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[対処法について]幸わせ長続きしないor人生の目標について

[対処法について]幸わせ長続きしないor人生の目標について 皆さんも経験がおありかと思いますが、心から素晴らしい、嬉しい、幸せだと感じても、3日も経てば、それが普通になったり、単に、慣れてしまったりで、長い間幸福を感じません。 仮に、自分の生きる意味を、幸せの追求においた場合、空しくなります。 憲法にも、幸福を追求する権利が云々とありますが。。。 追求するのはいいけど、それは、生産と消費を永遠に続けるほか無いことになります。 例えば、 自分の感性と合う、すばらしい本を見つけても、 涙が出るほどの、すばらしい景色も毎日見れば、 人生の全てがここにあるのではないかと錯覚するような音楽を聴いても、 仕事でうまくいって、多くの人に認められても、 宝くじで大当たりをだしても、 自分の気持ちに極めて正直に答えた場合、時間の、長短はありますが、どれも、これも慣れてしまい、幸せであることを感じません。 具体的には、すごく好きな歌手を見つけて、そのCDを買っても、慣れてしまい、次のすばらしい歌手を探してしまいます。 実際、昔、あれほど、心を振るわせた音楽ですら今となっては、その辺りで流れている音楽程度の魅力しか感じません。 もし、人生の意味などに、永遠に幸福であり続けることを願うと、 その幸せを手に入れても、その幸せに慣れてしまうまでの2、3日の間に、他に幸せと感じることを見つけなければならないという歯車の中から抜け出せません。 どなたか、この疑問に対処する方法を教えていただけないでしょうか? 若しくは、ご回答者様の生きる意味などを教えていただけると幸いです。 お手数ですが、ご回答いただければ幸いに存じます。

みんなの回答

  • runelei
  • ベストアンサー率33% (4/12)
回答No.5

私も質問者さんと同じ、一つ幸せを感じてもそれがずっと持続することはありません。 景色や本で感動しても、たぶん質問者さんより早く幸せは終わってしまいます。 悩み事でもあれば、日ごろの些細なことに幸福を感じることさえ忘れてしまいます。 諦めかもしれませんが、私は毎日ずっと幸福な気持ちで過ごせることなど、生きてる限りないような気がします。幸せになりたいと願ってもね。 イヤな思いもすることもあれば、悲しいこともおきる。生きることが辛くなる時もある。 だからこそ、たまに訪れる幸せがとても嬉しいのではないかと思うのです。 厳しいことかも知れませんが、永遠の幸せを求めると、きりがないと思います。求めても求めても満たされません。幸せが幸せじゃなくなってしまいます。 質問者さんの文章を読むと、次の幸福を一生懸命探しておられるようですが、幸福と感じない期間も人生にはあるんだと受け入れてみてはどうでしょう? 生きる意味…難しいですね。 私も、一体自分は何のために生まれてきたんだろう?と思春期をとうの昔に過ぎた今でも答えを見つけられないでいます。 でも、今ここにこうして存在する限り、もがくしかないんだろうなと開き直っています。 私の感じる幸せは、たぶん質問者さんとそう変わりません。音楽を聴いたりとか、本を読んだりとか、面白いテレビを見たとか、温かくなり春が近付いたなとか、もうすぐ桜も咲くから見に行こうとか…そういうのを見るたび、しんどいこと、辛いことがあっても、またそのうちいいことがあるさと思っています。 質問者さんの求める回答ではないと思いますが、こんな考えもあると参考になれば幸いです。

