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天皇家の三種の神器とユダヤのつながりについて。
こんにちは、今回は日本と他民族の繋がりについて御意見をいただきたく思います。 わたしは大学に通っているのですが、先日、日本文学の教授と「厩戸皇子」についての話になりました。そこで、「彼の侍従は秦氏であり、秦河勝と皇子の母もかなり親しかった。もしかしたら、厩戸皇子が景教の影響を受けていたかもしれない」という話をわたしがしますと、教授が、「伊勢神宮の八咫之鏡には、ヘブライ語が書いてあり、ユダヤの星が刻まれているらしいよ」と、情報を提供してくれました。これについて詳しく知っておられる方はおられませんでしょうか? 秦氏と厩戸皇子との関係についても、広くご意見戴きたく存じます。 よろしくお願いします。
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> わたしの質問欄の書き込みは「景教の影響を受けてい > るかもしれない、という話を聞いたことがあるのです > けれど、先生は何かご存知ですか?」という話の流れ > を割愛したものでした。 分かりました。 No.7 > 聖徳太子と厩戸、という使い分けは必ずしも思想的なもの > とは限りません。 まあ、その通りはその通りです。 > 今更聖徳太子をおとしめて喜ぶ幼稚な左翼、ってのは左翼 > に対する偏見でしょう。 ただ、これはそうでもありません。実際私も以前はそれほど幼稚というのはなかろうと考えていました。しかし、いろいろ調べるにつれ左翼(サヨクかもしれませんが)のレベルの低さは想像を絶するものと知り、考えを改めました。
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- pyon1956
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誤解しておられる方もあるようなのでちょっと確認を。 いわゆるユダヤ十支族についてはローマによるエルサレム破壊(紀元70年)によって失われた支族、という意味ではありません。またこれも誤解されている(というかそれこそシオニストの学者によって宣伝されている)問題ですが、このエルサレム破壊によってディアスポラが始まったわけでもありません。 ですから通常(大抵はいわゆるトンデモ系ですが)ユダヤ十支族と日本を結びつける場合、日本への渡来は紀元前、ただし北イスラエルのいわゆるイスラエル王国滅亡以降、という説を立てるのが普通です。ただし、イエスと結びつけたい向きには当然紀元1世紀以降になりますが。 イエスの時代、地中海周辺の都市には大量のユダヤ系住民がいたので、何らかの理由で移住したことはあり得ます。特にローマのキリスト教国教化(4世紀)ののち移住したとかいう仮説ならありえないわけではありませんが、こうなると八咫鏡とは時代も合いません。 さて、#10さんの論、確認しました。聖徳太子の生没年は少々別の説もあるのですが、その他はその通りなので、少なくとも秦氏から景教を学んだ、というのは可能性が低そうです。ただし、ネストリウス派自体は伝わってきた可能性は皆無ではないでしょうが少なくとも想像の範囲をでませんから(史料無し)、学問としては論外でしょうね。なお、これについて、九州王朝説の立場から、聖徳太子および推古さんは遣隋使を送っていない、という話もあります。隋の煬帝、という一ヶ所をのぞき。日本書紀に出てくるのは唐への使者を送った話だけなのです。通常ここの唐は隋のこと、と読み替えていますが・・・ なお言語の類似、というものから関係をたどるのは大変危険です。同一の文字を使っていてもたとえばフェニキア人とギリシア人は同じではありません。逆に少なくとも西日本の日本人と中国や韓国・朝鮮の人たちは言語的にはともかく、一定の血縁がある場合があるのは考えるまでもないことです。ただ、同一の、あるいは類似の単語があるからといって、同根や、支配関係などを推理するのは学問ではなくただの政治主義ないし国粋主義でしょう。むろん日本はアジアのふきだまりみたいな場所なので、ポリネシアや東南アジア方面、もちろん中国の他に北の方からの渡来や、半島からの渡来もずっとあったと思われます。ですから、なんらかの影響関係は当然あり、移入した言葉もあると思われますが、はっきり同根の言語といえるのが琉球語だけ、ということです。 従って、仮に八咫鏡にヘブライ文字が書いてあったとしても、それがどうしてか、というのは一概には言えません。なぜなら、 1.そもそもどこで作られたのか。例えば中国で作られたなら、中国にユダヤの文明が一部伝えられた証拠にはなるかもしれないが、そこまでである。あるいはもっと西の方から渡来したのだとすれば・・・・? 2.例えば古い国産の鏡や、また西周のころの青銅器で、技術的に稚拙だったり、文字の出来損ないが刻まれている場合がある。だから、仮にユダヤの影響があったとして、それをユダヤの人々が刻んだとは限らない。単にまねしただけかも。 3.何より現物を前にしてのことではないので、ヘブライ語らしきもの、六芒星らしきものが事実そうなのか、単に似ているだけなのかわからない。第一、ヘブライ文字であってもヘブライ語とは限らない(アラム語とか) というわけでまあ現物が出てこない限り鏡についてはまじめに議論する対象じゃないと思います。
