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幕末の漢方や西洋医のメッカ3箇所はどこですか。一つは出島ですか。
幕末の古文書に、西洋や漢方の医法の先進地として「三ケの津」と出ていました。津は港の意味だと思いますが、三箇所はどこでしょうか。一つは出島だと思うのですが。ひょっとしたら候補地は色々有って、確定できないのかも知れないとも思います。
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お答えします。 三ヶの津というのは、三つの都という意味で、江戸時代には広く使われていた言葉です。意味は江戸、大阪、京都という三つの都のことなのです。 医学においても、この三つの都市にいい医者が多かったため、先進地とされ、そこへ出て弟子入りすることが多かったのです。 西洋医学を学ぶために長崎へ修行に出るということが見られるようになるのは、杉田玄白や前野良沢が解体新書を書いてそれが長い年月と共に普及し、オランダ語が学べるようになっていってから、特にシーボルトの来日以後ですから江戸時代の中でも後期からです。 そこで修行した蘭方の医者も三都市に行った人が多いですね。地元の藩で重用された人もいますが。
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- ss79
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No1のご回答のとうり、「津」には「港」の他に「都」という意味もあります。 従っ「三ケの津」はこの場合、京、大坂、江戸を指します。 医学はやはり人口の多い大都会で発達しました。 地方にも優れた医学者(一関藩医建部清庵など)がいましたが、多くは三都に学んだのです。 杉田玄白は「解体新書」で名高いですが江戸で活躍しましたがこれは江戸での出版業を利用した事が大いに役立っています。 大阪から京に移り住んだ小石元俊は漢方医と思われる三雲環善の解剖を指導し、究理堂という塾を開き多くの門人を育てました。 当時既に外国の学問はオランダのみならず、英、独、仏などのものの流入が盛んでした。 これらによる実証主義は漢方医にも広がり、そして科学全般に広がっていったのです。
お礼
委しく教えていただきまして誠に有難うございました。
お礼
有難うございました。津に都の意味があるとは知りませんでした。