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大人は物事に感動しなくなるのは?

小中学くらいまでは相合傘やらラブレターやら、「精神」で遊んでましたし、それで思っている相手に告白やらすることにものすごく純粋な思いでやっていました。 テレビゲームの新しいのやら、図書館で借りた本を開くのが凄く幸せな気分でした。 それが大人になってなくなってしまったのは、どういう心理なのでしょう。 ただ単に、目が肥え舌が肥え耳が肥えしてしまったからでしょうか?

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回答No.5

子どもの時、観るもの全てが初めてで感動でした。雨が降る。虫が鳴く。鳥は空を飛び、星は光る。不思議なことばかり。絵本や漫画も新しい世界へ旅立つきっかけになりました。純粋に恋をして、どうしていいのかわからず、ただただ赤面だった初恋。いろいろと懐かしい思いでいっぱいです。 大人になるということは、そういった子どものことを理解できなくなった、オトナしい存在になったことだと思います。全てが不思議で、感動で、面白くて、知りたくて、行動的で、エネルギーに溢れている子ども。 まず、小学校から社会的行動が義務付けられます。そこで学問を学び、社会生活を体験を通して学びます。当然、我慢しなければいけないことが多々あります。おかしいと思っても、社会的に従って行動しなければいけないことがあったり、また、社会内における自我も発達します。他人の目を気にするようになるんです。 極端な話、"大学を卒業して就職してキャリアを積んで出世しなければいけない"というような、目に見えない定規を社会内で、気にしたりし出すんです。また、○○歳の男としての自覚とか、自分で自分を"枠"にはめようとしだします。 大人になれば、資本主義国家の義務として、"労働"のこと意識しなきゃいけないし、そこで少しでも多くのお金が欲しいとなれば、出世しなければいけません。 大の大人が子どもみたいなことをしていたら、精神レベルを怪しまれたりもします。それでも僕は平気でしますが。bossambaさんがおいくつかわかりませんが、多くの人は高校生になれば"高校生ぶる"し、大学生になれば"大学生ぶり"ます。その枠の中に入って演じているんです。演じなければカッコ悪い、そういう目で見られます。純粋な人は、演じるんじゃなくって、その枠の中でもスジを通します。それが大人になると大変になったりもします。大人の世界は、本音と建前の世界です。尊敬してなくても上司を尊敬しているフリをしたり、謝りたくもないのに、クレーム処理で頭を下げたり、いろいろと大変です。そういう社会で生きていくには、純粋に感動なんてしていられません。純粋であるより、相手の裏をかこうと神経を使う人が多いんです。常に社会的にいい場所にいようと必死です。多くの人は、感動よりお金や安定を求めるようになるんです。 本来、恋愛とは純粋に男と女がぶつかるものだと思うのですが、大人になって恋愛すると、なんだか打算的な人が多いようです。肩書きとか収入とかいろいろと計算して結婚とか絡んできます。純粋にぶつかれば、これほど感動的なことはないのに…。その価値を忘れてしまった、あるいは知らないうちに大人になってしまったんだと思います。 その背景には、感動する精神は自分の内に響きます。それを共有することは、なかなか難しいのです。それを表現すれば芸術家だと思いますが。大人になると、そんな個人的なことよりも、他人に認めてもらいたい、そのためにも、社会的肩書きとか、お金持ちになるとか、とかく、他人が評価できるものを求める傾向にあると思います。やはり安定ですね。本当の芸術家は、相手に認めてもらいたいために絵を描くのではなく、表現したいから絵を描くんだと思います。優先順位が違うんです。 大人は肥えるのもあるけど、慣れて惰性的になり、感性が麻痺してしまい、感動の価値を忘れ、またそれがない世界で生き、他人から認めてもらえる社会的な価値を求めるようになるんだと思います。

noname#32495
質問者

お礼

感動できないのは社会的規制だとのお考え、目からうろこです。そう考えるとなっとくします! 無意識に「感動しちゃいかん」と思っているのかもしれないですね!ほんとにそうならなんてことでしょう。そうまでして社会を回さなきゃいかんの?と思わざるを得ません。感動することがかっこ悪い、おならを我慢しているとしたくなくなる、笑いをこらえているとおかしくなくなる、ありますよねそういうこと! 救いは芸術なのかもしれないですね。 感動の性質として、個人的体験であること、これはほんとにそう思います。そして「共有」が大人社会の常だとそれば、感動は確かに邪魔になりますよね。 芸術家は強い心を持たないとだめですね。個人的体験を推し進めなきゃなりませんから。

noname#32495
質問者

補足

大人社会は「社会」他人と妥協して秩序を維持すること、いちいち納得です。そして、「感動」は共有できません。それは映画を見まくった時期があって、サイト等で討論会をやってもよくわかります。自分の感動を他と分かち合おうとするときの失望感を。 そういう分かち合えないもの、強い気持ちがないと維持できず、群れることにしか安心感を見出せない傾向にある大人が、当然感動から「本能的」にか、遠ざかっていくのは、非常に納得できます。 そして、この世の常に深く失望すます。

その他の回答 (10)