  • ddeenn
  • ベストアンサー率18% (72/381)
回答No.4

たった30数年しか生きていませんが、その中で感じている「幸せ」について私なりに言葉にしてみます。 ボキャブラリーに乏しいのですが、すみません(汗 私の幸せは、人と人との間にあります。 両親をはじめとする身内、友達、仕事仲間、そして今まで出会ってきた子供達(私は子供に携わる仕事をしています)そして夫。 人との繋がりの中に私の幸せは存在していると感じています。 私は極普通の人間ですが、毎日とても幸せです。 でもこの幸せを維持する為には、やはり努力は必要だと思っています。 自分を知り、向上させ、人間関係の中で成長できるよう頭をフル回転させています。 更に、優しさと思いやりを大切にしていると、優しさと思いやりに囲まれます。 そこには「幸せ」が確かに存在します。 そしてそれは自分の努力でずっと感じることが出来ると思います。 そう考えると私の思う「幸せ」は、お金で買えるものではありませんね。 でもお金で買えないからこそ、大切にしたいと思えます。 生きる意味は・・。 そうですね、今はやはり夫の存在が大きいです。 夫と少しでも長く人生を一緒に歩いていきたいので、その為に生きているような気がします。 なので心から夫と私の健康と安全を願います。 でも私がこういう風に言えるのは、生活に危機がないからなのだと思います。 「生活の安心と安定」が根底にあって、はじめて感じられるのだろうなぁと思います。 国が違えば命すら危機に晒される訳ですから。 幸せとは何なのか・・?そもそもそれを考えられる環境にいる時点で、すでに幸せなのかもしれませんね。 回答になっていませんね。 気分を害されたら、すみません。

  • galluda
  • ベストアンサー率35% (440/1242)
回答No.3

がるです。 > 今ある平穏、今生かされていることに深い幸せと感じなさいということでしょうか? んっと…微妙に違うのですが。というか、幸せって「無理に感じようと努力して」どうにかなるものでもないですし。 基本的には、幸せという単語の裏に潜む意味、或いは質を「変える」こと、でしょうか。 そうですねぇ。私はよく使う言葉なのですが。「便利な単語を使わない」。 ご自身にとって「幸せ」とはなんですか? それを、幸せという言葉を使わずに定義してみてください。恐らくそこには「他者や過去と比較したときの」幸せが出てくると思います。 そうして、競い続けている限り、結局は「いつか負ける/不幸になる」という恐怖を背中に背負った幸せにしかならないと思います。 ちなみに、仏教ってものすご~~~く現実的で俗的です(特に原始仏教)。実際、欲望その他を「禁止」はしていないですし。 なんとなく、ご自身の発言を見ていると「幸せを感じなければならないという強迫観念」と「幸せに執着し続ける心」を感じます。 この辺、女性相手の話に近いのですが。血眼になって必死に追いかけると、大抵逃げ出していくものです :-P そうして、その「必死に幸せに執着する心」が、なによりも幸せを逃がす大きな要因になっているのではないでしょうか? もちろん、人間にそういった側面があることは良く知っているつもりですし、理解もできます。ただ、それは「努力によって」変えていくものなのではないでしょうか? 失礼ながら「何か、こう、自然と受け入れることのできる」の発言の、特に自然という単語について、私には「なんの努力もせずに」と感じられてなりません。 ちなみに。「急激に変化をさせる」ものは大抵あちこちにストレスを発生させます。 大切なのは、ゆっくりとゆっくりと。少しづつ「知っていく」ことではないでしょうか? 多分、このあたりもご自身の希望とは随分とそれるとは思うのですが(恐らくは「今すぐにでも答えが欲しい」のであろうと推測いたしますので)。 恐らくは「今」私の言葉が耳に入ることはないでしょう。 ただ、未来のどこかで、もし私の言葉が少しでも助けになれば幸いです。

