ご質問者様のお知りになりたいことに沿う自信はありませんが…。
ご質問の主旨は「哲学」でもあり「心理学」でもあります。それをユングは「共時性」といいました。
以下本から抜粋して説明します。
「意味のある偶然の一致」をユングは重要視して、これを因果律によらぬ一種の規律と考え、非因果的な原則として、同時性の原理なるものを考えた。つまり自然現象には因果律によって把握できるものと、因果律によっては解明できないが、意味のある現象が同時に生じるような場合とがあり、後者を把握するものとして、同時性(シンクロニシティー)ということを考えたのである」
著者(河合隼雄先生)の個人的な経験も付記されてますが
「これは心理療法という、人間の心の現象を取り扱う仕事に従事していると、他のひとたちよりも数多く、このような現象に出会うとも考えられる」
「同時性の原理に従って事象をみるときは、何が何の原因であるか、という点にではなく、何と何が共に起こり、それはどのような意味によって結合しているかという点が重視されてくる」。
また「あまりにも因果律を科学的に解明しようとすると深層心理学でいう「自己(セルフ)」の接触を妨害する危険性があり人間疎外につながりかねない危険(・・・)」
とうたっていますが、また別のことになりますので割愛します。
話は戻って、ここからは私見になりますが、本では「意味」にルビが振ってあります。「その意味」はNEKOhaTORA さんのおっしゃる「主観」を別の見方ではないでしょうか。
「共時性」の根拠も理論整然としている(科学的)思いますが、一見してあまりにも×2複雑な絡み合った糸を解きほぐす作業になると思います。その理由が解き明かせない現在「必然」ということになるのではないでしょうか。
いやそれは「こじつけ」ではなく、本当に「実感」として感じざるを得ないからではないでしょうか。それは運命論者でも運命を信じない人でもふと感じることもあるかもしれない事実ですし。
NEKOhaTORAさんのその「利用される」というのはもしかしたら「偶然・必然」に意味の重要性を感じないのだとしたら単に「現象に使われている」というも意味ではないかと勝手に汲んでおりますが(^_^;。
私は「偶然⇔必然」=「運命」という式でいますので、やっぱり逆らえないな・・・と感じます。なので結局特定の宗教ではない「神」という仮定にいきつくわけです。(私は宗教そのものを語るのは嫌いです。神を語るというとき独り言になりますが)。
たとえ運命を自分の客観性で持って操作できるとしたら人類に戦争は起きてないでしょう。でも「ああ辛いな、苦しいな」と感じる日常に(また喜びにも)、ポジティブなネガティブな「生かされている」という「実感」を感じます。これは「課題」であるわけで、やはりグルグル回りまわって「神の存在」や仏教でいう「縁」、もう少し先をいくと「輪廻転生」などの思想に依拠するわけです(少なくとも私は)。
でもこの不可抗力の中に抗したがたい人の「意思」があるわけで、私はニヒリストでイヤな奴ですが(笑)、その力を見聞したりすると「ニンゲンていいなあ」と思います。たぶん「My神様」は唯一それを望んでいるのでは?と思います。誰だったかある哲学者さんは「意志の力」と言いましたが勝手に解釈するとそのようなことではないかと考えます。
形而上学的なことの仕組みが明かされれば科学的なことも、またこういう問題も解決するのでしょうけれど、人類はまだまだその段階に達してない。これはもう永遠のテーマでしょうね。きっと「神」が自ら自分の神秘のベールを上げて、そちら側からお姿を見せてくださらなければならないのでしょうが、「神」が人々からの関心を求めている以上それも「課題」なのでしょう。
つまりご質問者様の思うところも「課題」なのだと思います。哲学は思想的な隙間の部分を埋め合わせる作業ですが、関心がなくとも潜在的に感じざるを得ないであろうそうしたテーマを文字起しする人が顕在的な「哲学者」なわけですが、そういう意味では私は誰でも「哲学者」だと思っています。
NEKOhaTORAさんは「>偶然と考えるか、必然と考えるかかで物事の意味が変わってきますよね。」とおっしゃってますが、たしかにそうだと思います。たとえば「前向き」か「後ろ向き」的な性格にもよるとも思いますが、物事の捉え方=性格の一部も運命のひとつだと思ってます。