回答No.11

お返事ありがとうございます。 >このご指摘、衝撃的で、違った意味で「感動的」でさえあります。真実をあまりにも言い当てている気がします ありがとうございます!まさにそれなんです。それが、僕にとっての「感動」なんです。僕の主張は、毎回不遜と思われるかもしれませんが、それでも書きますね。決意した日から、自分がどんどん透明になっていく感じなんです。まさに自分が成長している実感があるんです。それもまた「感動」なんです。 そして、僕は相談に乗ることによって、より深くいろんな視点で考えることができるようになると思うんです。コミュニケーション相手の視点と自分の視点は違いますから。そこで価値を発見するためにも、自分が思ったことは素直に言うべきだと思うんです。その上で、相手がキャッチボールのように返してくれるからこそ、そこに相互発見の発見が生まれるんだ!と思うんです。 僕がコミュニケーションをする意味を哲学して気づいた点がそこなんです。人間は自分では自分が何かわからないもので、他人とコミュニケーションして初めて自分の存在を確認できると思うんです。「無人島で孤独に暮らすと発狂しそうになる」と聞いて頷けるんです。なんせ、引きこもり経験者ですから。内気で人間関係がめんどい性格の僕が、それにコンプレックスを持っていた僕が、逆に人間関係をしたい!と思うようになったんです。 "自分"と異なる"他人"とのコミュニケーションによって、お互い新しい発見をする。それは即ち自分の発見なんです。自分についた垢を剥ぐためには、やはり他人が必要だと思います。そうなると独善的になることもないだろうし、そのためにもやはり、叫び続ける必要があると思うんです。その中で、bossambaさんのように、真正面から受け止めてくれて、さらに自分が思ったことを返してくれる、本当に嬉しいです。とても有意義だと思います。 >学芸員の方が実現性もあるし抵抗感がない。「安全」である 学芸員に限らずどんな職にしても、必要だからあるんです。必要なければ自然となくなります。仕事に上も下もないんです。みんなそれぞれいるからバランスをとることができるんです。 ただ、僕が気になるのは、大変失礼な発言になるかもしれませんが、bossambaさんは聞こえが悪いことにコンプレックスを持たれているように見えます。しかし、人間であれば誰だってコンプレックスを持っています。もちろん僕だってあります。それは変えようのない身体のことだったり、性格やいろんなことだったり…。でも、自分でマイナスと思うところがあるのも含めて「僕」なんです。自分のマイナスな面が見えるから、プラスの面があると思うんです。ありのままの自分でいいじゃないっすか。毎日幸せだと幸せを幸せと感じなくなります。それこそ不幸です。つまり、プラスの面ばかりだとプラスの価値がなくなっちゃうんです。つまり、マイナスの面があるからこそ、なりたつ価値があるんです。今、僕は骨折で利き手が使えません。本当に不便です。でもそういうことを経験したからこそ、気づく価値があるんです。 >絶え間ない外部情報をテンポに流すことでかろうじて場を取り繕い、本質を見ずにスルーさせるか?するか?そんな安易な風潮が現代的心の象徴のひとつとして、BGMもいえるのではないかと思っています ズバリ的を得ていると思います。音楽でごまかしている若者は多いですね。音楽の力は確かに凄いです。音が醸し出す雰囲気に陶酔し、気分が一新します。そこでテンション上げる。確かに一つの手段として利用するのは力だと思いますが、例えば、毎回ドーピングしてごまかしても筋肉はつかず、本来の自分は変わりません。これは映画で自分の人生を代用する心理と同じだと思います。 そう批判する僕も音楽も映画も好きですが、全然知りません。聴いたり演奏するのは好きですが、いざ音楽の話題になると全然ついていけません。知識がないんです。批判すれば、若者は、音楽とか映画などの話題はもの凄い情報を得ていますが、情報を交換することによって、寂しさをごま化しているようにも見えるんです。話題についていけない僕なんか、よく疎外感を感じてコンプレックスになっていました。 そして、bossambaさんご指摘のように、現代人は忙しいことで本質を観ないようにしていると強く思います。日本人は自国にプライドを持たないことで有名ですが、日本人には思想というか哲学というか、自分の考えを持たない人が多い気がします。ある意味こだわりないというか。スジが通っていない人が多いと思います。僕にとってそれは無責任だと思うんです。お店の音楽にしてもそのイメージである「音」はひとつの「表現」手段になります。そこで思うのは、一貫したプライドがあれば、「感動」を与えることができることにつながるのではないでしょうか。例えば「ブランド」価値ってそうですよね。何百年も受け継ぐ価値こそ「ブランド」の力です。変わらない価値があるわけです。また、そういう価値にすがろうとする現代人も多くいるわけです。 >現代人的に忙しいことで心を保っている人も多い気がします。深く考察しないですむかえって気安さが、現代的多忙の中にあるのでしょう 仕事が忙しいことが美徳なんて高度経済成長期の古い感覚です。まさに仕事でごまかし、そして自分を見失っていることに気づいていない。ベースである自分があるから本当の仕事ができると思うのですが。そして、現代人の多くの人は「何もしない」ができないんです。休日でも寝るか、遊びで忙しい。何かしてないと不安になる。僕はあえてそれをやってみたわけですが・・・。社会との疎外感が初めは怖かったし、急がないといけない感じが圧迫してくるんです。でもそれを乗り越えたことで、自分の視点で観ることができるようになったように思えます。かなり開き直りました。(笑) 僕も長い転校の結果、もの凄いマイナス思考な人間になっていました。でも「何の益もない」と思っていたのが、逆に価値に転換したんです。つまり辛い過去があるからこそ、今の僕がいるんです。何も無駄なものはないと思います。そういう「気づき」こそ、僕にとっての「感動」でもあります。

noname#32495
質問者

お礼

人間関係は、たとえて言うと地球システムのようなものかなと思っています。地球が今生命あふれているのは「循環」のためなんですよ。空気の水の鉱物の流れがあるから新陳代謝できてシステムが維持できる。それは相互作用によるんです。ですので、地球に習って人間も孤立しちゃいかんなと悟っています。 「ありのままの自分」いいですよね。肩の力が抜けて、表情も穏やかになれる気がします。マイナスをそのまま受け入れ、かえってプラスとなすこと。それができれば理想です。非常にヴァガボンドさんは正論だと思いますよ。 BGMもファッションも表面なんです多くは。これをほんとにこってやるなら話は別なんですが、間に合わせに歩調合せにやっていることが多い。「感動」から最も遠ざかる風潮じゃないかと思います。「自己」が限りなく失われる。BGMにもファッションにも「対決」が必要でしょう。 ヴァガボンドさんはそういうものを克服されている少数派の貴重人物でしょう。私も不完全ながらその域には達しているでしょう。 つらい過去は、現在がやりがいがあり「幸せ」(あえて「歓喜」とはとてもいえない)な状態ならば、問題にならないのですよ。すべて現在が基調です。「過去」をどうこう言っているということは、すなわち「現在」がうまく行っていない証左なのです。ヴァガボンドさんはそれが多分うまくシフトできたのです。

noname#32495
質問者

補足

私はもともと「太郎」的思考をしてたんですよね。以前にもその類の質問をしていたことを思い出しました。人前でピアノフルートサックスを演奏した経験上、「あがり」というものに恐怖症的なものがあって、それを太郎思考法で解消したいと思っていたのでした。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1400580 なんかいつも小うるさく紹介している気がします。