ayaka19801201
質問者

補足

再度いただきありがとうございます! 私は、あまり、努力という言葉が好きではありません。(個人の価値観だと思います。主旨から大きく脱線するため割愛。決してこれが悪いという意味ではありません。)ただ、努力という言葉に惑わされてはいけないと思います。 川の流れのように、一番流れやすいところを流れるように流れて、道を作りながら、そして、たどり着けるところにたどり着く。そんな気軽さが欲しいわけです。 楽な方へ流れることが悪いと言ってしまえばそれまでですが、楽なことをするため、あえて苦しい道を通るというのもあるかもしれませんが、私は、もっと、他の方法でそこへたどり着ける方が大好きです。 例えば、偏差値アップであっても、 良い先生(子供の心、好奇心に火をつける。そんな授業のできる先生)や楽しい実験などを通して勉強するのと、 悪い先生(単に既知のことを述べる先生)と楽しくない授業ではそれに伴う、努力や苦労は全く違います。 私は、両方とも実際に経験して、同じ偏差値アップという目標であれば、努力をせず、楽をして、楽しく偏差値アップしたいと思います。 以前、友達にも言われたのですが(便利な言葉を使うな)といわれても、実は、今もって意味が分かっていません。 美しい景色を分かりやすく説明してくれ。と言われても、美しいものは美しいので・・・そんな理由しか浮かびません。 脳が、どういった反応したとかそういったことでしょうか? それとも、昔見たあの故郷の夕焼けを想像させ、それと今の組み合わせが脳の中で快楽中枢を刺激した。と言ったが確かなのでしょうか? 理由の後付はいくらか、書けるかも知れませんが、なんだかな~と思います。いまいちよく、分かりません。 とりあえず、最近感じた幸せについては、本(芸術系の本)を読んだ時です。 読んでいる時、その絵と文とストーリを読むだけで、綺麗、美しい、なんだか鼓動が早くなってドキドキきする。 その瞬間、幸せを感じました。 子供の時した、宝探しゲームのワクワクは、幸せとは感じなかったでしょうか?脳内麻薬が出てきて、それにより快楽を感じた。 これを幸せと感じた。そんなところでしょうか? これは、多分、どこのどれを比べたからではなく、ただ、それが自分を幸せな気持ちにしてくれた。そんな感じだと思います。 こころの深いところで、比較の原理が働いていますかね?良く分かりません。 そんな経験です。 言葉で言うとあまり、伝わりませんが、私が今回感じたことは、多分、比較ではなく、ただ、それをみたら幸せになった。 そんな感じです。 答えが、今すぐにでも欲しいのには、非常に現実的な理由があります!! 本気で仕事をしようと思えば(昔は、主に、金銭欲など。しかし、無間地獄。)、自分に納得できる理由やら目標やらが欲しくなります。 今、私は、この考えが原因で、嫌になり今から、1年少し前に仕事を辞めました。そして、フリーターやらニートやらそんな感じです。 学生時代と就職した時の蓄え、今のネットの単発的な仕事からの微収入があり、しかも、持ち家の実家ですので、とりあえず、食べるには困っていません。 しかし、このまま続けば、親の年金を食いつぶすことにならざるを得ません。 これは避けたい。でも、自分の気持ちに嘘をついて働くのは耐えられない! 幸せを感じなければならないという強迫観念があるとの指摘ですが、正しいかもしれません。 自分が幸せなのか、不幸せなのか分からない状態を、だらだら、毎日生きることには強い自己嫌悪感を感じます。それも、幸せを感じていないとき以外良く感じます。特に、仏教系のHPや某ゲームで「邯鄲の夢(故事)」という単語を故事成語を知ったと気には、これだ!と感じました。 そして、 仏教系HPであれば、これを解決するには、仏教的教えが必要である。仏教を極めば救われます。もっと勉強しなさいと続きます。 某ゲームであれば、これを解決するには、ゲームを続けて、これを現実の世界以上に貴重な体験と糧にしなさい。それを信じることができれば救われます。と続きます。結論や解釈は語弊があることと思い舞いますので、長くは書きませんが、私の悩んでいることを書けば、「邯鄲の夢」が最も分かりやすいことかもしれません。 だからこそ、急いで答えが欲しく、進むべき方向が欲しいと思っています。 発展途上国などに良くと、お金のため、生活向上のために働く人を微笑ましく思います。 なんだか、単語がばらばらとした、返信になってしまいましたが、私の悩みと、何をどう悩んでいるかなどわかって、アドバイスなどいただけたら幸いに存じます。

