「米国が、それまでの外交交渉の経緯一切を無視して、いきなりとてつもなく無礼な文書を通告してきた」と日本政府の要人が解釈して開戦へ突っ走った……というところだと思います。
戦後の東京軍事裁判で、インドのパル判事がハル・ノートの「無礼さ」を責める判決理由書を書いています。『このような無礼な外交文書を提示されれば、ルクセンブルグ大公国のごとき小国でも、米国に対して武器を持って立ち上がっただろう』……と。ハル・ノートが当時としては「それまでの外交経緯を踏みにじった、我が軍門に降れと言わんばかりの無礼で脅迫的なな通告」と解釈されるべき側面は確かにあったようです。
ハル・ノートの主要な条項を上げれば、こういった内容でした。
1) 英中日蘭蘇泰米間の不可侵条約締結、2)仏印の領土保全、3)日本の中国印度支那からの撤兵、4) 日米の中華民国の承認、5) 日米の海外租界(と関連権益の放棄)、6) 通商条約再締結のための交渉開始、7) 米による日本在外資産凍結解除、8) 円ドル為替レート安定に関する協定締結、9) 第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄、10) 本協定内容の両国による推進。
この内、日本政府が耐え難い条項と見なしたのが、3)、4)、9)。
特に、3)の「中国」が満州(現在の中国東北部)に対する日本の権益放棄を要求したと日本政府が解釈したことで、日本政府にとって宣戦布告に等しい通告と解釈された、と言われています。つまり、それまでの日米間の外交交渉で、日本政府は米国が満州においての日本の権益を認めていると解釈していたため、ハル・ノートのこの条項が「掌を返したように、日本に屈服を迫るもの」と解釈されました。満州地域の領有に関しては、当時の日本政府の要人が『たとえ日本全土を焦土と化しても、絶対に守りきる』と公言したほどで、絶対に譲れない条件と、当時の日本政府の中では考えられていました。ゆえに、ハル・ノートが『日本の焦土化』を要求したとの解釈に直ちに結びついたと考えられます。
また、4)に関しては、当時の日本政府が、日本政府の援助で南京に樹立された王兆銘政権を正規の中国政府として承認している事実の無視。近衛文麿首相が『国民政府を交渉相手とは認めず、これを抹殺するまで戦う』と宣言していますので、日本政府としてはメンツに拘わる条項でした。
9)については日独伊三国軍事同盟の破棄を要求するものとして、当時の日本政府としては受け入れがたい条件と捉えられました。これもヒトラー・ドイツと外交的な同盟を結ぶ唯一の大国(当のヒトラー自身の述懐によります)となった日本のメンツにかかわる問題でした。
以上、一応ハル・ノートに焦点を絞って回答してみました。
お礼
回答ありがとう御座います。 なるほど、確かに3と4と9は日本にとって死活問題に直結しているようですね。 これを戦争をしてはいけないと考えこのまま受け入れてしまった場合、日本は間違いなく今のような世の中にはなっていないと感じます。 誇りのために戦ったという言葉も、4と9に関連してくるように思います。 この後にさらに要求を突きつけられることも予想されたのでしょうね。 解釈にも問題があったと思われますが、当時の植民地支配と西欧列強の帝国主義の中の世界情勢では、日本側がそう解釈してしまうのも当然だったのでしょうか・・・。 どうにも年号が混じってしまい、何がどういう原因だったか分からない部分が要領を得ました。 ありがとう御座いました。