回答No.10

感動って人それぞれあると思うし、また感動を分かち合うのって、とても難しいことだと思います。しかし、やはり感動とはひとつの価値でもあると思うんです。 その価値に気づき、人に伝えたい。普及させたい。それは何も芸術活動だけに留まりません。blogで知った方ですが、海外旅行が好きで、旅行代理店に就職するんじゃなくって、貯金をはたいて海外を一人旅をし、その経験でなんと本を出版されました。それもやはり、旅の感動を伝えたいという想いからだったと思います。彼が撮った写真も文章も確かに魅力的です。(僕も旅に出たい衝動にかられます) >おそらく日本人で誰もやっていない、誰も知らないことを知った 語学力に弱い僕ですが、翻訳の仕方で随分内容が変わると聞きます。翻訳もひとつの感動を伝える手段だと思うんです。 >過去の素直に容認できない思いが、将来を懸念しというとこわかる気がします 将来を不安に思っている暇があるなら、今目の前の問題に集中した方が、確実に未来を切り開くことができると思ったんです。将来について不安がっていたら、「今」がブレると思うんです。でもそこでただ単に、楽天的になるだけなら、また不安の裏ッ返しだとも思います。今楽しけりゃいいという若者の考えに僕は反発します。 >ハンデがないものを選ぼうとする、太郎の精神からすると違うんですよ ライフガード経験から学んだことは、自分がハンデを背負うことに対して意志的に挑戦すれば、それは『一生懸命に成らざる得ない』わけで、さらにそれをクリアしたら、『自分を乗り越える実感』というか、自信に溢れるんです。それこそ僕にとって人生の宝だと思ってます。 何が安全なのかわかりませんが、「学芸員」の資格に挑戦されているじゃないですか。自分で目標を立ててその壁を乗り越える、素晴らしいことだと思います。 僕は学生の時、フリーターのことを「今楽しけりゃいい刹那的な若者」と思ってました。狭い人間だったんです。そんな自分がフリーターになって、ニートになって、引きこもりになって…。他にも「軽い男になりたくない」と思ってナンパは今でも嫌いですが、「したことがないのにそんなこと言うなよ」と自分でつっこみ、経験。そんな感じに、今の自分が無理だ、とか軽蔑することをやってみれば、それは、『今想像もできない自分がそこにいる』ということに気づきました。多くの人は、「ニート」とか「社長」とか、肩書きに縛られて本質を観ないんじゃないかと思うんです。先入観というか。 >多くの人の無反応というのがいまいちピンとこないのですが みんな忙しいんだと思います。忙しいって心が亡くなると書くじゃないですか。でも本当にちゃんと反応してくれる人って少ないです。中には僕の主張に共感してくれる方もいらっしゃるのですが、自己主張で返してくれる方ってほとんどいません。僕が「オレはこう思うんだ!」と自己主張しても、「バカボンドはそう言うけど、オレはこうだよ!」と言い返してくれる人ってほんと少ないんです。中には肩透かしというか、まったく無反応の人もいます。お互い自己主張しあったら当然ぶつかるけど、その結果、お互いが自分の姿を確認することができると思うんです。他人は自分を映す鏡だって言うじゃないっすか。相互発見でとても有意義になると思うんです。傷つくを恐れていたら何もできないし・・・。傷ついた分強くなると思うんです。筋肉だって筋肉痛を通り越してつきます。お金だって働いた結果、得ることができます。楽して手にいれたらそれだけ不幸だと思うんです。 >私は「物量情報過多」から脱することが現代人の課題だと思っています そうですよね!ますます"意識"が支配する時代になったと思います。そんな時代だからこそ、無意識に訴える感動が呼覚まされるべきだと思うんです。bossambaさんに同意します!やはり感動がない人生なんて"まっぴらごめん"です。子ども心のワクワク感。僕は海を見るとワクワクします。去年まで働いていた経験を思い出すのか、サーフィンをするんで波をチェックしたら、もうウズウズします。ハダシで駆け出して海に飛び込みたい、そういう衝動にかられます。やはり僕にとって感動は生きがいです。どんどん感動に飛び込んで、そして表現していきたい。 毎回長くてすみません。自分の過去のことを書いて思うのですが、やはり、「今」も『過去に縛られるべきじゃない』と思いました。過去の失敗をあげたら実は僕もキリがないんです。ほぼすべてが失敗とも言えます。普通に考えたら内定を蹴ってフリーターなんてバカですよね?泳げないのにライフガードなんて意味不明ですよね?恋愛だって失恋だったわけだし、今はサーフィンで事故って利き手骨折して自宅療養中だし…。 僕は「過去」を「情報」だと思います。みんな「情報過多」なんです。「意識」である「記憶」を蓄積しすぎるんです。アインシュタインも「頭の中は空っぽの方がいい」と言っています。太郎さんも「人生は積み減らしだ」と言っています。過去に縛られると、直観を鈍くすると思うんです。強いて言えばバカにならないといけないんだと思うんです。人間みんな賢い脳を得ている分、バカになってバランスをとらないといけないと思うんです。バカだけなのも困るけど、インテリすぎるのもどうかと思うんです。やはり子どもは無知です。その分行動的で純粋です。 子どもは自分で自分のことを決め付けません。大人になると他人の目を気にしたり、相対的価値観に縛られて、他人と自分を比べて、いい気になったり、卑下したりします。子どもは本を開いて感動と対面しますが、大人は本を開くより、いかに高級かに感動します。あくまで相対的価値観なんです。やはり他人の目です。つまり社会なんです。社会内の自分のポジションで自分を確認するんです。しかし、死ぬ時は独りなんです。社会内で、いかにいいポジションに自分を置いても、やはり人間は孤独なんです。孤独をごまかすのはとても刹那的です。ごまかすんじゃなくって、のり越えるには、やはり感動こそ力だと思うんです。それは独善的であると同時に、自分という枠を超えて多くの人に届くと思うんです。仏教にしたって、数千年前の釈迦という人物に対しての共感だと思うんです。本当の感動とは、自分という枠も、時間も超えると思うんです。やはり感動は叫ばないといけないと思います。その叫ぶ瞬間に、過去も自分も関係ありません。透明な感動のみ、そこに響くと思うんです。そこには人間の本質が隠されているから、己だけでなくすべての人に届くんだと思うんです。その本質のひとつに、人間は孤独であるが含まれていると思います。そして、叫ぶとは即ち行動です。自分がどうあろうが、人間として純粋に貫きたい、僕はただそれだけで在りたいんです。

noname#32495
質問者

お礼

いつも長大なご回答、ありがとうございます。また補填の方でコメントすると思いますけど、ご趣旨の中で一番こころにひびくところがあるんです。それは文章最後尾の段落です。 「大人は社会的視点、相対的視点で物事、自分を見て、感動を失っている」 このご指摘、衝撃的で、違った意味で「感動的」でさえあります。真実をあまりにも言い当てている気がします。ここを乗り越えるかが、真のハイクオリティな人間か並な人間かの境のような気がします。また近々書きます。

noname#32495
質問者

補足

感動を発し続ければ、いつかは理解者が現れるだろう、あるいは現れなくても、純な思いで発し続けたいものです。いろいろな切り口がありますが、ホームページの普及はその端緒となるでしょう。 一日の積み重ねが100年後であるということですから、歴史的にも「今」に集中するのがベストです。その集中がやはり私は折れやすい人間なので「ハンデを感じることがない、よりスムーズにいくだろう」学芸員の方が実現性もあるし抵抗感がない。「安全」である。学芸員に特に「聞こえ」が問題になりませんから。 忙しいって心が亡くなると書きますね。ただ、現代人的に忙しいことで心を保っている人も多い気がします。深く考察しないですむかえって気安さが、現代的多忙の中にあるのでしょう。 これは別コーナーに投稿したのですが、BGMについてです。絶え間ない外部情報をテンポに流すことでかろうじて場を取り繕い、本質を見ずにスルーさせるか?するか?そんな安易な風潮が現代的心の象徴のひとつとして、BGMもいえるのではないかと思っています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1473735 過去を感情的に捨て去ること、情報という意味でもそうですが、感情的こだわりが一番厄介なんです。私も小学6年で引っ越して、一年間まったくなじめなかったという「不幸」」がありそれが長年足を引っ張ってきました。これにかかわって至って何の益もないのです。まっさらな一日、子供に生まれ変わる一日、それこそが救いともいえるんです。それがなかなかできない。結局いかに純粋になりえるかが、人生のクオリティアップだともいえます。その点長嶋茂雄は偉かったわけですが(嫌いですけど)

