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昔、目黒に秋刀魚がいたのか?

質問のタイトルだけ見ると、落語で有名な「目黒のさんま」を 間違って覚え、昔は目黒で秋刀魚がとれたとでも 誤解している馬鹿なやつと思われるかもしれません。 ところが、落語は落語で十分わかっとるわい。 いつかわからんが、中目黒でも秋刀魚が取れた時代が あるんじゃいと言って聞かない奴がいます。 本当なのでしょうか?

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  • yanron
  • ベストアンサー率29% (206/690)
回答No.2

 >中目黒でも秋刀魚が取れた時代があるんじゃいと言って  >聞かない奴がいます。 私もそう思っていました(-_-;) もっとも 江戸時代以前にさかのぼって考えれば、目黒のあたりでも取れたのかも知れませんが、それこそ「揚げ足取り」のような気もします。 「目黒で秋刀魚が取れた時代があった」って言ってしまうと「富士山で魚釣りが出来た時代もあるんじゃ!」とかもアリになってしまうのではないでしょうか? しかし 話の本質を考えた場合は「目黒で秋刀魚は取れない」が正解でしょう。 検索で引っ掛かったものを参考までにおいときます  【時代小説切絵図:江戸】    http://www.alc.co.jp/members/jidai/map/  【Senzoku Town】    http://home.catv.ne.jp/ss/tyasu/himonya.html  【東京“29駅”物語】    http://www.mars.dti.ne.jp/~jiyuuji/Special/Yamate/index.html  【目黒の秋刀魚】    http://demetoni.hoops.ne.jp/rakugo/sanma.htm

nandakanda
質問者

お礼

富士山魚釣り理論、こういうの大好きです。

その他の回答 (5)

回答No.6

一般にどこそこの秋刀魚、というとき、銚子、気仙沼、釧路など、漁港の名前で言いますよね。 南三陸沖の秋刀魚、みたいな言い方はあまり聞かない。 漁港が無いような時代、つまり人間がいないか、あるいはいても漁業をしていないような時代には、 もし秋刀魚がいたとしても、「取れた」ことは無いだろうと思います。 さて、では、かつて中目黒に魚港があったか? ・・・無かったと思うんですけどね。 少なくとも太田道灌以降は。

nandakanda
質問者

お礼

ありがとうございました

  • crimson
  • ベストアンサー率40% (900/2202)
回答No.5

>いつかわからんが、中目黒でも秋刀魚が >取れた時代があるんじゃいと言って >聞かない奴がいます。 いや、それは事実です。 そもそも海洋生物は全て陸地に住んでいたものであり、 その一部が生活の場を海へ求めるようになったのです。 秋刀魚もそのうちの一種であり、江戸時代の中期頃まで は目黒方面にも分布していた…と考えられています。 …というのは、『ドラえもん』17巻「大むかし漂流記」 での、のび太の仮説を元にした全くのデタラメです(笑)。 秋刀魚は完全な海水魚である上に、そもそも沖合に生息 する魚なので、少なくとも自然に中目黒までやって来る 事はないでしょう。 話の実情としてはzawayoshiさんに一票です。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/6159/d-17.html
nandakanda
質問者

お礼

びっくりしたなあ、もう

  • zawayoshi
  • ベストアンサー率31% (302/946)
回答No.4

 さすがに目黒までは海はきてなかったです^^;  目黒のサンマは、"将軍が鷹狩に行った先の目黒で食ったサンマ"なんであって、"目黒で採れた"わけではないですしね^^;  あと、江戸城築城期は関東平野は湿地帯も同然でしたので、サンマなんか住める状態じゃなかったはずです。  あと、"武蔵"と言う地名がつけられた時期も湿地帯だったはずです  ちなみに鷹番と言う地名が目黒区に存在しております

nandakanda
質問者

お礼

そのとおり! だと私も思う 目黒で秋刀魚が取れるわけがない!

  • baian
  • ベストアンサー率39% (276/696)
回答No.3

目黒駅(実は品川区)の近くの誕生八幡神社で毎年さんま祭りってやってますが、 別に漁師のお祭りではないんですが…(平成8年からだから、純粋に落語ネタのお祭り)さんまもけせぬまから調達してるし。 大田道灌以前などはもうわかりませんが、 あの話の舞台のころの目黒は海はありません。 広重の名所江戸百景をご参照下さい。 どちらかというと田園地帯です。(名物はたけのこ) 目黒区三田2-12近辺に茶屋坂が有り、 その中程に「茶屋坂と爺々が茶屋」跡の説明板が、 目黒区教育委員会の説明文で立てられています。 「この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、三代将軍家光や八代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄った~家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれて広重の絵にも見えている~以来将軍が目黒筋へ出かけたには立ち寄って銀一枚を与えるのが例であった~また十代将軍家治が立ち寄ったときには団子と田楽を作って差し上げたと古文書にも書き残されている。こんな事から「目黒のさんま」の話が生まれたのではないか。」といった内容です。 さらに、隣の品川であがる魚を目黒川伝いに市中に運搬していたとありましたから、そこあたりでは新鮮な魚が賞味できたでしょう (今でも、満潮時に大雨降るとあふれるくらい、海に近い川ですから) 江戸は素晴らしい水上都市(川と堀による水上輸送が発達していた)でした。

参考URL:
http://www.toshinren.or.jp/topics/month/9809/topic006.htm
nandakanda
質問者

お礼

広重の名所江戸百景、説得力ありますな

noname#24736
noname#24736
回答No.1

昔は目黒の辺りも海だったとのことです。 落語でも、目黒の海から取り寄せたとなっていますから、案外、サンマが捕れたかも知れませんね。

nandakanda
質問者

お礼

さて、落語で目黒の海からって ありましたっけか?

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