• ベストアンサー

1960年代を生きていた方に質問です

私はデザインの大学に通う大学生です。課題で60年代について調べています。教授曰く「歴史上の出来事を自分が体験したかのように実感していって、それを踏まえて今どんなことが必要とされて、どんなデザインをしていくべきか」ということを、学生である私たちに身に着けてもらいたいようです。 色々と本を読んだり、映画を見たりしましたが、やはり「歴史上の出来事」と一線を引いて見ている自分がいます。何か、もっと身に迫るような体験記を聞きたくてこの場をお借りしようと思いました。 1960年代に色々と起きた歴史上の出来事にまつわる自分の体験記「あの頃はこんな風で自分はこんな風に思った」とか、本当になんでも構わないので、リアルに感じれるお話を聞きたいです。お願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • nitto3
  • ベストアンサー率21% (2656/12205)
回答No.1

努力をあまりしなくても世の中どんどん良くなった時代ですよ。 今年のような災害が景気を上向きにし、朝鮮戦争が一番の要因だったけどね。 三種の神器に始まって、新しいものがどんどん出てきたね。 ボーリングやビリヤード、ロックにジャズ、すばらしい映画も沢山あってね。 後半には車や家が個人で買えるようになったしね。 誰もがそのレールに乗れた時代です。

gogo7188yuka
質問者

お礼

なんだか、ほんと今と違うのですね。あまりに感覚が違うので「嘘なんじゃないか、本当はもっと違うことが起きていて隠そうとしてるんじゃ」と思ってしまうことがあります。でも人類が歩んできた道なのですね。それが。 回答ありがとうございいます。感謝します。

その他の回答 (18)

  • kimanet
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.19

1949生まれです。真摯なあなたの思いの回答にはならないかも知れないけれど。 60年代は物の時代の幕開けでした。 電気・通信・水道・ガス・ゴミ・・・ごく底辺のインフラ整備に手がつけられ、それは今も続いています。 そして消費は美徳などといわれて浮かれた時代が続きます。 エコノミック・アニマルとかモーレツ社員などと異名もとりました。イケイケ時代です。 バブルが弾けて物余り時代。買わない…売れない…悪循環で経済は冷えていく。 続く現代は情報の氾濫時代です。 情報がすぐに入手できるようになった今、大多数というくくりは存在が薄くなり、様々なニーズにピンポイントが要求されるようになりました。ニーズが余りにも多岐多様になってしまって、世の中を方向付けられるようなデザイン・アイディア・ニーズの先取りという従来通りの観点をより強化するという越え難い壁を越えなければならない、デザイナーにとっては常に受難な問題だと思います。 いい教授のもとにいらっしゃるのですね。 もっとも肝要なのは信じられる自分でいることです。あなたの好きな物・色・形・ライフ。あなたはなぜそれが好きなのか。ただの我がままに陥っていないか。そんなここんなを深く追求してください。あなたの中にはご両親や知人の知恵やこの掲示板の方々のこれまでの時代があらかじめ詰まっているのですから。 体験記は所詮人のもの、結局はあなたという媒体を通してあなたの口や手から放たれる何かを大切にそして大事に自分の物にするしかない。ごめんなさい、だからあなたはここでそれをやっているのですよね、釈迦に説法でしたね。頼れるデザイナーになられますようにお祈りしております。

gogo7188yuka
質問者

お礼

ありがとうございます。心から感謝します。良いデザイナーになれるよ頑張ります。

  • nozomi500
  • ベストアンサー率15% (594/3954)
回答No.18

#10です。 13で指摘されたとおり、東京オリンピックのとき、すでに「カラー中継」は始まっていたんですが、悲しいかな、受像機が普及してなかったので(というより、「力道山」の時代の「街頭テレビ」からやっと書く家庭にテレビが入ってきたのが60年頃)「ウルトラC・山下跳び」「女子バレー・東洋の魔女」「マラソン・円谷あぶない」・・・は白黒でしか見られませんでした。 円谷といえば、「ウルトラQ」は白黒でした。「ウルトラマン」でカラーになりました。 (ついでにいうと、「学校給食」が始まったのは1947年。)

gogo7188yuka
質問者

お礼

学校給食はおいしいですよね。特に私の地元は、他のところより美味しいと先生が言っていて、小中学校の頃、少し誇らしげに給食を食べていたことを思い出しました。 2回も回答ありがとうございます。感謝します。