回答No.9

お返事いただきありがとうございます。 確かに、敏子さんの存在があそこまでさせたと僕も思います。むしろ、太郎さんと敏子さんで"岡本太郎"だと思うぐらいです。やはり男女一体でひとつというか、これ以上満たされることってあるのかなと思うぐらいです。 感動に孤独はつきもの…やはり人間という存在は決定的に孤独です。だから他人を求めるんだろうけど、しかし逆に孤独に殉じれば、孤独をのり越え、多くの人に感動が伝わるんじゃないかなと太郎さんを見て思いました。僕だって孤独で心が痛いときがしょっちゅうあります。しかし人間はみんな孤独だと思うんです。そうじゃなきゃ、感動は伝わらないんじゃないかと思います。やはり孤独だからこそ、叫びたいのだと思います。独善的なその枠を飛び越えて人に伝えたい!自分で自分という枠を越えなければ大人は感動することが許されない。趣味で「あれいいよね」と言い合っても何か空しい。辛く寂しい。いっそのこと死んじゃえば楽になるのに・・・と追い込まれる。でもそこで、死ぬのなら、だったらダメもとでもいいからやってみたらいいじゃん、結局生かすも殺すも自分次第。自分が自分を信じないで誰が信じてくれるんだろう。誰が僕を愛するというんだろう。そう思いました。僕の過去は、平均すれば2年に一度転校する人生を歩んできました。幼馴染も地元もないんです。孤独でしたが表には出しませんでした。自分をしっかりもってなかったらイジメられるんです。我を通しました。孤独で辛かった年少時代の僕は、漫画やTVゲームの世界はとても素晴らしく思いました。太郎さんに共感を得たのは、やはり「孤独」があるからかもしれません。 そのように孤独で何か暗い自分の過去を、10代の僕は自信を持てない言い訳にしていました。過去の自分のせいにしていたんです。過去に縛られた僕は、将来のことばかり心配するようになります。そこで前回書いた恋愛経験で気づいたんです。このまま就職してしまえば、僕はこのままズルズルと進むんじゃないか、変わるのを望むのなら、「今」目の前にいる彼女こそ本当だ、と思いました。自分で自分を手術するしかなかったんです。でなければ僕は永遠に自分という枠を乗り越えることができないと思いました。変なプライドを彼女はズタズタにしてくれました。そして僕も絶対に妥協しませんでした。少しでも媚びを売るような真似をしたくなかったし、彼女もそれを許さなかったと思うんです。毎日顔を合わすのに、もの凄く孤独な作業でした。そしてそれを学校では表に出せませんでした。 毎日が憂鬱で辛いけど、何か落ち着かず、エネルギーが有り余っていました。まさに混沌としていました。しかし彼女という壁はとても大きく、そんな自分がとても女々しく感じました。今まで就職して活躍するのを目標に頑張ってきた自分と、今目の前にいる彼女に恋する自分、どちらが本当なのか、自分で自分を疑いました。自分を信じれず、頭の中は就職なのに、心はそこになかった。そこで太郎本と出会い、その中にたい「マイナスを選べ」とか、「自分を大切にするからダメになっちゃうんだよ」みなことが書いてありました。自分を信じなきゃはじまらないと思い、彼女を振って、内定も蹴りました。一番最低の道を選んだんです。そこでまた後悔と自己嫌悪。(笑)やはり好きなものは好きなんです。でもそこで、自分は彼女が好きなんだと確認することができたんです。それからは頭の中よりも直観を信じるべきだと思うようになり、彼女にお礼を言って大阪から湘南に引っ越していろんなことに挑戦するようになります。 自己嫌悪を克服できていない自分を蹴飛ばすために、泳げないコンプレックスを持っていた自分は、あえて海でライフガードの仕事に挑戦しました。気合と根性と口ばかりの僕は先輩に認めてもらえなかったけど、かけもちのバイトをやめて一本に絞って最後までやり通したら認めてもらえました。プライベートでも誘っていただけるようになり、そこでサーフィンに挑戦し、バイクの免許もとり、古いバイクを買ってリストアして組み立てて自分だけのバイクを作りました。ボランティアもやったり、小型特殊の船舶の免許もとったり、とにかく計算せずに、自分がやりたいことにどんどんチャレンジしていったんです。そしたら自信がないなんてありえないし、孤独だからこその価値がそこにあったんです!やはり太郎さんは本物だ!と確信した僕は、今度はバイトも何もかも全部やめて、太郎さんの本を全部読んでやろうと今に至ります。(ニート、引きこもりをやってるんです。多くの人はそれを否定ばかりするけど、肯定する価値があることをみんな知らないだけなんです。みんなが否定すればするほど、僕は孤独の道を押し進めます。実はそれらは原動力にもなるんです。) まさに孤独だったからこそ、今の僕の価値があると思ってます。そもそも哲学的に孤独を考えてみれば、自分で、自分や世界を決めているんだし、孤独なのは死ぬまで免れないと思うし、逆に生きている証拠の孤独を生かすべきだと思うんです。そうすれば寂しさから自由になれると思うんです。 寂しさに妥協してダラダラと群れれば、確かに孤独は解消できるけど、しかし実に刹那的です。そして群れて一体になる分、自分を失います。そこから「やりたいことがない」とか「生きるのは空しい」とか自己喪失がはじまると思うんです。それを逆に利用して、孤独で妥協しなければ、それは本当の意味で社会的な存在になると思うんです。人間は産まれもって孤独なんです。赤ちゃんは独りでは生きていけません。その当たり前をそのまま受け入れて妥協しなければ、孤独の寂しさから自由になれると思います。僕はこう考えます。自分と異なる存在だからこそ、他人と付き合うのが面白いし、そこに相互発見がある。それが面白い。人に会うだけで面白いんです。お互い異なるからこそ、お互いが尊重し合い、それは即ち自分を敬うことでもあるんです。お互いが刺激しあい、元気を交換しあっていける。なので僕は孤独だけど人間関係が好きです。少なくとも頑固で頭の硬い人間にはなりたくない。そのためにも、多くの人とこれからも交流したいし、頭の中の知識以上に直観を信じたいんです。 僕は、bossambaさんのことを意志が弱い人間だとは思いません。本当に弱い人間であれば、「vagabond_0710さんは強い人だ」なんて書けません。多くの人は無反応で終わります。「私は太郎の真似はできない意志が弱い人間だ」とあるように、自分のことを「弱い人間だ」と受け入れることができることは実は"強さ"です。自分のマイナスポイントに気づいたら、プラスに転換すればいいんです。それこそ生きがいであり、感動に繋がります。書かれているように、「折れてしまった"気がする"」だけにすぎず、折れたわけじゃないんです。僕は、今までいろんな人に叫び続けてきたけど、真正面から受け入れてくれる人は本当に少数です。自分と異なることを受け入れることができるのは、自分をちゃんと持っていないとできないことだと思います。 あと、太郎さんの真似をしているわけではなく、乗り越えるための大きな壁として利用しているんです。以前は恋に落ちた彼女だったけど今は太郎さんです。ただ、依存して太郎信者にはなりたくないし、負けたくないし、ひとつの踏み台としていけたらいいなと思ってます。そのためにも残酷に挑まなきゃいけないと思うし、やはり生きるエネルギーみたいなのってとても価値あるものだと思うんです。オトナしくなってそこに一体なんの価値があるんだろう。そういう意味でのオトナにはなりたくないです。オトナしくなるか、感動に満ちた人生を歩むか、常にその危機にさらされています。その自覚の上で決意をしたら、誰だって感動を得るはず。そのために僕は太郎さんを大いに利用します。結局、やればそれは真実なのですから。自分の”センサー”にこびりついた垢を落とせば、誰だって感じるはず。僕はそう思います。

