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東京での板垣退助ゆかりの地を教えてください!

郷土史の勉強で、高知出身の板垣退助について調べています。 江戸、東京に死ぬまでずっと住まわれていた、お札にもなった板垣退助ですが、築地の土佐藩邸におられたこと以外の情報がありません。 住居跡などゆかりの場所は高知ばかりで、お墓が品川神社裏の旧高源院の敷地にあることしか分かりません。 土佐藩邸についてと子孫、銅像についてはもう調べました。 当時どのあたりに住まわれていたとか、なにかゆかりの地について情報があればどうか教えてください。

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  • Nakay702
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回答No.1

次のサイトをご覧になってみてはいかがでしょう。 https://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/196/itagakiphoto... 組織一覧 > 観光魅力創造課 > 板垣退助(誕生地、銅像、退助と妻の墓、邸跡、帰朝記念碑、立志社跡) 本文 板垣退助(誕生地、銅像、退助と妻の墓、邸跡 … 長い解説があります。 そのうち、関係の深そうな「江戸へ遊学」と「銅像」の部分を引用しておきます。 江戸へ遊学 文久元年10月25日(1861年11月27日)、江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、11月21日(太陽暦12月22日)、高知を出て江戸へ向かう。 退助の教養形成に大きな影響を与えたのが、阿波国出身の学者、若山勿堂(壮吉)である。昌平坂学問所塾頭を務めた佐藤一斎に儒学を学んだ勿堂は、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山などと並び「一斎門下の十哲」として、昌平黌の儒官として教鞭を取った人物である。勿堂は儒学だけでなく、幕府講武所頭取を務め、甲州流軍学、越後流、長沼流を兼修した兵学の重鎮・窪田清音から山鹿流兵学を学び、免許皆伝を許された英才である。 勿堂の山鹿流は、赤穂山鹿流の正統な伝系を継いでおり、ほかにも勝海舟、土方久元、佐々木高行、谷干城が勿堂から山鹿流を習得している。したがって、退助の学問的系譜は、当時の幕府側学者の最高峰である佐藤一斎、窪田清音の孫弟子ということになる。 銅像 国会議事堂 - 大日本帝国憲法施行五十周年を記念して建立。板垣像は北村西望作。 中央広間の四隅に銅像の台座があり、板垣退助像、大隈重信像、伊藤博文像、そして空の台座となっている。 芝公園 - 松田正久らの尽力によって建立された銅像。本山白雲作。戦時供出され再建されず消失。 青梅市 - 明治17年(1884年)、三多摩郡の自由党有志が、板垣退助を多摩川対岸の大柳河原に招き、板垣の好物である鮎漁大会を催して接待した事を記念し、岩浪光二郎ら有志の尽力によって、釜の淵公園内に昭和36年(1961年)5月3日を期して建立。(東京では芝公園の銅像が再建されなかったが、その代わりに青梅に場所を移して建てられたとも言える。) 日光東照宮に立てこもる大鳥圭介ら旧幕臣達に対し、板垣退助は「先祖の位牌の陰に隠れて、こそこそ戦い、結果、歴代の文物もろとも灰燼に帰すれば、徳川家は末代までも失笑の種となるであろう。尋常に外に出て正々堂々と戦いなさい」と説得した。また、強硬に破壊を主張する因州鳥取藩に対しては「日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる扁額が掲げられており、これを焼き討ちすることは天皇家への不敬にあたるため回避せられよ」と両者に対して理由を使い分けて説得し、日光山を戦火から守った功績によるものである。初め昭和4年(1929年)に彫刻家の本山白雲による像が作られ、徳川宗家16代目を継いだ徳川家達が、板垣に感謝し銅像の題字を揮毫した。太平洋戦争(大東亜戦争)末期に金属供出されたため、昭和42年(1967年)、彫刻家・新関国臣の作による像が再建された。銅像の題字は、拓本をもとに徳川家達の揮毫を再刻して復元された。

miharu5213
質問者

お礼

ありがとうございました!

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