お待たせしました。
>幸せの定義は「変化」で、幸せの感情は「生きていることを喜んでいる状態」ではと考えて質問しました。
>幸せに「満足」は必ずしも必要ないのではとも感じます。
幸せの定義は「変化」で、幸せの感情は「生きていることを喜んでいる状態」ではと考えるに至った過程を聞かせていただければ、すこしは早い話になりそうで嬉しくはありますが…取り敢えず――。
私の考え方はとしては、全ての現象は関係性の中に存在している
のであって実体はない。すべては繋がっており、現実として分割できない。
そうなると、大小はありますが、何らかの影響が相互に必ず起こります。
ということは、「生きていることを喜んでいる」状態となっている人も
また、主客合一した【幸せ】とは限りませんが、何かを発している事に
なります。そこで入力だけじゃなくて、出力も含んで考えると――
(1)シアワセ━(゜∀゜)━ !!!!!っと感じている人が全体のシステムの中で
受動的であらざるを得ない、またはあった場合、自己満足は発生しないです。
Ex:小さな子供
年齢関係ないけれども、言うなれば幸も不幸も未経験、またはサンプルが
少ないため、物事の質の程度をしらない。
自身の関係性における立場の未自覚:自我未発達。
(2)シアワセ━(゜∀゜)━ !!!!!っと感じている人が全体のシステムに対して
能動的であった場合、自己満足が発生します。
なぜなら内なる必然から自発的に行為するための能力・権利・責任
覚悟などが問題となるため、自らを自律的に統御しなければならない
からです。自らを律すると言うことは基準を作らねばなりません。
その基準に沿って照合する事で確認・処理する事になります。
それは客観的評価が可能か否か、利己的か否かに関係なく、自分自身に
または自分の行為が自己実現や自己保存のための条件に合っている事に
自ら満足することです。
ちなみに、客観的評価をするまでもない自己妥協や他人の意見を無視した独りよがりは
自己実現や自己保存による新たな価値創造性を(拡散し、変化を奪って)文化構築に人を
関われなくする。
自分の意志・判断によって、みずから責任をもって行動し、現象の外面に表れたふるまいには付いて来ざるを得ないって感じ。私にとって、平穏や平安のさらに上の平和(修復と最適化)を 目指すには自発性ありきなので、自己満足をつけました。
何だか、これ系の研究は現象学が担っていたと思うんだけれどもなぁ…。
理論に穴があるかもしれませんし語彙に不足がありますが、そこは知識と知恵が足りないところ。
お礼
まさに、そうなの。 知らないのが1番辛い、良くても悪くても知りたい。 でも皆がそう思うわけでない。 自分を知りたくない人から本音を得ることは出来ても 説得はしてはいけない…本人が望むまで。 難しいのは、自分が辛いのは我慢出来るのに、自分が辛いことで伴侶が悲しむことには耐えられないこと。 ウソも甘えもイヤなら、上手くバランスを見極めるしかないよね。