noname#32495
質問者

お礼

独善的な枠が感動を呼ぶというのはあります。正論です。私今、外国のクラシックのCDの解説を読んでるんですが、なんか日本の解説と違うんですね。あるいはまったく訳されていないで、興味のある向こうの軍事史的なもの読むとか、そういうおそらく日本人で誰もやっていない、誰も知らないことを知ったというどうでもいい「感動」はあるのですが、これがやはり分かち合えるべきですよ。 過去の素直に容認できない思いが、将来を懸念しというとこわかる気がします。似たようなことは私もあり、逆に将来を軽んじました。これも過去への蟻地獄のような吸引力のせいです。 私は、文法だ単語だと言っている語学教育が腑に落ちず、決定的に間違っていると思って、向こうの子供にならなければ語学なんてしょうがないと考え、とにかく口語口語でやろうと思い、孤独でした。だれも支持者はいませんから。 でも、お話はよくわかります。私もそこで「口語語学」を決定的に支持する団体に入ろうと思ったのですが、度胸のなさからやめてしまった、そういう努力の断絶の歴史ですね。それがエネルギーのなさで、vagabond_0710さんとちょっと違うのですよ。ちょっと聴覚障害がありまして、「聴く」ことへのふんぎりがつかないのですよね。ハンデがないものを選ぼうとする、太郎の精神からすると違うんですよ。今はなんとか「学芸員」資格を取ろうと思っているところです。安全です。 直感を信じることは大事です。やはり強いですよ。三つ子の魂何とかで。 多くの人の無反応というのがいまいちピンとこないのですが、そんなもんですか。 ほこりをはらえば、純粋な心が芽生えてくるというのあるでしょうね。私は「物量情報過多」から脱することが現代人の課題だと思っています。それによって、物事を十分観察し、自分を省みることができ、感動する心を呼び起こすことができる、ちょうど、子供時分に図書館から借りた本を開くことが、明らかに喜びであったように。

noname#32495
質問者

補足

ちなみに、私は太郎の生番組を覚えているくらいの年ですが、いまニートです。

  • hw4183
  • ベストアンサー率17% (15/86)
回答No.8

私は大人になってから感動する機会が多くなりましたね。 いろんな認識の幅が増えたことで、逆に細やかな心のひだと言いますか、 ただ、青い時代の感動よりもさらに、深みを増したものとなっていると自覚してます。幸福の種がたくさん感じられるようになりました。 哲学的思考を子供の頃の素直な見方で、心でできれば、といつも思っています。偏った考え、ではいくら頑張って考えても無駄ですからね。 >>大人は物事に感動しなくなるのは? 私の多くの知人たちはこの上記の限りではありませんし、逆ですね。 今、日本でもかなり、心の価値観を(真理価値、仏法真理など) 学ばれている方が相当多くいらっしゃいますので、魂本来の素晴らしい生き方がトレンドとなって行く日も近いと思われますね。 やはり感動あっての人生ですし、 明るい希望や、喜びに満ちた人生は、うれしい事ですよね。うれしい事は多いほうがいいに決まってますから!!そういう人が増えてることはいい事だね。 :bossamba 様の質問は?????ですね。質問の前提自体、日本の常識的価値基準はくずれつつあるよ、って事をおしらせまでに一言。

noname#32495
質問者

お礼

やはり私も、本物の感動は成熟しないとありえないと感じます。そもそもこの質問をしたのは、子供のころの「安っぽいもの」でうきうきしていた心が何でなくなったかという、それがあればずいぶん喜びも増えるだろうにという不合理を感じたからです。これは一種の不幸なんではないかなと。でもそれが味わえなくなったおかげで、そんなもので満足しなくなったおかげで、本物が味わえるということであれば、それは納得せざるを得ないのですが…

回答No.7

な、な、な、なんで!?なんで僕が太郎さん好きってバレたんすか!?ビックリしました。ご指摘の通りです。(笑)太郎さんが凄いのは、絵が上手いとかじゃなくって、bossambaさんが言われている「祭り」にあると思うんです。人類の文化をさかのぼれば、昔になるほどカテゴリーわけされていなくて、祭りも政も祀りも一体でした。(例えば卑弥呼とか、祖霊からのアドバイスで政治をしていた)また、絵とか音楽とかダンスとかも、それぞれ独立して存在するのでなく、一体だったその絶対感にこそ、人間としての『感動』があると太郎さんは言っていると思うんです。なので絵は絵にすぎないし、音楽は音楽に過ぎないのは事実だし、それらは『感動』の断片に過ぎないと同時に、ひとつの『感動』だとも思うんです。全てで一つであるという思想から、あのような生き方をされたんだと思います。絵を描き、彫刻を彫り、TVに出て、スポーツもして、音楽もして・・・全人間として生きることこそ、「祭り」だったと思うんです。 性に例えれば、男女で一体であり、人間1人では完結することができないと思うんです。つまり、人間という存在はそれぞれ孤独であるからこそ、社会があり、家族があり、交友があり、男女の仲があるんだと思います。なので、個を潰した社会は群れに過ぎず、個の集まりである社会こそ、僕は本当の社会だと思っています。これから日本も個人主義的な時代になるのか、楽しみなところです。 もともと僕は、"作品"にあまり興味がなく、他の芸術家もほとんど知らないし、太郎さんの作品や興味のあるデザイナーさんの作品とか、ほとんど知りません。映画を観ても監督とか全然知らないし。(笑)マグリットさんも今検索で見てみたのですが、面白いですね。絵でいろいろと遊んでるような、試しているような。中には知ってる絵もありました。 そもそも僕が太郎さんに共感を寄せる理由は、太郎さんみたいに我を通して反抗してきた共通点もあるのですが、僕が恋に落ちていろいろとあって、その時たまたま太郎本を手に入れて読んでみたら、今の心境をズバリと書かれてあったことがそもそもの出会いでした。というよりもビックリしました。恋に落ちた時の葛藤とか矛盾とか、その心境がそのまま書いてあるんです。友達に恋愛相談してもサッパリしなかったけど、本にはズバリ書いてありました。恋愛だけでなく、子どものころから思っていたこともそうだし、社会に対することも、僕が友達にも言わずひそかに思っていたことがいくつかそこに書いてありました。それで僕は救われたというか、はじめて心の底から共感できたんです。「素の自分でいいんだ」と思いました。それまでは"みんなと違う面"を隠したりしていたけど、それから徐々にオープンになって自信になりました。 そうは言うけど、やはり僕も"染まって"ました。誰よりも就職活動を早く始めて、企業へ実践に行ったりして早いうちから内定の通知が来ました。そんな時期に恋に落ち、付き合い始めたのですが、そこで僕は自分に気づいたんです。将来のことばかり気にして、目の前にいる彼女を幸せにすることもできない自分に。頭の中は仕事や就職のことばかりで、全然「今」に生きていない、集中できていない。付き合っているのは「今」であり決して将来じゃないんだ。理想に縛られて、現実を見失った自分がそこにいました。目の前にいる好きな彼女を幸せにできないで何が本当なんだろう。そう思いました。彼女と接するたびに、どんどん自分が自分を失い、垢にまみれていることに気づきました。悲しいことに保守的になっていました。将来のことばかり心配していました。他にも嫉妬したり疑心暗鬼になったり。そんな感じに、ここには書ききれないぐらいカッコ悪い自分に出会いました。 そして前回書いたように、"感"じた後に"動"いたんです。自分自身に絶望した僕は、徹底的にやっつけてやろうと、自分がやりたいことをやろうと片っ端から挑戦し、いろんな仕事もしました。太郎本から読んだ"理屈"だけだと不潔だと思い、実際に体験して試してみました。そして確かなものをつかみました。 恋に落ちた恋愛経験で人生観がガラリと変わり、続きに太郎さんの本との出会いで救われもしたし、また突き落としてもくれました。(笑) そんな青春時代を送って今に至ります。もちろん太郎さんの本も多く読みました。まさに「祭りごと(政、祀りごと)」ですよね。封建時代だと、厳しい労働、身分制度の中の、ひとときの人間性の『解放の瞬間』であっただろうし、また、いけにえや豊穣祈願をしないと他に頼るものがない時代には、まさに命がけな「祭り」だと思います。でもまさに『人間が生きた瞬間』だと思うんです。僕にとっては、あの恋愛です。(笑)昔は、現代のように、生きがいがないとかやりたいことがないなんていう時代と違う。命を懸けての祭り。また開放。おっしゃるとおり、「厄除け」ですよね。生きる苦(厄)をどのように昇華するか。現代は苦から逃げる時代になっていると思います。だから自分を見失う。 太郎さんは哲学的に弁証法を取り上げていますが、読んだ人に本当に伝わるのかなとも思います。(自分も含め)文章にしたって、絵にしたって、映画にしたって、作品を通せば、必ず見た人は自我のフィルタを通して見ています。それでも多くの人は無意識に感動したりしていますが、僕が言う本当の『感動』とはまた別だと思うんです。ストレス発散しても一時的なものであれば、それは無責任だと思うんです。「祭りごと」をひっぱってきたら、酷な話、現代は命がかかってないというか。(笑)そこまで追い込まれていないんだったら別に問題じゃないのかもしれませんが。死ぬ気になればできないことはないって言うじゃないっすか。(笑) 僕は前回、『感動』したら毎日が新鮮に生まれ変わると書きました。自分の価値観が変われば、また新しい発見があるのは本当にそうなんです。それこそ身近な『感動』なんです。本を読み返して以前はスルーしていたことに気づいたりわかったり、彼女を新しい視点で見れば、気づいていなかった魅力に気づいたり。それは大したことじゃなくてもいいんです。彼女の髪型が変わっていることに気づいて指摘するだけでも双方新鮮になれます。発見するとは、それはつまり新しい自分の発見なんです。気づく新鮮さ。自分の成長を感じることができたら、これ以上の生きがいなんてあるのかなと思います。目から鱗どころじゃなくって、身体ごと脱皮した感じになります。(笑)それが僕がいう『感動』なんです。オトナしくなったら、誰でも『感動』するセンサーを曇らせると思います。年齢に関係なく常に青春というか(笑)、エネルギーの爆発というか、『感動』するのもしないのも、結局は自分次第だと思うんです。つまり、僕にとって『感動』とは生きることなんです。 もの凄く長い回答になってしまい、申し訳ございません。自分の『感動』体験を交えて書いてみました。そして前々回に書いたように、『感動』とは自分の中で響くものであり、もの凄く独善的というか、そういう枠を出ない回答になってしまいました。しかしそれでも何か"感"じていただけたら幸いです。そしてぜひ、なぜ僕が太郎さん好きなことに、気づかれたのか教えて下さい。(笑)

