶対的な自我という概念を認めていることであり、にも拘わらずなぜ、 『>そして絶対的な自己の価値を追うことが「幸せ」という感情を消すような気がします。』 ということになるのか私には良くわかりません。 ただ、あえて理解しようとすれば、 『絶対的な自己の価値を【性急に】追うことが「幸せ」という感情を消すような気がします。』 というような解釈になります。 これは、自己の目標に向けて貪欲であるということですし、その為に他者としても同様の目標に向けて歩んでいるものだという至極当然のことを忘れさせる危険性があるからに他なりません。 ですから、namazu_kunさんのおっしゃるところの「変化」は、私にとっては「目標に向かう過程自体」とでもいったような意味として解釈されます。 【絶対的自我の確立】を目指すという姿勢は、本質を見失わないようにするためのものです。 別に「強い自分」である必要はありません。 安易な相対的価値観に流れないこと、です。 絶対的自我を放棄して感じる幸せの微笑みは、どこか不確かで心もとないものにならざるを得ないように思われます。

noname#22412
質問者

お礼

自分の価値・評価ばかりを気にすると、あるいは自分の価値を自身の判断でなく追うと、幸せという感情を消す…という意味で書きました。 hakobuluさんの解釈通りです。 幸せになろうとし続けることは、家族など大切な人達に対する愛のひとつだと信じています。 丁寧な回答を二度もいただき、どうもありがとうございます。 またひとつ幸せになりました。

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noname#241887
noname#241887
回答No.11

幸せ・不幸せを知らないうちは幸せではないでしょうか。完全に無知であることも一種の幸せになるかと。 知ることで不幸せから這いずり上がろうともがき、幸せと言う幻想を追いかけ続ける・・・こんなことを書くと幸せは無いようですね。 自分で幸せと思ったのを疑うと幸せは遠のきそうです。 幸せの比較には、意味はありませんが優越感や劣等感を抱きたいからですね。向上心を持つのは結構ですが。

noname#22412
質問者

お礼

私は不幸せを知らないことは、不幸せだと思います。 幸せを同じ状態で維持しようとすることも、場合によっては不幸せかもしれません。 …などと感じました。 もっとよく考えていきたいと思います。 ご意見をいただき、とても幸せです。

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noname#17702
noname#17702
回答No.10

「幸せ」に定義ってないのかも知れません。 とても便利な洗濯機もテレビも冷蔵庫も昔は無かった。でもみんな幸せに暮らしていた。今の時代はそんなのあって当たり前。あるからって特に幸福なんて感じない。 それに似ていますよね。 大金持ちと結婚して最初は幸せだった。でも慣れちゃうとそれが当たり前。そこに幸福感は無い。 要するに「幸福感」と言うのは自分の置かれた事象における他との「差異」の変化による刺激から生じる感覚なのかも知れません。だから「比較」によるものなのか……… 風呂上がりの一杯の缶ビールやコーヒータイムやちょっとしたスィーツに無上の幸せを感じたり……… これも自身の状況的差異の変化によるものかも知れないですね。息抜きというか……… 「日常」と「非日常」の境目。 いわゆる「晴れ」と「け」ですかね……… 難しい………、、

noname#22412
質問者

お礼

幸せの定義を「変化」では?と考えて質問してみたの。 ゆえに常に動くものだから比較・確認するのでは…と。 でもまだまだ浅いよう。 いっぱい人がいて、一人の中にもいろんな幸せがあったりするのに、普遍的なところを見出したいと思ってるの。 結論が欲しいと言うより探し続けたい。 こんな私は幸せって感じるよ。

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  • cd-22
  • ベストアンサー率0% (0/6)
回答No.9

とても簡単なことです。それは自分の生き方に自信がないから他人と比較するのです。まず自分の生き方に自信を持つことです。また幸福という言葉も非常に生もので、随時揺れ動いております。幸福に浸っているとその幸福がマンネリ化して自身で判断がつかなくなります。そのためにも言葉、行動に自信をもつのです。

noname#22412
質問者

お礼

自信があれば必ず幸せを自覚できるのでしょうか。 自信があるからこそ比較する場合もあるのではとも思いました。 分からないので、もっとよく考えてみたいと思います。 貴重なきっかけをいただき、とても幸せです。

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  • Mumyou
  • ベストアンサー率18% (11/58)
回答No.8

>何故、人は幸せを比較して確認しがちなのですか?               ̄ ̄    ̄ ̄ 人間はいかに過去を懐かしみ、未来を憂いようとも “現在”という一瞬にしか住む事ができない。 であるが故に、時の経過によって主観的な立場から 客観的な立場に移行したからではないでしょうか? つまり、現象そのものになっている時の自分から、 この世界(次元)における位相の観測者になっていく のです。 また価値は比較からはじまり、黒が白を白たらしめ、白が 黒を黒たらしめる様に、違いが違いを保証し、保障する。 ただ、その違いにどのような価値“観”を見出すかは、 個々人の環境に左右される所が大きいですね。 言えることは、自己実現や自己満足や自己保存を行う 際に、「比較して確認」する定義付けの工程を行う事で 反省能力と抽象能力が働き、多元的な本質の抽出が 行われ、自身の物理的、心理的構造上の特徴にある ポテンシャルを引き出すための価値観が確固たるもの となって、人生観や世界観の形成につながると。 そこに対して「私の方が優れた“幸せ”だ。」と思うか 否かは別次元の心の働きではないかと思われる。 「幸せを比較して確認」する事と「優劣を付ける」事は 別物だと思う。 多角的な状況の遷移があり、「幸せ」を感じる現象が 多くの関係性のスパイラルであるため、理論面での 絶対幸福はありますが、現象面での一元化は難しい ですね。位相幾何学でも読んでみてください。 まぁ、身近な所では「食べ物の味」や大きな所では 「文化」に置き換えて考えてみればいいかも。 ------------------------------------------------- 数ヶ月前にfigureとappearanceの違いに答えた事が あるのですが、参考になるかも知れません。 [見る]という行動で言うなれば…。 figureは視覚対象そのものであり、見ている方の 感情や文化背景を極力そぎ落とした本質的存在現象。 appearanceは視覚対象から発せられる意味性の可能性を 感情や文化背景を通して認識した結果ではないかと思う。 「figure」       「appearance」    対象 → 目      対象 → 目   ̄ ̄              ̄ ̄ 幾分「figure」は固定的ですが、「appearance」は動的だと思います。 ------------------------------------------------------- ※視覚対象を価値対象と置き換えてください。  「比較して確認」した結果、出力されたものが価値。  それは“幸せ”の可能性を発している。[figure]    最後に“幾分”とあるのは、現象が多くの関係性の  スパイラルであるためです。 >本当に自分の満足を信用していいかと疑います。 信用に足りる根拠が欲しければ、創ってしまいましょう。 取り合えず、多くの場所で自分を発揮し、潜在能力を 引き出してください。 自分の入出力デバイスである五感が磨かれて、精度が 上がり、感性に自信がもてれば自ずと感じている幸せ にも自信が持てると思います。 ただ驕ってしまわないように気をつけましょう。  無知の知に至っているnamazu_kunさんは実に  素晴らしい。 「人生是学問」ですから、貪欲に、偏見を持たず  経験値を上げていってください。  そうすれば曇りなき眼で物事が見通せます。

noname#22412
質問者

お礼

幸せの定義は「変化」で、幸せの感情は「生きていることを喜んでいる状態」ではと考えて質問しました。 幸せに「満足」は必ずしも必要ないのではとも感じます。 もしよろしければ、これについてご意見をいただけないでしょうか。

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