周囲の協力を得るため、と言うのが適切な表現かどうかはわかりませんが、あからさまにする理由はそれ以外ないのではないかと思います。
内心の傾向として差別している限りその判断にいちいち公正さを求められますが、自分を差別主義者であると定義してしまえば、自分が思ってもいない事をさも思っているかのように発言し、自分を批判する人を言い負かす事ができます。
同時に、自分に対して向けられる批判も差別主義者に対するそれになるので、自分自身が批判の対象とはならない。何と言っても自分自身が「自分は差別主義者というほどではない」と思っていますから、代弁者、あるいは弁護しているかのように借り物の言葉を振り回すだけで自分の判断に対する追求をかわす事ができます。
その意味で、差別的な考えを持っている人は周りの助けを得て、公正であろうとする努力から逃れる事ができます。
また、想定されている人とは若干異なるであろうとは思いますが、「女性は大切に扱うべきだ」といったそれ自体は悪くないが心得違いをしているような思想の持ち主など、きちんとした考えの下に判断を下しているものの相手にしてみれば不本意な判断を下す人が、偽悪者として差別主義者を装うという場合が考えられます。説明も議論も面倒なので人に見捨てておいてもらうために悪人を装うといったものです。
この場合も、要はその方が楽だからだと思います。差別主義者がたまに公正な判断をしてもほめられるだけですが、普通の人がたまに差別的な判断をすればたたかれますから。
結局、(差別などの問題に対しては「差別主義者」に対する問題としてカデゴライズされるため)個々人を対象として対処していない事。個々人を対象としている時でさえ、「差別的思想」を問題としていて判断自体の公正さを問題としていない事が差別的思想をあからさまにするメリットを生んでいるのだと思います。
もちろん、そのせいで被差別者を苦しめている以上差別者を肯定しているわけではありません。上記した目先の欲につられて公正であろうとする努力を放棄した人たちが差別主義者であると考えています。
お礼
非常に鋭い視点からの御回答だと思いました。 非常に×2 参考になりました。 '何と言っても自分自身が「自分は差別主義者というほどではない」と思っていますから、代弁者、あるいは弁護しているかのように借り物の言葉を振り回すだけで自分の判断に対する追求をかわす事ができます。 その意味で、差別的な考えを持っている人は周りの助けを得て、公正であろうとする努力から逃れる事ができます。' なるほど!!!! 実は、私の元教官(フランス人。心理学的及び哲学的知識を持っている)が、わざと授業中に差別的表現を使っていたのですが、彼の場合は、hanptyさんの御回答がぴったりあてはまると思います。