noname#32495
質問者

お礼

大変長文で熱情的な回答、ありがとうございます。 いまちょっと時間がないので、後日詳しくレスします。 なぜ太郎好きがわかったか、それは私も染まっているからでしょうね。子供の自分から、心に響くものがありました。 でも今回一番感じたことは、私は太郎の真似はできない意志が弱い人間だが、vagabond_0710さんは強い人だということです。追ってレスしますね。

noname#32495
質問者

補足

私は太郎本を「太郎に訊け!」全3巻「壁を破る言葉」くらいしかもっていないのですが、なにかいちいちもっともだと思うくらい染まっています。しかし、これが危険なのですよね。実践が難しい。それを「感動」の流域までされたというのは、凄いことだと思うんです。 太郎の思想というのは、「ごちゃまぜ」思想であると思います。何でもかんでも認める、消化するし昇華する、対極主義。テレビに出まくったのも、「大衆」の無理解を逆手に取った「先手必勝」的な行動だったと私は思います。あそこに「太郎」存在の芸術があることは確かです。 私は結構前から「感動」を探していたわけではないのですが、人がやらないことを「語学」などでやりました。フランス語の児童文学カセットを聴きまくる、向こうの子供に近づく、とか小さいことですが。自分なりのこだわりを推し進めること、感動でしょう。でも身を切るような寂しさがあります。なにしろ誰もやらないことをやっているんですから。その感動をわかってくれる人はいない。引き裂かれる。 私はこれで折れてしまった気がします。 瀬戸内寂聴(?)さんが岡本敏子さんの存在が太郎をあそこまでにさせたといっていたのですが、やはり分かち合えることが必要です。さもなければ、感動をやめるか。どちらも身をきられる。 そういう寂しさから自由になれれば、もっと感動に近づけるのではと考えています。