  • jayoosan
  • ベストアンサー率28% (929/3259)
回答No.2

幸福を追求すると >生産と消費を永遠に続けるほか無いことになります。 でしょうか? 永遠や常にというのは程度問題なので人それぞれですが、幸福を追求することは生産と消費だけではなく、その一時的に出会った感動でも仕事の結果でも、自分以外の人とシェアして共存することで、また幸せなことがめぐってきます。わたしは生産したり消費ばかりではないと感じています。 永遠に幸福であり続けることを願うのが、物質的なものや、それが消費して消えてしまうものだと、そこに答えも充実感も見出せず永遠にぐるぐる回ってしまうのかもしれません。 わたしは自分から幸福を願うだけではなく、自分ができることで回りの人や世の中にすこしでも貢献したいと考えますし、回りの喜ぶ顔や声がまた幸福感を増してくれます。また仕事などはよい循環が求められますが、よい循環の結果として精神的な幸せだけではなく、金銭や富などの形で現れるものもあります。またその富を回りへ再循環させていくこともできます。 精神と物質の両面にわくわくさせるものがあり、そこに幸福の追求の魅力があります。 この世という、周囲に他人が存在する世界に生まれたということは、どう社会や回りとかかわっていくかをみつけなさい、ということがすべての人に課題として与えてられているのかもしれません。 周囲の誰ともかかわらずに、孤高としてあたまの中だけで理屈だてて完結する生き方もあるかもしれません。 過去の哲学者はその答えをそれぞれみつけていると思います。 ただ、不思議なことに自分1人だけではほとんどの人は成立しないことを、長い人生の中で貧困・怪我・病気・不運などの現象を人生に見せながら、そこから学べよと自然の摂理は教えているような気がします。

ayaka19801201
質問者

補足

回答いただきありがとうございます。 なるほど~。確かに、そういった面はありますね。(子供の頃のバザーで地域の人と一緒に作って売ってという場面でありました。他にも、ボランティアに近いことであれば・・・) また、そうであるなら、人生はとても、充実したものとなるように感じます。 ただ、最近、生活のかかった仕事(アルバイト(遺跡発掘)、ネット関係の会社で働いた)では、残念ながら、そういった気持ちには一度もなりませんでした。 また、ボランティア的な仕事をしている母からは聞きますが、公務員で毎日仕事が苦しいといっている父からはこういった幸わせを感じる話を聞いたことが一度たりともありません。 ちなみに、そのような経験を得られたご職業はどういったものでしょうか? とても、興味があります!! もし、よろしければ、教えていただけないでしょうか?

  • galluda
  • ベストアンサー率35% (440/1242)
回答No.1

がると申します。たしか、仏教系思想でこのあたりが色々言及されているかと思うのですが。 まず「幸せ」ってなんでしょう? 多くの場合「比較による」ことが多いのが現状かと推測いたします。 過去と比較してよりよいものを。他者と比較して勝ち続けることを。etc etc...。 常に比較している限りにおいて、決して満ち足りることはなく、故に平穏は決して訪れません。 それを「執着」と呼称します。 様々なものに「執着」し、現実を否定して幸せを追い求める。そこにはまさに「無間地獄」といってよい世界が広がっているのではないでしょうか? 今を肯定し、執着を忘れてあるがままを受け入れることが出来るのであれば、平穏が訪れることを知っていて…なお「より良い未来」に執着してしまうのは、人の心の弱さなのでしょうか? 足るを知る。 この言葉の深いところを考察すると、或いはなにか見えてくるのかもしれません。

ayaka19801201
質問者

お礼

回答いただきありがとうございます。 つまり、この現実(無限の欲望の無間地獄)を認識した上で、今ある平穏、今生かされていることに深い幸せと感じなさいということでしょうか? もしそうであれば、今の、この気持ちを理屈だけで沈めなくてはなりません。それを感じれるほどの感性は多分無いと思います。 それよりも、俗的であり、資本主義が人々に受け入れられたかような気軽さで、現実的(私を含む、多くの人間は、弱い心の持ち主で、僅かな想像力と感性しか持ち合わせていないと思います。そんな人でも素直に、気軽に受け入れられる手法でという意)で無理の無い方法は無いものでしょうか? これは、仏教の限界なのでしょうか? 自分の気持ちを無理やり納得させても、心の奥底から納得できなければ、やがては押さえつけられていた本心が波を打って吹出す気がします。 経験上、そうであると強く思っています。 何か、こう、自然と受け入れることのできる方法を探しています。

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