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生命倫理とは・・??悩みます。

私の叔母が先日、なくなりました。脳死でした。皆さんに質問です、急速な生命技術の発展で医療業界では凄い技術革新が見られます。 でも技術革新ばかりが先に歩いてしまっていて、これを上手に運用できていないし、そういった社会の仕組にに十分に整っていないと思うのです。 新しく開発された生命技術を医療として、どう利用すれば良いのか?私は考えてしまいました。 皆さんんは、再生医療や生殖医療、脳死といったことに関してどんな考えをお持ちですか?

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  • kikyou59
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回答No.2

大変難しい質問だと思います。 生命倫理とは、考える人や発言する側の立場によって大きく変わるからです。 私は看護師として20数年人の生き死にに関わってきました。 看護師に成りたての頃は、人の命を救っていくらの仕事だと思っていましたし、自分が一生懸命仕事する意味を模索する時、それは「人の命を救える」からとか「一方で生きたくてもそうできない人がいるんだから、救える命なら救いたい」という考えに行き着いていました。 けど、数多くの方の死に直面するに当たり、「生きるってどういうこと?」「死ぬってどういうこと?」と改めて考える事が増えたのも事実なのです。 まだまだ未知数の生命倫理ではありますが、今現在の私なりの解釈を話しますと……。 生きるということの延長上に必ず死が存在するという事。 『死』という概念を、それを迎える本人が許容できるかどうかという事に焦点を当てて考えるのが大切だと思う事です。 生命維持装置を使い続けることには多額の医療費もかかりますし、 家族の精神的負担も大きなものです。 再生医療や生殖医療も多額の費用がかかりますから、 要するに、それを利用する者がどれだけその技術を必要としているのか?多額の費用や精神的な苦痛を伴っても受けたい医療なのか、そうでないのか……ということだと思います。 脳死に関しては、未だ論議が活発に成されていて、日本の医療がそれに追いついていっていないのは質問者の方も実感されたかと思います。 ただ、脳死を『死』として認めるのは、妥当なのではないかと思っています。 沢山の生命維持装置をいくらつけてみても、その後回復する見込みがあるのか。よしんば意識を回復したとしても、それを本人を望むかどうか……。(重度の身体麻痺が残ったり、植物状態が長く続く事もありますし、障害を苦に自殺を図ったケースもあります) 本当にケースバイケースだとは思います。 決して安楽死を肯定するわけではありませんが、 「楽になりたい」「死なせてください」という言葉を幾度と無く耳にしましたし、「助けてください」という家族の声も沢山耳にしてきました。そんな中で、家族が『死』を受け入れることは容易ではなくても、本人が『死』を受け入れているケースが多々あるということです。 高価な生命維持装置を付け死期を延ばすのは、ある意味家族の意向と思えるケースがほとんどなのです。 それは家族がその方の『死』を受け入れられず、自分が家族を見殺しにはしたくない。出来る限りのことはしたい。という、願いから来ているとのではないでしょうか。 おそらく、自分の家族が同じ立場になったら、私もそう言うと思います。 ただ、不慮の事故とかでなく、病気で余命が短いと伝えられた場合は、 残された時間をどうその人らしく過ごすのがいいのか。 その人が死を受け入れられて、少しでも安息な終焉を迎えられるように、側に寄り添っていてあげたいと思うようになりました。 どんな死に方をした人であっても、御遺体の処置をしながら思うのは、死に顔が安らかなこと……それが私の唯一の救いです。 生きている本人たちに『死』を考えろということは酷なことで、 難しく、また怖ろしい事でもあります。 日本は無宗教国家だといわれますが、死=無という概念が、 この場合いいのかどうかということも問われます。 私は死=無だとは思っていません。 非科学的な考えも、ある意味必要だと思えるのです。 倫理という点ではずれてしまいますが、一人の人間としてどう生きて、どう死ぬのか。最後にはそういった精神的な一面が重要になってくるように思えます。 まとまりのない意見で申し訳ございません。 私も未だ考え中で、未熟な答えですがご参考になればと思い、 書かせていただきました。 叔母様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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回答No.3