回答No.17

コンビニが無かったから、買い物にいく時は買う物を決めて、お店で「ハムカツ5個ください」って必ず声を出してました。 ごみ収集車なかったけど、物はまだなかなか捨てなかったので、ごみは出なかったと思う。 小学校では毎日草取りの時間があった。 糸と針と浮きとゴム管とナマリを買って、笹は自分で切ってきて、えさのミミズは石をはぐるとどこでも取れて、1時間に何匹もつれないハヤやフナを釣っていた。 前半は母親はズボンに普通にツギ当てしていたが、後半は恥ずかしがるようになった。 雪が積もると車はストップ、でも、通勤通学は列車。ラッセル車という、雪かき用の列車で、雪でも列車は動いていてので、生活に支障はなかった。 ウルトラマンのぶっ飛んだテーマソングに祖父が顔をしかめたので、テーマソングが終わるまで、別のチャンネルにしていた。 国道の舗装がコンクリートで、そこを蒸パン売りの馬車がポクポクやってきた。 秋の稲刈りは子供が手伝っていた。 刈った稲ははすに掛けて天火乾し。 家には木でできた雨戸はあったけれど、鍵なんて無かったと思う。鍵は倉についてるものってイメージ。 街灯が立つと、夏はカブトムシが飛んできて、朝までには車に引かれるので、2~3年でいなくなった。

gogo7188yuka
質問者

お礼

今の小学生の授業では「総合学習」っていう時間があって、外での遊び方や自然のものでおもちゃを作ったりだとかを教えているそうです。その時間は、昔は授業外で子供が自分から進んで、と言うか遊んでいた訳ですが、今の子供は知らないので授業でやることで勉強以外の大切さを教えようとしているらしいです。でも、その一方で学力低下も言われていて、授業の時間のとり方がどうあるべきか色々意見が分かれているようですね。 私はceelee-boyさんのその子供の頃の経験が羨ましく思います。でも、50年代60年代を経て今があります。その時代その時代にあった子供の育て方があるのだと思いますが、昔より子供の育てかたが難しい時代なのは事実だと思います。子供をどう守ればいいのか、どんな教育をすれば良いのか。今、小学生の子供をもつ両親は、果たして子供をきちんと育てられるだけの教育や生き方をしてきたのか。 私は子供にちゃんとした教育や、正しい生き方をハッキリ示してあげられる自信はありません。でも、そうでいたくないから、もっと自分のためや世の中のために働きかけられるようね仕事ができたらと思っています。 回答ありがとうございました。

  • madoushi
  • ベストアンサー率18% (45/246)
回答No.16

私は1958年生まれです。60年代は小学校時代ということになります。時折愚妻(1960年生まれ)とも話すのですが、私たちの世代は、さまざまな表現方法やメディアが、私たちの成長とともに同じく成長してきた時代を生きてきたと思っています。その象徴がテレビアニメであり特撮映画でありおびただしいマンガだったと思います。多くは書籍で振り返ることができるので、ご参照頂きたいのですが、とりわけ、NHKの少年ドラマシリーズが印象的です。代表作ともいえる筒井康隆の「時をかける少女」は、初恋をイメージさせるかけがえのない宝物のような作品です。未だに私は主人公役の島田淳子さん(後に浅野真弓と改名されました)のファンです。他はもう、ありとあらゆるアニメの名作、特撮映画の代表作、マンガの名作のオンパレードです。今の子供たちは、手塚治虫さんや石森章太郎さんの作品に触れずに育つ、気の毒な人たちという印象があり、わが子(小5です)には私の本棚から好きなものを読ませています。先日も「サイボーグ009」を読んでいました。個々の作品に関してご質問があれば改めてお答えしたいと思います。