- Jameskusa
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太古の日本の歴史を残す書物は数少ないので、極端な話神話の域を出ないものが多く、現在の歴史研究者でも絶対に断言できることなんてないと思います。聖徳太子が景教徒だったという話は聞いた事がありますし、当時の中国(隋)を政治のモデルにしようとした彼が、キリスト教が伝わったばかりの中国の新しい文化の流れに影響されたとしてもおかしくないことです。秦氏は帰化人という事が定説になっており、彼を通じて景教の影響を受けたとしても不思議ではないことだと思います。これが事実なら、聖徳太子の死後に景教を脅威に感じた仏教勢力がもみ消ししたであろうことは推測できますし、その後に飛鳥文化が栄えたことを考えると、事実だったらそうなりますね。 基本的には太古の文献はそのまま鵜呑みにできるはずもなく、聖徳太子が景教徒である、ないに関わらず質問にある内容もロマンがあっていいのではないでしょうか。ユダヤと日本が太古につながってたなんて普通には考えられないことだし、よく言われることですが、日本人もパレスチナをローマ帝国に追われたユダヤ人の血を受け継いでいるなんて事もあります。事実かは分かりませんが、太古の歴史は確実な物なんて無く、そういったロマン的要素があるから面白いと思います。
- reny
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「八咫之鏡」にヘブライ語が書かれていたと言うのは、明治時代の森有礼(ありのり、初代文部大臣)の逸話ではないでしょうか?鏡の裏面には、ヘブライ語で「エヘイェ・アシェル・エヘイェ(我は有りて在る者)」と神を讃える名が記されていた、と。 これは、その後森有礼が暗殺されたこともあり、一種の伝説となっていますが、かなりいい加減で、噂の域を出ません。 これ以外にも「誰それが見た」と言う同様の話がありますが、鏡自体がご神体であり、特に伊勢神宮は今上陛下ですらご神体を直接見ることは禁じられていて、おいそれと見ることの出来る代物ではありませんし、その手の話はつじつまが合わないので信憑性がありません。 また景教ですが、431年のエフェソス公会議で異端とされてから東方への布教が開始されており、中国に入ってきた時期は「大秦景教流行中国碑」と言う一次資料からは、635年(貞観9年)に入唐し、太宗の厚遇を受けたとされています(翌636年波斯寺(745年に大秦寺と改称)を建立)。 4-5世紀頃には秦氏が日本へ渡来していることは確認されていますので、秦氏が景教の布教の流れに乗って渡来したという議論は成り立ちません。 さらに、聖徳太子の生没年が574-622年とされているので、後に聖徳太子の出生伝説にキリスト生誕話が利用された可能性はありますが、彼が景教に触れた可能性は実証的には低いと言えます(名前に関しては出生地のそばに厩戸(うまやと)と言う地名があり、そこから取られたと言う説の方が有力です)。 なかなか歴史学的・考古学的に実証されることがなく、いまの段階では「面白いね」のレベルの話ですね。
- グイン リアード(@guin_riard)
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No3です。 「厩戸皇子」について、問題になってるようですけど、質問者さんの場合、日本文学の教授の影響ではないでしょうか。 日ユ同祖論の中では、いわゆるキリストの出生と重ね合わせるという意味で、この呼称を使うことが多いようですから。 私も普段だったら違和感を感じるのですが、この質問の中で、使われていたので、疑問にも感じなかったです。
- pyon1956
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>聖徳太子」と「厩戸皇子」、左翼思想はどう関係しているのでしょうか? わたしは後世の人がつけた号を使うのを避けたつもりだったのですが・・・。県内でも「ラディカル左翼」で有名な学校に通っているだけに、自分自身で気づいていない影響があるのであれば、なおしていきたいと思うのですが。 聖徳太子と厩戸、という使い分けは必ずしも思想的なものとは限りません。 一つにはこれは聖徳太子という人物がその後の歴史上どういう地位を以て評価されてきたかにかかっています。たとえば「上宮聖徳法王帝説」などは「祭り上げる」立場からの本であり、「帝説」、つまり実は帝であったという説を唱えるもの、と自ら表題をつけているわけです。