前置きはあとで書きます。これはとても大切で包括的で生活態度すべてに関係してくる問題です。米国のキリスト教徒(だけではないですが)は真剣にこの問題に取り組み続けています(URLはブログです)。 以下は生命倫理に関する私のトピックコメントです。 1.生命維持装置:それは単なる道具。それによって人の尊厳を傷つけることはできない。 2.医者:日本の医者の多くは(受動的にでも)心臓が動いていることを至上とする存在(なかには脳死で判定する人もいるけど)。海外ではまったく考え方も違う。日本で受けた医療でたくさんの点滴などの傷は、傷害(故人に対する侮辱)と考えられて国際問題になったことがあるというのに。日本では医師の倫理感を守るための組織がない(だから薬物による安楽死は医師の責任だけで行われ、法的にはそれらはすべて殺人となる)。解決しなければいけない問題です。 3.患者あるいは自己:日本の患者の多くは自分で自分の死を決定できない。自分の命は自分の物のはず。これからはどうしたいか、はっきりと、人に伝える必要がある。いまの世の中では、自分の生命を自分で決めないと、決めあぐねる人(家族や医療関係者)たちにまで迷惑をかけ、自分の尊厳さえ失うという事態を招きやすい。  このように倫理が未熟で技術が進歩した社会で発生する問題を、自己の責任で解決する必要がある。生命維持装置や薬物は内在のものでも(神の与えたもうものでも)ない。  私たちは自分の意思でないものは拒否できます。私が、死にそうな家族に、この薬を打たないと死んでしまいますといわれても、回復する見込みがなければ、”私は本人でないから許可できません。もっとも救急救命上で必要ならば行ってください、それからこの人の侮辱になることはしないでください”というでしょう。(有効な体外式心臓マッサージはたくさんの肋骨骨折を作ります。) 4.胎児:日本の胎児の生存権の保障はない。ある母親は3ヶ月の堕胎の理由に##症を挙げた。では##症で生存している子供や大人の生存は何なのか?私たちはいきとし生きるものとしてこの世の命を誰にも邪魔されず(神の御心のままに)全うすることができるように、(神の前の平等を)分かち合っているのではないか? その子を守るのが、その子がうまれてこようとする世の中の役割のはずです。  私たちには心のあるいい社会を作る義務があるはずです。 5.羊のドリー:凄くかわいそうな羊。クローン実験のために生まれ実在した生命は監視され管理されて死亡した。すこしドリーの気持ちをわかるための瞑想をしましょう。私にはドリーとdonnaが重なってなりません。 6.ただしい倫理の上に、再生医療や生殖医療が乗らないと、私たちは、シャーレの上のゾウリムシ以上の存在ではなくなります。(あすにでも、乾いて滅びるでしょう。) ーーーーーーーーーーー 実は私にはその資格がないのですが、Christian Right(キリスト教右派)と呼ばれる考え方を基本的には支持しています。米国のマイアーズ(Harriet Ellan Miers)大統領法律顧問の問題で話題になったことでもご存知でしょう。マイアーズは堕胎を容認する意見を過去に提出していたので、ブッシュの強力な支持母体である福音協会保守派の反対にあったのですが、かわいそうな母親の現実を理解したことばであったとして、状況的な理解も得られたようです。(http://en.wikipedia.org/wiki/Harriet_Miers

参考URL:
http://smartchristian.com/blog/?p=2209
  • 007_taro
  • ベストアンサー率29% (540/1831)
回答No.1

「生命」とはなんだろうか、という議論が少ないまま(私が知らないだけ?)、技術だけが先行しているように感じます。 実際にその立場にならないと分からないのは確かですが、体外受精とか、クローンなども、技術が発達してできるがために、使うケースが出てくるとは思うのですが、本当に自然の摂理をムシして大丈夫なのか、心配です。自然の摂理に合わない場合、何かゆがみが生じているので、そこに目を向けてみる必要があります。そうすると、必ず「生命」というキーワードが出てくるとは思いますので。 特に日本は、今、無宗教の状態なので、何かに対する冒涜という感覚がないまま、からすべりの倫理を論じているだけの気がします。宗教は必ずしも、ある「神」が存在しなくても、「人間の力を超えた何か」で構わないと思うのですが、こういう論点を軸にすることも反発が多いのでしょうかね。 私は父を亡くして数年経ちますが、今は医療技術も進んで助かっている人が多いのを見ると、「あの時が今なら」と思いますが、決して倫理を超えた方法を用いても、とは当時も考えませんでした。余裕がなかっただけかもしれませんが。 取りとめがなくなりましたが、こんな感じで考えています。

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