gogo7188yuka
質問者

お礼

わたし石森章太郎さんと同じ誕生日なんですよね~♪♪なので少し親近感を勝手に持っています。 石森章太郎さんはヒーローものの元祖ですよね。私が幼い頃見ていた、日曜の朝にやるTV東京?のヒーロー番組「ちゅうかなぱいぱい」だとか「シュシュトリアン」だとか・・・。石森章太郎博物館に行ったことがあるのですが、石森さんがいなければ今の日本のヒーローたちはいなかったんだと知り「すっげ~!!!」の連発でした。「ヒーローと言えば?」って聞かれて思い出すヒーローはぜ~んぶ石森章太郎作品ですよね。ほんとスゴイ!!!ビックリしました。 その時代の絵の雰囲気が好きで、フィギアとか009ライターとかを持っています。たまに間違えて007と言ってしまいますが・・・。 漫画ってなんだか子供が読む読み物な気がして、最近は読むのが苦手なのですが「火の鳥」とかは読んでみたいなと思っていたりしまうす。。。でも以前少し読んだのですが、ちょっと内容が難しいかった気がしたなぁ。そんなことないですかね? 敬遠せずにその時代の漫画を読んで見ようと思います。回答ありがとうございました。

noname#15723
noname#15723
回答No.15

東京オリンピックの時、選手村近くで、外人観光客や選手たちにサインをねだりました。 みんな、気軽に応じてくれました。うれしかったです。 ひとりの黒人選手がサインの後、握手しようと言って手を差し出してきました。 その白い手のひらを見て、もう、びっくり。黒人の手が白いということを初めて知りました。 同じ年、私たちの中学校にアメリカの宇宙飛行士がやってきました。車の中から、私たちに微笑んだ宇宙飛行士の眼を見て、もう、びっくり、白人の眼って青一色かと思っていたら、真ん中に虹彩があったのです。 1964年は私にとって未知との遭遇の年でした。

gogo7188yuka
質問者

お礼

白人の目の真ん中って虹彩があるのですか!!??へ~今度見てみようかな。 今でこそ外国人は東京以外でも、地方でも見るようになりましたよね。特に最近は中国の方が多いように思います。電車で毎日通学していて、中国人の話し声を聞かない日はないほどです。 余談ですが、外国人の方からとってみると「外人」は差別用語で「外国人」っと言ったほうが良いそうです。言葉って難しいですよね。 回答ありがとうございました。

noname#15057
noname#15057
回答No.14

私はホンの子供(60年代生まれ)だったので、父の話。 学生運動が盛んで同期の機動隊員が(父は警官です)沢山犠牲になりました。 いつ「行ってくれ」と命令がくるかわからない。 命の危険を感じて過ごしたそうです。 あと、ビートルズが来たときの警備に借り出されたそうですが、このときも命に危険を感じたとか。 生きている人がエネルギーがあった時代という印象です。

gogo7188yuka
質問者

お礼

一つのことに皆で一喜一憂して、それが一人一人の生きる糧であったり、それが社会を動かす力であったんでしょうか。 今では一つのことで皆が一喜一憂するのはせいぜいオリンピックくらいですね。 回答ありがとうございました。

  • mii-japan
  • ベストアンサー率30% (874/2820)
回答No.13

No.10の方 念のため 東京オリンピックのTV中継はカラーでした 開会式のブルーインパルスが青空に描いた5色の輪が印象的でした それから、太平洋をまたいだ衛星中継が始まりました 最初は静止衛星ではなく一回の中継は十数分だったと思います 最初の衛星中継の、アメリカから伝えられた最初のニュースがケネディ大統領の暗殺事件だったことが衝撃的でした 60年代も前半はは、東京のような大都会を除けば、明治(江戸時代も)の面影を残しておりました つるべ井戸、薪を燃やすかまど・囲炉裏、たらいでの洗濯 近所には日露戦争に従軍したおじいさんもいました 敗戦は十数年前のことでした 学校給食が始まり まずい脱脂粉乳を飲まされました 肉といえばほとんどが鯨でした 兄弟も多く 四人程度では少ないほうでした 学校から帰れば手伝いをするのはあたりまえでした、弟や妹の子守、風呂の水汲み・薪を燃やして風呂を沸かすこと、掃除・・・勉強しろと言われることはほとんどありませんでした(この辺は50年代後半から60年代前半) 60年代後半になると、カラーTV・洗濯機も普及し、団地ができ、新幹線も開通、高速道路も名神に続いて東名も開通 ヴェトナム戦争が泥沼化し、反対運動・学生運動が盛んになりました 一般庶民が自家用車を持てるようになったのもこの頃からです ちなみに私の60年代は学生時代です 1ドルは360円でした