回答No.6

No.5のvagabond_0710です。前回僕は、大人の「社会」について書きました。つまり感動とは個人的な体験であるということですが、今回はその補足として、心理学のカテゴリーに合うように、心理学的に書いてみたいと思います。 >そして、この世の常に深く失望すます。 そして、そんなbossambaさんに僕は共感します。ただ僕は最近こう思うんです。この世界は失望だけど、しかしそれは望みを失っただけです。望みを失った時だからこそ、僕は人生は絶望だと言います。望みが絶たれた世界だからこそ、僕は叫ばずにはいられないんです。つまり、自分こそが望みである芸術家になろうと決めたんです。 絶望した僕の発言に、納得してくれたbossambaさんのお返事は、大変嬉しい限りです。感動する芸術作品とは、その作品に感動が内抱されているからこそ、見た人に無条件で訴えかけるのだと思っています。それと同時に、いかに、その感動が自分の枠を出ないものなのか、憤りも感じます。こんなに感動的なのに!と叫ばずにはいられないものがあるんです。だからこそ僕は、感動を分かち合うことの難しさを知っていてもなお、発信し続けます。自分が努力しなきゃおしまいですから。そして時々、反応してくれる方がいらっしゃる。本当に感謝です。 群れれば「安心」できて楽です。しかしそれは自分を放棄することでもあると僕は考えます。僕が尊敬する芸術家は、孤独な人生をまっとうしましたが、彼の作品や言葉は、時をこえて僕に訴えかけてきます。その人間性、生命力。言葉であり、絵であり、彫刻であり、映像でもあるんです。手段に拘泥されていない彼の生き様は、本当に素晴らしいです。無条件に生きるエネルギーを与えてくれます。 就職して働いている友達は、ストレスで神経症になった人もいます。やりたいことがわからないと言う友達もいます。お金に魂を売ったような人もいます。現代は資本主義だから、資本(お金)を追い求めることが正義な時代なんです。それでいて、お金や物に溢れても、幸せを見出せない大人をたくさん見てきました。多くの人は、そんな自分を誤魔化しているように思うんです。 そんな時代だからこそ、僕は感動する作品を創りたい。そのためにも、作り手である僕が人生に対して感動しなきゃ話にならないし、また、その表現力もつけなきゃいけない。それ以上に表現する行動力もつけなきゃいけない。つまり、僕は今ここに書いています。 心理学的にこの質問に答えれば、人間には、「意識」と無意識の働きがあります。寝ているときは無意識です。無意識のときもちゃんと身体は活動しています。じゃなきゃ生きていません。(笑)そして、人生の2/3は起きています。つまり2/3は意識が働いています。 友達と待ち合わせをしている。その場所に時間を合わせて行かなきゃいけない。スケジュールを見て逆算する。意識があるからこそできることです。 「学問」にしたって、「文明」にしたって、人間の「意識の蓄積」なんです。「都会」とは、人間の「意識の塊」なんです。また「情報」も然り。人間は、歳をとればとるほど、人生経験が長くなり、蓄積するものが増えるんです。知識とか財産とか。実は、知れば知るほど、直観が鈍ります。情報に操られてしまうんです。俗に言う「頭が固い」状態になりがちなんです。 例をあげれば、自分のことがよくわかっていると思い込んでいる人がいます。わかっていないことがわかっていないんです。自分なんて実はよくわかっているつもりでも、よくわからないものなんです。なんせ、人生の1/3は無意識状態ですから。 悲しいことに、自分で自分を追い詰めてダメになっちゃう人もいる。自分は○○だ、と決め付けているから、そうじゃないときに対応できなくなっちゃうんです。コンプレックスです。自分は女性が苦手だと思いこむから、消極的になってしまうわけで、苦手でも苦手じゃなくても自分には変わりはないんだから、好きなら告白すればいいわけです。自分で自分をダメにしちゃうのを見るたびに、オトナしくなった人の悲しさを感じます。つまり自分で自分のことを決め付けるから柔軟性がなくなっちゃう=「固定化」されてしまうんですね。 また、大人は人を見るときに、あいつは○○だと決め付けます。あいつは利用価値があるとか、あいつはつまらないから無視しようとか。まったくおかしいことで、人間は時間とともに変化し続けています。同窓会などで、久々に会った友達がガラリと変わっている、という経験は誰でもあるはずです。なのに大人は「固定」しようとする。人を直観で感じるんじゃなく、「情報」に操られているんです。僕から見たら、「過去」に振り回されているにすぎないんです。実は大人がそう人を見るのは、自分が「固定化」されているから、相手も固定してみようとする心理が働いています。また、「過去」は存在するものではなく、頭の中の「情報」にすぎません。昨日貧乏だったA氏は、実は今日は宝くじが当たって億万長者になっているかもしれないんです。なにがあるかわからないのが人生です。また、感動して一日でガラリと変わる人もいるんです。 今まで例をあげてきましたが、「固定」しようとする働きは、「意識の特徴」です。歳をとればとるほど、「意識」に縛られやすくなり勝ちです。たくさん知っているから。基本的に「学問」も「情報」も「変化のない存在」です。「過去の蓄積」ですから。だから頼りにしてしまうんです。そしてそれは「共有」できる特徴があります。それは人類が築き上げてきた価値なんです。しかし、思い込みを誘います。それを直観で乗り越えたのがアインシュタインなどの天才です。古典力学の常識を覆し、量子力学の世界を築きました。当時「常識」だったことは、今では間違いだった、ということはよくあることです。「社会」や「常識」や「知識」などに寄りかかっている人は、直観が鈍く、気づくことができません。逆にそれらの奴隷になっているともいえます。 子どものころは誰だって感動に満たされていました。知識もなく、逆に知らないからこそ、行動的だと思います。シンプルな人ほど行動はパワフルだと思います。子どもは誰でも、直観を信じて未知に飛び込んでいく歓びに満たされていました。しかし、「オトナしくならなきゃいけない環境」になってからは、知識の蓄積にこそ価値があるように教育され、小→中→高→大→就職→定年まで、スムーズにことが進むことが素晴らしいという風潮の中で育ちます。ひとつの社会悪だと思う。それは「意識の塊」なんです。こと、進学試験なんて「記憶力」を試すものだし。恋愛でそのことに気づいた僕は、内定を蹴ったわけですが。多くの大人はそのことを理解できずに、またニュースをみればフリーターの増加は経済的に悪ということでバッシングされる。結局大人の世界です。上辺だけしか見ない。 それら「固定化されたもの」に寄りかからず、「安定」じゃない人生の何がいいのかと言えば、極論、"体験しなきゃわからない"としか言いようがないのですが、一言で言えば、毎日が新鮮に生まれ変わる気持ちよさです。絶望の世界に生きるからこそ、希望が光輝いて見えるんです。つまり直観で観る眼です。観察して発見する感動。また自分の人生が変わる感動。生きるってこうなんだ!という感動を言わずにいられない、そういう衝動、表現したくてたまらない。初めて恋をしたときは、誰でもそうなんじゃないでしょうか。好きで好きでたまらない。告白したい。だけど、振られたらどうしよう。恥をかきたくない。嫌われたくない。いろいろと悩む。告白する人、告白しない人。それは人それぞれです。だけど僕はその衝動を抑えきれない。溢れようとする。叫ばずにいられない。表現せずにはいられないのです。それが僕にとっての感動です。 つまり、本当に"感動"したのであれば、字の通り、感じた後に動かなければならないものだと思います。感動が本当ならば。

noname#32495
質問者

お礼

私も太郎さん好きですよ。ただ、作品自体はこういったら悪いですが、あまりとんでもなくすばらしいってわけじゃないと思うんですよ。あの人の生活そのものが芸術してしまっているわけで、それはそれでスタイルの問題と思います。そこへいくと、私はどうもマグリットが好きなんですね。作品の静かに押し捲る力はものすごい、でも私生活はまったく清楚なんですよ。それぞれ、とてつもない「子供」を昇華している例だと思います。 今回の「固定化」と「群れ」の関係、まったくそのとおりです。嫌悪と失望。 しかし、一方で政治の力学というか歴史の力学があるんですよね。太郎さんが好きだった「祭り」これは世界共通で「生きながらえるための、いけにえ、豊穣祈願」あるいは究極的には「厄除け」です。これが人間の歴史を作ってきたわけです。ピラミッドも古墳も。そしてそれらは、地域社会の結合を政治的に強制するという狙いもあり、芸術は「生きながらえようとする弱気人間」に負っているともいえます。 しかし、こういうことを意識しているか否かがあるいはそれに抗おうとする気力が純粋さがあるかないかが問われるところだし、純粋さを推し進められれば、それは誇りに昇華するでしょうね。

