「自分探し」という言葉が流行り出してずいぶん経ちますが、実は「本当の自分」なんてものは存在しないのです。
人間の性格は90%以上後天的な「経験」で形成されます。
生まれた時は誰でももっている本能以外まっ白なのですから、これは当たり前ですね。(前世の魂とかいうものを信じる場合は別ですが)
もちろん持って生まれた体が病弱だったりゴツくて怖い印象だったり、という違いはあるのですがねこれはあくまで「器」です。
で、この真っ白な器の中に、怖い目楽しい思いなど経験によって色々なことを記憶として蓄積した【全体】が『自分』です。だから双子のように同じ器でも、だんだんに互いと違う体験をするようになれば性格が違ってきたりしますよね。もちろん時代が違えば体験する事も全然違いますから、今の『自分』が形成されることはありません。
ヒットラーのクローンを今のドイツで作ってもあのヒットラーにはなるわけがないのです。
ところが、記憶と体(器)で形成された『性格』と、それによってどんな考えと行動をするかという『人格』は違うのです。
人間の社会ではお互いの考えがぶつかったり影響しあうため、その場その場で自分を良く見せたり防御したりする必要が出て来ます。
たくさんの経験と知識(これを全部ひっくるめたものが『自分』だという事は言いましたね)の中から、「こういう行動をする人は好かれると思う」などの『自分の一部』を無意識に引っ張り出して、「場にふさわしい人格」を演じるのです。
人間は誰でもこういう『人格』をいくつも内面に抱えていて対象に応じて被り替える。それを『ペルソナ』といいます。(多重人格とは違います。「無意識の内心」とでもいうものです)
たとえ「本当は善人じゃないのに良い人を演じている」と感じているとしても、その「善人」の定義が自分の中に蓄積された知識に過ぎないんですから、結局はそれも「自分がもし良い人だったらこう」という『ペルソナ』の一つにすぎないわけです。
しかし、どれもが本当の自分だと認める事ができないでいると、押し込められて出られないペルソナがいくつも暴れ始めます。「そんなのは偽善だ」「縛られたくない」「破壊したい」…別の一面が「俺も『自分』なんだ」と無意識の海から激しく主張してくるので、そっちの方が『本当の』自分のような気がしてくるのです。
これを解決するには、時々はふさわしい場を作って『色々な自分』を開放してやることです。
破壊的な自分のために存分に破壊できるオモチャや遊びをしてやり、なまけたい自分のためにはムリヤリ休暇をとってみる。欲望が単純でたわいない子供のころに開放が充分できないと、押し込められたものが余計なペルソナをたくさん生むといわれています。
もちろん女に異常なコトをしてみたいなどという反社会的な自分を実際に解放するのは困りものですが、幸い精神には『代償』というもので少しは満足できる機能があるので、イヤだという女の人に迷惑かけずに処理する事も可能でしょう。
どうでしょう、『本当の自分』など無いのがちょっとお解りいただけたでしょうか。
探したり悶々とするくらいなら、気が進まなくても色んなことを体験した方が思わぬ自分を発散できるかもしれませんよ。
お礼
retorosさん。説得力がありますね。 >人間の性格は90%以上後天的な「経験」で形成されます。 生まれた時は誰でももっている本能以外まっ白なのです >『本当の自分』など無い なるほど~。 そういえばそうだなー。と思いました。 新しい発見でした。