しかし、これは説ではあっても史実ではありません。ところが隋書との矛盾から、裴世清が来日した当時の日本国の王が男でないと都合悪い、という点も踏まえた「歴史の書き換え」がおこなわれている、その最初です。 一方で厩戸皇子の子孫は抹殺されてしまっています。このあたりが難しいところです。前近代の史書というものが畢竟現在の権力者の正当性を示すことと裏腹に過去の歴史を描いている点で、明確な史料批判を行わないと実際に何があったかを推定することも困難です。 こういう意味で聖徳太子というのはやはり後世の呼び名であり、当時の呼び名ではない、という考えには一定の説得力があります。しかしながらそれをやりまくると天皇なんてのは明治以降と後醍醐さんをのぞいてはみんな諡号、つまり死んだ後の名前ですし、はっきりいってこのあたりは「慣例」によるもの、としか言い様がありません。 左翼の立場ですか?今更聖徳太子をおとしめて喜ぶ幼稚な左翼、ってのは左翼に対する偏見でしょう。むしろこのあたりもっと別の原因で呼び変えていると思われるのです。 たとえば、「伝説のベールをはいで、真実の聖徳太子を」描こうとするなら、これは厩戸皇子、とよんだほうがいいでしょう。またアレクサンドロスをアレキサンダー大王と呼ぶ(英語読み)か、イスカンダル双角王(ペルシア側での読み。評価もはいっている)というか、、原語でアレクサンドロスと呼ぶか、などというのとある意味では同様の問題です。こういうのは立場によって変わってくるし、流行というものさえあります。「左翼を喜ばせたくないから」というので名前をどうこうするのであれば、それも明らかにまた「偏った」立場になるわけです。そういうややこしさを避ける為、「元々こう呼ばれていた」という名前を選択するのが安全なわけです。こういったことから最近は原語主義が盛んです。ただし、徹底はされていないので、慣例上の名前(イエス、とかもそうです)を呼び続けている例も多々あるのですが。
- Sombart
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> わたしは後世の人がつけた号を使うのを避けたつもりだっ > たのですが・・・。県内でも「ラディカル左翼」で有名な > 学校に通っているだけに、自分自身で気づいていない影響 > があるのであれば、なおしていきたいと思うのですが。 恐らく、「後世の人がつけた号を使うのを避けた」というのはあなたが習った表向きの理由ではないでしょうか。 彼はその業績を称えられて聖徳太子と呼ばれているわけですし、それが慣例として根付いています(怨霊ゆえに聖徳とほめられ鎮魂されたという説もありますが)。 にも関わらず正式な場において厩戸という呼び名に切り替えることは、称えられたという歴史を無視し、その業績を軽視したいという意思の表れでしょう。それをして喜ぶのは、左翼だけです。 ただ、これは書籍で読んだ記憶であり、今手元にある書籍をいくつか当たったのですが、具体的な文献を発見できませんでした。 Web では、参考 URL のものがありますが、理由までは記載されていません。 ちなみに、景教の影響とは、具体的にどういうものなのでしょうか?
- Sombart
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日ユ同祖論は、日露戦争の頃にユダヤ資本が日本に融資してくれたことに阿って出てきたトンデモ説ですから、100%デタラメです。モルモン経なみに胡散臭い。 もっとも、秦河勝は聖徳太子の側近ですから、関係が深いといえば深いですね。 なお、梅原猛の「隠された十字架」が、景教と聖徳太子の関連を指摘した最初の文献だと思いますが、「ありえなくもない」レベルです。景教(ネストリウス派)はマリアの神性を否定したためにマリア崇拝で信者を稼いでいた教会にエフェソス公会議で異端とされた宗派です。それにしては、聖徳太子の業績にそれほど厳格な一神教の影響は見えません。 むしろ、聖徳太子は仏教の庇護者ですし、さらに根幹は日本神道の理解者でもあります。例えば十七条憲法は仏教よりも神道における至高の善である和を前面に押し出したものでした。 あなたの言う景教の影響とは、具体的にどういうものなのでしょう? しかし、最近は本当に聖徳太子を「厩戸皇子」と書くのですねえ。 左翼思想の広まりに、暗澹とした気分です。
補足
詳しいご説明、ありがとうございます。 ところで、すこし本題からずれてしますのですが、「聖徳太子」と「厩戸皇子」、左翼思想はどう関係しているのでしょうか? わたしは後世の人がつけた号を使うのを避けたつもりだったのですが・・・。県内でも「ラディカル左翼」で有名な学校に通っているだけに、自分自身で気づいていない影響があるのであれば、なおしていきたいと思うのですが。 よろしければ、書き込んでいただくか、詳しいHPなどを教えていただけますか?