gogo7188yuka
質問者

お礼

目まぐるしい勢いで時代や周りの環境が変わっていったのでしょうか?今の時代でいうと、パソコンやケータイの機能がどんどん追加されて、どんどん進化して便利になって、ちょっと前まで手に届きそうもないDVDレコーダーが、いつの間にかに手に届く範囲の値段になってきて、液晶TVとかもだんだん安くなってきてるし、MP3やHDDオーディオとかも・・・。あとは目まぐるしく情報も飛び交い、何が本当なのか分からないほど。 今の時代の私だったら、10年後20年後も世の中はさほど変わらないだろう。変わったとしても予想がつく範囲だと思っています。 でも、60年代ぐらいだったら、10年後20年後なんて想像もつかなくて、夢がいっぱいで、光に満ち溢れた未来に向かってウキウキしている私がいるんでしょうか。 回答ありがとうございました。参考になりました。

  • nozomi500
  • ベストアンサー率15% (594/3954)
回答No.12

ポカリの話題があったので、思い出しました。 1970年大阪万博を機に、外資系企業が続々日本に入ってきました。 それまで「炭酸飲料」といえば「ラムネ」。せいぜいが「サイダー」だったところに、「コカコーラ」が登場。 まだ街角に自販機はなく、パン屋のオバチャンが売ってましたが。 ちなみに、私自身は苦手です。

gogo7188yuka
質問者

お礼

この前、坂崎幸之助さんのラジオで、昔の話で、スウェーデンに行った友達がいて、帰国したその友達に「スウェーデンどうだった?」と聞いたところ「コカコーラしかなかったよ」と言っていた、って話をしてました。私の感覚的にはコカコーラは世界のどこにでもあるという認識ですものね。やっぱ初めて飲んだときはビックリでしょうね。 回答ありがとうございました。

noname#32243
noname#32243
回答No.11

1961年生まれですので、60年代は私が八歳までのことです。それまでの間に覚えていることは、まずテレビはありましたが画面の前にブルーのアクリル板みたいなものがあり(取り外しできる)大人に聞いたら「目が悪くならないようについている」と言っていました。私はその頃、テレビのスイッチを入れるまでは、画面の向こうの人達は休んでいると思っていました。画面の向こうの人達を驚かせてやろうと思って、何回もスイッチを入れたり切ったりした記憶があります。(^^;) お友達が住んでいた共同アパート(トイレや水道・ガスなどは部屋になかった)に、洗濯機が来た時は私も見に行きましたね。左端にローラーがついていて、洗濯したものをしぼるようになっていました。「すごいー」と本当に感動しました。(家では洗濯板で洗濯をしていましたから) 東京に住んでいましたが、まだ空き地が沢山あり、草の実や花なんかでよく遊んだ覚えがあります。冬は長靴が埋もれるくらいの雪もふったりしていました。しもやけ、あかぎれ、いつものことでした。 世の中の事を殆ど知りませんでしたが、子供の頃は毎日が新しい発見続きだったような気がします。 回答にならないかもしれませんけど、昔を思い出してみました。

gogo7188yuka
質問者

お礼

回答ありがとうございます。なんだかほのぼのした気分になりました。今じゃ考えられないような感覚ですね。参考になりました。本当にありがとうございました

  • nozomi500
  • ベストアンサー率15% (594/3954)
回答No.10

1969年。アポロ11号月面着陸。 「なんとしても60年代に」というケネディ政権のスケジュールを敢行するために、 無人ロケットの実験もなしに、いきなり有人ロケットで月への往復をしたアポロ8号から、ちょっと無茶な計画でしたね。(あの旧ソ連でさえ無人ロケットで月面往復させている) そういえば「米ソ対立」「キューバ危機」もありましたね。 テレビが「カラー」になったのも60年代。 64年東京オリンピックが白黒で中継されましたが、68年メキシコオリンピックがカラーで衛星中継されました。

gogo7188yuka
質問者

お礼

人類にとっての大きな歴史を作ろうと、いろんな国が我先にと必死だったんですね。わたしの感覚だと、どんなニュースでも本当に起きた事なのか、何だか信用なら無いような気分で見ています。(報道が本当に正しいものなのか分からないし、過剰反応もしたくないから)でも、60年代に起きる事件や出来事に対して、皆さんどんなお気持で見ていらっしゃったんでしょうか。やっぱワクワクドキドキなんでしょうか。 回答ありがとうございました。参考になりました。