性格は変えることが難しいと言われているのはある程度運命のベクトルの重みのようなものを加担させるからではないかと思います。
しかし
また「>「善悪がなければ、あくまでも偶然」」とおっしってますが、うーん、これはどうでしょうか。そもそも善悪すらも時代や文化にとって変化する流動的なものです。例えばあるキリスト教の教えの一つとして、「男性は外周り、女性は内周り」が当然(つまり男性は仕事をし、女性は家事を分担するべき)という「教え」があると聞いたとき「えーっ!」と思いました。今のこの時代の日本で、です。「教え」ってある程度強制力があるので「善悪」を含めているのかもしれませんが、女の私にとっては小規模ながらも「悪」です(笑)。でもNEKOhaTORAさんにとっては「悪」かもしれない。仮にの話ですけれどその違いが「家庭内戦争」を起こす原因になるわけですが(笑)。
でも「偶然⇔必然」ということは時代や文化変わりない普遍ですよね。
そうして善悪というのは意味があとからくるものと思うのですが、意味を前提とする、というか人が何かに対して意味をつける以上、意味が押し出した何か一つの現象が、他の誰かにとっての現象に波及効果を及ぼし、それも誰かにとっての「意味」を求められるのでしょう。だとしたら「偶然・必然」も「善悪」は主観的なことで形としては「効果」「恩恵」「非情」になりうるわけです。「偶然・必然」の現象そのものは人の意志をまったくスルーしているしているイメージがありますね。
でもやはり意味をどうとらえるかが大切であると思います。「偶然」「必然」は現象が起きてしまえばもう抜け殻のようなものではないかと。
私は「二律背反教」という勝手に作った宗教の心棒者ですが(笑)、二項対立がひとつの法則だとしたら一部の概念である「偶然」の反対には「必然的に」(^^;「必然」が位置するしかないし、現に国語辞典にもあるし、現に体感するし。・・・
もし学問で解明できるのだとしても私的には解明してほしくないと思います。不条理を「これは必然」として癒されなくなってしまうかもしれないし頑張れないと思います。これらの概念については半ば神聖化しているので(笑)
以上長文失礼しました。
お礼
回答ありがとうございます。 「意味のある偶然の一致」は私の人生に重大な損害を与えたといいましょうか、「勝手な思い込み」をもたらした事あります。 現在でも悔やみ切れない問題なのです。 それと元々、私は行いがいい加減な者でしたから、いい加減な考えで書いた部分はさすがに誤っている、様ですね。 まあ、そんな事もありまして、偶然という言葉の意味について人と違った解釈をしやすい様です。 それでも、ここまで皆様に回答をいただいて整理がついてきました。 私の勝手な定義ですが。 偶然: 必然以外の空間で、一部(未検証あるいは検証不可の仮説で)必然と交わるが、後世に必然と考えられる部分(人間知能の限界)を含む未知の無限に近い空間領域 という感じです。 何か違っていたら御指摘下さい。 >「偶然」「必然」は現象が起きてしまえばもう抜け殻のようなものではないかと。 <私はなぜかデジャブ(というより予感かも)に悩まされるのです。 悪運が尽きたというか警戒心の強い小心者になった気がします。 ところで、もしおわかりでしたらもうひとつお教え下さい。 「自然淘汰(現在・現実の現象という意味で)は偶然」とお考えでしょうか。 根本的に抜け殻の様な考えなのでしょうか? すると運命とは 例えば、生物がサイコロを振った結果は、最初から決定している。 という意味になるのでしょうか。 私は生物は存続を賭けてサイコロを振り続け、無限に偶然(組み合わせによる)の機会を得て残ろうとする(実際は有限だが)、と考えているのですが。
補足
こういう事は、本能的~倫理的に”女性の方が正しい”ということになるんでしょうか。 それが、男(=不条理)は気に入らない? どうも「運命であることは信じない」けれど「偶然だと思う」のが私に有る心理の様です。 だから知りたいと望んだわけであって自分が神の様になりたいと考えた訳ではないなずなんですがね。 その辺は色々な人がいますよね。 「意味のある偶然の一致」についてですが、私が思い出した事は「なぜ果樹ができ、花が咲くか」という事です。 やはり「解明して欲しくない」という事なんでしょうか。