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「責任能力のないものは権利行使は認められない」賛or否
学校で教職課程をとっています。道徳教育の研究という授業で、「責任能力のないものは権利行使は認められない」かについて、賛成、反対の立場に立ってディスカッションしています。いろいろな方の考えが知りたいと思い、ネットなどを使って調べていたのですが、思うように探せないでいます。いろいろな方々の意見を聞いて参考にしたいので、ぜひお願いいたします。 責任能力のないものと、権利行使を具体的にどんなもので考えていくかで変わってくるかと思いますが、たとえば、先生の例えですと、耳が不自由な人がディベート中に「もっと大きな声で、もう1度…」とお願いすると、聞こえない人はこの場に参加する権利がないといわれてしまったりする、この場合賛成ですか、反対ですか?と…何を例えに持ってくるかで考えが変わってきてしまうような難しい問題なのですが、ぜひ意見をお聞かせ下さい。お願いします。
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今回のご質問の趣旨に沿う意見かどうかはわかりませんが、例えば以下のような例はどうでしょうか。なお以下の記述の中には私の持論とは異なる考えもあえて記していますし、不合理な考え方も記しています。これらをテーマに用いる場合にはご自分の持論を作り直してください。 (1)近年の不況により経営が破綻する企業が増えています。そして多くの債権者が多大な債権の回収が不可能となって泣きを見たり、国家による損失補てんという形で国民にツケが回ってきたりします。あくまでも極めて狭い見方をした結果論ですが、これはある意味「責任を超えた範囲での事業展開を行った結果」といえますよね。事業展開は権利として認められますが、「借りた金を返す」という当然の義務は履行されません。 (2)授業の教材としてということですので、参加者は独自に生計を営めない大学生かと思います。彼らが教師を目指しているのであれば「中高生カップルの間に子供が出来てしまった場合」というのはどうでしょうか。性行為を恋愛のひとつの形として捉えるのであれば(これ自体大きなテーマになるかと思いますけど)、その結果妊娠してしまった場合、カップルは何に対してどのような責任を取れるというのでしょうか。ディスカッションをする学生自身の問題とも捉えられるので議論しやすいかと思います。 細かいところでは「親が支払う子供の多額な携帯使用料金」「政治家の政策ミスによる不況増進の責任所在」「狂牛病に対する官庁とマスコミの対応」「事件事故を起こしたときに損害賠償出来るほどの資力がない」など。事件事故に対する責任を表す言葉としては刑事責任、民事責任、社会的責任などいろいろありますが、これらの意味はわかりますよね。 もっと身近に考えれば「give&take」で捉えられることは沢山あると思います。 最後にすでに誤解を与える表現だったことを反省しておられるところを再度つついて申し訳ないのですが、浮浪者問題はこれ自体が大きな社会問題ですので「義務と責任」というテーマで扱うのには反対です。そうそう、このようなテーマの例に「耳が不自由な人」を出した教官の能力は極めて低そうですね。
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- keikei184
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長文の補足をいただきまして、ありがとうございます。m(__)m 補足を読ませていただきましたが、ご質問の「責任能力」の定義が困難なのであれば、この質問に対する一般的・普遍的な回答は難しいように思います(私の他に回答者がいらっしゃらないのはそのせいではないでしょうか)。例えば、この「責任能力のない者」を、「行為能力のない者」や「義務を果たさない者」等に限定してやれば一般的・普遍的な回答ができるかもしれませんが、この「責任能力のない者」をkogepannさんがおっしゃるように、意味としてかなり広く捉えるのであれば、この言葉は非常に多用な意味を含み得ますし、「+」の意味も「-」の意味も持ち得ます。例えば、私は、「税を納める義務を果たさない者が社会権を主張すること」には反対ですが、「ハンデを持ち、回りに迷惑をかける可能性がある障害者が社会行事に参加すること」(ご質問の例に近いと思います)には賛成です。これがどちらも「責任能力のない者が権利行使をすること」だとすれば、一概に賛成・反対とは言えない事になります。 ここで終わってしまうと何の回答にもなっていませんので、ご質問の例に関してだけ回答させてください。 >耳が不自由な人がディベート中に「もっと大きな声で、もう1度…」とお願いすると、聞こえない人はこの場に参加する権利がないといわれてしまったりする、この場合賛成ですか、反対ですか? これが道徳・倫理的なquestionだとすれば、私の個人的な意見は「反対」です。社会にはハンデを背負った人が数多くおり、この人たちが健常者と同様に生活することは困難です。