- pyon1956
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証拠のないことなら何でも言えますがそういうのは学問ではありません。仮説を唱えるのは勝手ですが、想像だけでものを言っては学問になりません。学問は反証を含め証明可能でないといけないわけです。 例えば秦氏。渡来系なのはほぼ確かですが、イコールユダヤ系、ということにはなりません。朝鮮系、あるいは中国系である可能性の方がずっと高いです。 またいわゆるユダヤの星、六芒星形は世界各地に分布しており、明らかにユダヤの文字との共存が見られるわけではありません。数学史的に見て、六角形の(従って六芒星形の)作図は簡単なものですから、かなり古くからいろいろな民族が知っていました。少なくともユダヤより歴史への登場が早いエジプトなどです。だからまだエジプトからの伝播をいったほうがましなくらいですが、むしろ各地で独立に作られた可能性の方が高いでしょう。 そもそも日本語も歴史的に変化して来ているので、ヘブライとの関係が全くないという証拠はないでしょうが、学問的にはっきりしているのは、琉球語との関係だけです。むろん九州と朝鮮との関係は当然ながら深いでしょう。しかしユダヤについては全く証拠がありません。 また景教については厩戸は確かに知っていた可能性はありますが、基本的に仏教の人なので影響とまでいうと証明不能と思われます。少なくとも文献的証拠は皆無です。 ・・・しかし、この教授・・・歴史や民族学の専門かじゃないだろうな・・・あり得ない話を学生に語るなど・・・・
補足
書き込み、ありがとうございます。 教授は日本文学の先生で、主に戦後派の人々が専門の方で、今回のお話も芥川龍之介の解説から脱線した形で教えていただきました。 ところで、日本語はポリネシア文化圏の人々の言葉と近い、とNHK発行の本で読んだことがあるのですが、言語学的な見地から、日本語と他文化圏との交流などについてなにかご存知でしたら、お教え願えませんか?
- グイン リアード(@guin_riard)
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日ユ道祖論という、いわゆるトンデモ本の世界です。(私は大好きですけど) 天皇は、「みかど」ですが、ミガドとすれば、ヘブライ語で、ガド族出身という意味になります。(ガド族は、失われたイスラエル10氏族のリーダー) もともと、天皇の騎馬民族説というのがあり、それをユダヤまで発展させて、天皇家はユダヤ民族だという説です。 三種の神器は、それぞれ、八咫之鏡は、十戒石版。草薙の剣はアロンの杖、勾玉はマナの壺に相当する。 ダビデの星が描かれているのは確か、伊勢神宮の中だったと思います。(記憶がはっきりしません) 秦氏についても、朝鮮半島からの渡来説があり、この説では、やはり失われた10氏族だとされます。 秦市が建立した神社の一部に三柱鳥居が見られます。柱=神、つまりこの鳥居は三位一体を表しているらしいです。 厩戸皇子については、読んだことがないので分かりません。 ここで説明するには、膨大すぎるので、興味があるなら、本を読んでみて下さい。 飛鳥昭雄氏ら、ムー系の本が安くて、手に入りやすいでしょう。 あくまで、疑似歴史の範囲を超えていないと思いますが、それをふまえて読んで下さい。
補足
ありがとうございます、伊勢神宮の件、地元の友人を通して確認できました。
- kuni1993126
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確か鏡はで源平の戦いで壇ノ浦に沈んだのでは・・・。
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補足
継いでの書き込み、ありがとうございます。 お話ご尤もで、考えさせられます。わたし自身、人に言われたことを鵜呑みにしてしまっている傾向が強いので、考えなければならない時期にきているのかな、と思います。 景教の影響についてはよく存じません、ごめんなさい。わたしの質問欄の書き込みは「景教の影響を受けているかもしれない、という話を聞いたことがあるのですけれど、先生は何かご存知ですか?」という話の流れを割愛したものでした。 重ねまして、書き込み、ありがとうございました。