面白そうな質問には喜んで答えさせていただきます。
数学は他の学問にはない特徴があります。
それは他の学問が現実に存在しているものの知識を説明しているのに対して、数学はそれらの学問を構築するための思考法としての役割を担っているということです。
自然科学においては特にその能力を発揮していることはいうまでもない真実でしょう。物理・化学・生物それらの研究においてデータは全て数字によってまとめられており、法則は数式によって表記されています。
その理由は数字というものが割と純粋な観念として認められている存在だからです。1は誰が見ても1です。たいていのものは1個2個と数えることが可能です。つまり誰が見ても同じ、なんにでも使える観念の代表格なわけです。したがってそれによって書かれた物は誰が見ても同じ、なんにでも使える表現になり得るわけです。
ただしそれは逆に言えば、たとえて言うなら氷の上をスパイクも履かずに歩こうとしているもので、何も意味のある言葉を語ろうとせずとらえどころのない存在ということもできます。数学が捉えるものは常に「この現象とこの現象は違うように見えてまったく同じことである」ということだけです。例えば正三角形は等しい三つの辺からなっていますが、三つの角が等しいという言い方もできます。どちらも正三角形でしか起こりえないことです。裏返せば物事に対してこれはいけない、これは正しいという積極的な考え方がまったくと言っていいほど欠けています。3という数は誰が見ても同じ数ですが、2より大きい得な数と考えるか、4より少ない悲しい数と考えるかは、その数の使われ方やそれを見た人によって異なるでしょう。さらに数学だけでは物事は捉えることはできません。さまざまな仮説を立て、仮説に基づいた実験を行い、仮説の間違っているところを調べるという作業は数学にはできないもので、実際にことを起こさないとわからないものです。いくら数学ができても実際に実験をしなければ物理の重力係数すら測定できません。
では数学にはまったく価値がないかというとそうではなくて、例えばニュートンの万有引力の法則やアインシュタインの相対性理論などは数学の賜物なのです。例えばニュートンはりんごが落ちるという現象とつきが地球を回っているという「現象が同じ」ことだということを示しました。つまり月は地球に向かって落ち続けながら前進しようとするのでいつまでも地球の周りを回っているのです。これによってりんごの落下と月の回転は同じ一つの数式によって示され、それまでの物理学が整理されてすっきりしたわけです。こういった、同じことという考え方や物事の整理に数学は非常に役に立ちます。ただしつきの回り方を実際に月を見て丹念に調べたのはケプラーの師匠ですし、重力を実験でどういうものか示したのはガリレオです。ニュートンはそれらの研究を踏まえて整理をしたという意味で偉大であり、万有引力を見つけたという意味で偉大なのはむしろケプラーの師匠やガリレオなわけです。だから数学も、全ての学問に使える思考法という意味では有用ですが、全ての学問を支配しているわけではありません。御友人が言いたかったのはそういうことなんだと思います。
会社の上司は人間をまとめるのが上手いから上に立つべきなのであって、えらいから上に立っているというのは間違った考え方であるというのと似てる…と考えればわかりやすいかな?
ボクの考えている数学というのはそんなところです。
お礼
この回答から数学は他分野への影響が大きいため、一見全てを内包しているようにみえますが、 実は見掛けだけであってただ他からは道具としてしか使われてないというのが伝わりました. 確かにそう考えるのは一般的かつ普遍的で誰もがその意見の通りだと思わざるを得ないと思います. しかし、数学の影響力はそんなものではないと思うのですが、 たとえば、上記でケプラーの例を挙げておられますが、現に今数理言語学や数理経済学など多方面に渡って数学が使われ始めていますよね. この表現自体数学は道具だと自認しているように聞こえるかもしれませんが、 要は汎用性が莫大に広いという意味で支配という考えは成立しているように思えてなりません. 勿論、bo-sukeさんの見解もわかりますが、本当の意味での真の支配者は神であるので、 学問としての真の支配者はいるとしたなら、やはり数学しかありえないのではないでしょうか. 自分は何か数学を認める立場に固執しているような気もするのですが、自分の見解としては以上です.