また、ハンデを背負った者が健常者と同じfieldに参加しようとすれば、物事の進行が遅れ、健常者としては足を引張られる形になります。功利主義的に考えれば、このようなハンデを背負った者は放置して、通常通りゲームに参加できる者のみで物事を進行させるべきだと言うことになるかもしれませんが、このような態度を取ることによって、私たちは今までに数多くの物を失ってきました。国家が功利に走ってしまえば、数多くの物を失うことになります。国家は「福祉国家」であるべきです。すべての人が幸福に与る権利があります。国家の国家たる所以は、国家に属することによってすべての構成員が幸福を享受できると言うことです。通常通りゲームをプレイできる者が、プレイに困難を抱える者に歩幅を合わせることは、国家に属していることから当然に帰結されることではないでしょうか。 以上、非常に私的な意見を書かせていただきました。もし、この「責任能力のない者」という表現をより限定的で明確に捉えることが出来れば、もう少し一般的な議論ができると思います。ご質問の回答になったかどうかは甚だ疑問ですが、kogepannさんのご参考になれば幸いです。
お礼
わかりにくい質問内容、文章であるにもかかわらず、御丁寧な回答をいただきまして、ありがとうございました。『私たちは今までに数多くの物を失ってきました。国家が功利に走ってしまえば、数多くの物を失うことになります……』の部分、とても参考になりました。keikei184さんのご意見を参考に、この問題について、私自身でもう一度じっくり考えていきたいと思います。 ありがとうございました。
- keikei184
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「責任能力」という表現ですが、これはどのように意味で使用なさっているのでしょうか。法律上あるいは一般的な意味では、責任能力とは「自分の行った行為に対する反動として自らが責任を負うことが出来ること」といったところだと思いますが、ご質問の例で、「耳が不自由な人」は責任能力がないという意味でしょうか。なぜ「耳が不自由な人」に責任能力がないのか、非常に疑問です。以前の刑法にいん唖者の責任能力を免除・減軽する規定がありましたが、この不合理な規定は削除されました。いん唖者であっても、自分の行った事に対する責任を取ることが出来るという意味では健常人と変わりません。 私が知らないだけで、教育学その他の学問に「責任能力」についての別の定義が存在するのかもしれません。ただ、一般的に考えると「耳が不自由な人」に責任能力がないとするのは前近代的な考え方でかなり滑稽です。ご質問の例でkogepanさんがおっしゃりたいことはおそらく、「ある物事に参加する際、ハンデを背負った者がその物事に参加する資格があるかどうか」ということだと思いますが、「ハンデを背負った者」を「責任能力のない者」とみなすのはどうでしょうか。この「責任能力」の定義を是非お聞きしたいです。
補足
さっそくの回答、ありがとうございます。私の質問の書き方が悪かったのかもしれません。私があそこで書いたことは「責任能力がないものは権利…」を考えていく上での例え(指針?)であって、私がハンデを負ったもの=責任能力がない者と考えているわけではないのです。一例として、ハンデを背負ったものを責任能力がない、と考えている人もいるという話しです。 私はこの問題を「責任能力がない者、と権利行使」にどんなものが当てはまるか、を考えていっているので、「責任能力」がなんなのか、それだけでとらえて定義は出来ません。すみません。 私が今考えている、「責任能力の…」は、たとえば、浮浪者(←的確な表現が分かりません)が働く義務、納税の義務を怠っているのに、自分たちが公園などで生活する、生きる権利を主張することについてです。「責任能力の…」をこのようにとらえた場合、どう考えられますか?浮浪者の権利は、当然あるべきものだと思いますか?あるいは国民としての義務を怠っているのだから、権利を主張する資格はないと思いますか? また、もし、何らかの障害を持った子供が、健常者と同じ学校に行きたいと考えたとします(そのような話しを前に聞いたことがありまして…)。しかし、学校、もしくは市などで「責任を持てないので受け入れられない」といわれたとした場合。この場合、学校で健常者と同様の生活をする能力が持てない者は、権利(この場合は教育を受ける権利)を行使できないという風に考えられると思うのですが…。このように「責任能力の…」をとらえたとしたら、賛成されますか?もしくは反対されますか? 長い文章になってしまい申し訳ありません。ご意見ありましたら、ぜひお願いいたします。
お礼
とてもわかりやすく丁寧な回答をいただきましてありがとうございます。「権利能力の…」の問題をもっと身近に考えていくことができそうです。TomStantonさんの貴重なご意見を参考にして、自分自身でもっとよくこの問題について考えていきたいと思います(浮浪者問題についても)。 「耳が不自由な人」を例としてあげた教師についてですが、実はその先生自身が耳が少々不自由なのです。教育についての議論をする場に参加した際の実体験を例に上げてくださったのです。