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安土城の大手門前に広場、行幸迎えるため?

安土城の大手門前に広場、行幸迎えるため? http://www.asahi.com/culture/update/0819/001.html という記事がありました。 広場が見つかったからといってそれが天皇を迎えるためと考えるのは何故でしょうか? 全くの空想としか思えないのですが。 よろしくお願いします。

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  • ogisan007
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回答No.2

>安土城の大手門前に広場、行幸迎えるため? 結論としていえば、十分に考えられるということでしょう。 安土城の発掘の成果からすると (1)本丸御殿は、天皇の御所の清涼殿と東西が逆になっているものの、同じ構造であった。これは、天皇を迎えるための特別な御殿があったことは、「信長公記」にもかかれています。 (2)大手道は、戦国期の城郭の常識をはなはだしく逸脱しており、伝秀吉邸・伝利家邸にしてもかなりの規模で大手道を飾る屋敷跡と考えられます。また、大手に三つの虎口があることもかなり異常です。この、三門形式は平安京の宮城門(朱雀門)を模したもので、目的によって使い分けられていたと考えられるようです。天皇を迎えるために使う門も想定できます。 安土築城の頃の信長の意図として、「天下統一」を目指しているわけでして、それも無位無官のままで天皇の権威を必要としない自信があったのではないか。それが、天皇行幸で信長と天皇の位置を示すことで天下に示そうとしていたと思えます。 天皇を安土に迎える必要が信長としては必要であったと思えます。そのためのお城でもあったのは・・・。 ですから、 「安土城の大手門前に広場、行幸迎えるため」は考えられることと思えます。

その他の回答 (1)

  • noranuko
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回答No.1

記事にあるように、 >これまでの発掘調査で、天皇を迎えるための「御幸(みゆき)の間」とみられる公家風御殿があったことなどがわかっている。 ことからの類推でしょう。 この根拠は信長は天皇の安土城への行幸を2度計画しており、 御幸の間や大手道などはそのために作られたといわれています。 そして今回見つかった広場は大手門の外側、つまり大手道につながる広場であることから、 >行幸迎えるため であると考えられるということでしょう。 http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50819a.htm

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