noname#32495
質問者

補足

いま、自分の質問しおしえてgooの項目を読み返しているところなのですが、ヴァガボンドさんのこのご回答にちょっとコメント足りなかったなと思ったので補足します。 ここでおっしゃっている「意識」というのは、文明社会における社会的基盤のモラル的な意味合いを帯びているかと思います。それは強制され、安定が約束され、人と強調できるということで、人間社会に主要な位置を占めています。それらの特徴は押しなべて「感動がない」こと。事なかれ主義お役所主義です。なぜそうなるのかというと、この世が基本的に衆愚だからでしょう。その多数にあわせないと政治にならないから。だから、仕事に喜びがないからプライベートで発散なんてことになる。 これが変容して、つまらんお約束事やレッテルを張り出し、それがしまいには普遍的意識となってしまう。文明社会は馬鹿を作るといっても過言でないです。オトナしくなるともいいますね。情報に縛られるというのもその一端です。性犯罪を犯して出獄した人間を、まっさらで生まれ変わったやつと見ないでレッテル貼るとか。情報化というのは、悪用すると人を堕落させモラルをうしなわさせます。そしておっしゃるように、「自分が固定化してしまっているから、それを他にも当てはめる」んですね。これは熟年層の携帯とかなんとか、演歌だカメラだ、新しいことに挑戦しないのが老年熟年なんていいますけど、あれは文化の破壊者ともいえます。ルーティーンの権化、太郎の敵なのでしょう。 でも、この直感重視過去情報軽視理論がまったくいかんかというと、やはりバランスの問題で、歴史に学べることはあるのですよね。ある程度の予想もつく。そのバランスを欠いているのが現代といえるでしょう。 でも人間は基本的に後ろ向きな者ですから、というか多数派がそうですから。結局のところ衆愚政治の象徴である民主主義がある限り、「感動」はオプションとしてしか世の中に地位をしめないのでしょう。

回答No.4

好奇心とその充足ですが、結果的に老化と関係が在ります。 好奇心が旺盛で、何でも知りたがるのは捕食動物に特に見られる心理行動であり、若い固体程その好奇心は旺盛です。例えば猫の場合、老いた固体でも獲物に対する好奇心は失いません。 逆に獲物に対する好奇心を失えばその固体には死が在るのみです。 猿は雑食ですが、好奇心は旺盛で老いた固体でも「野次馬」に参加します。しかし、動物を観察すると結果的には好奇心は「食」と「生殖」にかなり大きく関わっているようです。 「食」と「生殖」に関心を失うと言うのは、自然界では生理寿命の終結を意味します。 人間に翻って考えると、人間は「言語」も手伝って高い記憶力による好奇心を充足させる学習効果が高いようですが、反面、情報化社会は何でも知っているかのような気分にさせる効果を持ちます。 「未知」で「未理解」で在れば、好奇心はさらに深まりますが、「感動の結果」が簡単に手に入れば好奇心もその満ち足りる快感も結果的に薄まり何でも知った気分になります。 メディア等の情報二次環境の発達が好奇心を磨耗させているようですし、バーチャルな技術が発達すればさらにそれを促進するでしょう。 しかし、私達は本当に何かを知り、本当に満足して好奇心や興奮を失うのでしょうか? 「食」と「生殖」に対する好奇心を転訛し様々な物に知的探究心を燃やして人類は様々な事を知りましたが、結果的に誰かが教えてくれた「答え」に満足して「満足」した気分になっているだけかも知れませんね。 老化と人間文化発展が「精神」のきらめきを失わせると言う事であれば、それに抗い発奮して好奇心や興味を磨こうとできるのも人間だけの特権です。 理解したつもりになっている物をもう一度今の目で見つめ直すと意外な発見が在るように思いますが・・・・。

noname#32495
質問者

お礼

満ち足りてしまいますよね。確かにほしいものが手に入って、それに慣れてくると感激などなくなる、それが不幸なのか幸せなのか、なんともわかりません。そういうシフトがあるのでしょう。 生物の感動が生存本能に結びついているという説に、たいへん納得しました。人間子供の感動も、その関連があったのでしょうか。あるようなちょっと違うようなわかりません。 大人が感動を失うのが→老い というのはさびしいがぎりです。

  • a375
  • ベストアンサー率30% (439/1421)
回答No.3

>それが大人になってなくなってしまったのは、どういう心理なのでしょう。平均的な大人になったということです。平たく言えば自ら新鮮さを棄てたわけです。新鮮さをを求めてゆくのは大変エネルギーのいることですが社会人なればそればかりにかまけているわけにいきません。しかしそれが良い悪いでは無く誰もが通る平均的な道ですが、矢張りここにいたっても求めつずける人をロマンチストと呼びます。>目が肥え舌が肥え耳が肥えしてしまったからでしょうか? それはまったく反対のことです。衰えて仕舞ったのです。そんなに簡単に自己満足為さらないで下さい。芭蕉は生涯の大半を旅で費やしましたが、正にこの世の中に組み込まれるのを恐れたのです。世間に従えば自分の芸が月並みになることを恐れたからです。定住を恐れ非定住を定住としたのです。えらく力むで回答を書いていますのは、あなた様にはロマンチストの素養がおありと思います。ロマンチストとゆう言葉を誤解しないで下さい。ロマンチスト本来の意味においてとゆう事です。どうしてか?こんな質問を為さるからです。自分を省みるにこんな切り口を持つ人は平凡な人格では出来ないからです。好奇心こそが>凄く幸せな気分でした をもたらしてくれるのです。失礼な言葉があればご容赦下さい。

noname#32495
質問者

お礼

子供時代は、日常的に感動があって、特にそれを得るために努力しようとしていたわけではない、というところが引っかかっているところです。大人になってルーティーンをこなしていく必要性があって、でもその中に子供のような感動があったって悪いことはないと思うのですが、不思議に(理屈がわかれば不思議じゃなくなるかもしれない)なくなってしまっています。 衰えましたかね? 芭蕉の動機がそういうことだとは露知りませんでした。いわれてみるとなるほどです。 私自身に書いてくださってありがとうございます。沿ういわれるとうれしいです。

noname#32495
質問者

補足

ただ、感動感激の対象がシフトしてくるというのもあります。博物館とか映画とか、下地ができて感動できるもの、それが、単に雷で感動するというよりは、より高度な感動になっているともいえるでしょう。 でもグルメの感動は、なにか胡散臭いんですが。直接的な感動はやはり失いたくないものです。

  • nobchan
  • ベストアンサー率23% (121/519)
回答No.2

テレビゲームならやる前にだいたい分かる。 本なら開く前にだいたい分かる。 それは経験でしょうね。 このテレビゲームはこの程度。 この本はこのぐらい。 この恋はうまくいかない。 経験を積み重ねる悪い面ですね。 最近感動してないなあ。

noname#32495
質問者

お礼

なれちゃうんでしょうね。それはたぶんにあるかと思います。フルコースも毎日食べると当たり前に感じられるというのはありますよね。

回答No.1

大人になると感動しなくなるって言いますよね! 僕自身も最近、感動した事は? って聞かれると、う~ん何だろう? 思い出せない程昔の事のような。。。『目・舌・耳が肥えた』って事も一理あるでしょうが、私が思うに大人になるにつれて冒険しなくなってしまうのでわないでしょうか!  これまでの経験と体験で、いちいち冒険しなくてもどうなるかって解る事が多くなってくるだろうし、冒険と安定のどちらかと言われると(年齢的にも)安定をとる傾向にあると思いますよ。  結婚なさってる方なら尚更の事、冒険なんか出来ないだろうしね。  それに学生時代は、皆同じ立場・状況ですよね? 社会人になると皆、仕事も立場も状況も生活も同じって訳にいかなくなるからじゃ無いのでは、ないでしょうか!?

noname#32495
質問者

お礼

子供時代にも、特に冒険していたわけではなかったのですが、新鮮さがありました。大人には大人の冒険があって、そこで感動するにはえらく骨が折れるようなことをやらないとというのがありますよね。

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