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著者が言いたい通りの読解が出来るようになりたい
こう言うと本に唯一の読解はないと言われるかもしれませんが、小説はともかく本の内容を実践することに念頭を置いた啓蒙書、実用書やビジネス書にはただ一つの読者が言いたいことに対応する解釈があるはずです。 それは私も誰かに何か実践してほしいことについて言うときはただ一通りの解釈を想定しているからです。その解釈からずれたと思われる行為をされてもがっかりするだけです。 しかしたとえば比喩、特に隠喩にあたる表現を見ると、その部分もひっくるめた文章の全体で何が言いたいのかということは分かっているつもりなのですが、比喩そのものが、行間をも含めたその文章全体を分解したときのどの部分を言い換えたものなのか見当もつかないことが多いのです。あるいは著者自身は比喩だと思ってない可能性もあるのですが、表現が抽象的でそういうふうに感じられるとき、その表現のまま理解しようとしてもしっくり来ないのでもっと具体化できないかと試みてみるのですが何度全体を見直してみても、自分の語彙力の問題かなと比喩に使われている単語と辞書とを交互ににらめっこしても、作者の言いたいことに即した具体的な言い換えが思いつかないのです。 結局そうした部分が文全体の要旨に対してどう意味的につがなっているのか分からずに泣く泣く読み飛ばすということが結構あるわけです。 受験国語でも「~とはどういうことか。説明せよ」式の問題に苦労した覚えがあります。ただ受験勉強のときから、他教科なら共通の公式があって類題もあって問題を解きまくれば類題間に共通する頭の働かせ方が身についてきて、初見の問題であっても今まで解いてきた類題に通じるところがあるなら解けるという理屈も納得できるのですが、国語に出題される文章にはそもそも類題というべきものがないじゃないか、これでどうやったら問題演習の経験が次の一題に生きてくるんだと訝しく思っていました。 文章の構造からして本によって異なるわけです。よく受験生用のアドバイスとして評論文のほとんどは起承転結か序論本論結論で構成されているからその流れに沿って読めば自ずと分かると言っているものを見かけたものですが、これは受験の枠に囚われない広大な書物の世界においては全くあてになりません。 先日からは轡田隆史の『「考える力」をつける本』を読んでいるのですが、縦横無尽というよりは自由奔放に話の流れが変わったり、いきなり長大な引用が挿入されたり、かと思えば何ページも前に書いていたことをそこで言い継いだり、小見出しとは異なる内容が結論っぽくなっていたりと、到底理想的な型にあてはめて読めるようなものではありませんでした。 逆に一般の人の発想の飛ばし方に合わせた論理的というより直情的に文章の流れになっていて私がADHDということもあって小難しく考えなければ大雑把な文意を捉えるという程度の理解ならするすると進む文章にはなっているのかなとは思いました。 ただ文同士の関係と全体からみたそれぞれの文の位置付けかっちりきっかり明晰に理解することはなかなか難しいものになっているように思います。 こういうことはせっかく本を手に入れたのにその本の説くことを100パーセント活かすことの妨げになるだけでなく、せっかく読書には自己の文章表現の向上という効用もあるのに、表現の意図が理解できないのでは当然その表現を自分が文を書くときに活用することもできないという弊害もあるわけです(ただ少なくとも私が理解できなかったようにそれは理解しづらい表現としてむしろ自分の書く文では意識的に使うことを避ける反面教師とするべきという見方もあるのかもしれません。積極的に表現の幅を広げたい身としては惜しい感じですが)。 一体どうしたらそういう表現も明瞭に理解できるようになるのか読解の方法論や、訓練が必要ならその訓練法と、その訓練法が有効である原理も(受験国語の方法論は納得できなかったので)教えていただけるとありがたいです。
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このへんどうですかね? https://note.com/ymurai_koji/n/n4027272a4fe0
- Nakay702
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興味あるご質問をありがとうございます。以下のとおりお答えします。 >たとえば比喩、特に隠喩にあたる表現を見ると、その部分もひっくるめた文章の全体で何が言いたいのかということは分かっているつもりなのですが、比喩そのものが、行間をも含めたその文章全体を分解したときのどの部分を言い換えたものなのか見当もつかないことが多いのです。 ⇒実用書の部類の話ではありませんが、比喩・隠喩について常日頃からこれを多用する癖のあるスペインの哲人オルテガはこう言ったそうです。「メタファーは、真理の猟師が持つ釣り竿であり、真理の狩人が持つ鉄砲である」と。つまり、新しい真理の概念を抱いても、既成の表現・言い回しでは表しきれないので比喩・隠喩の手法を使うのだ、ということのようです。ということは、我々読者としては直感や本能でその真意を感じ取るしかなく、それが不可能なら、残る手立ては著書全体を通読してから、想像力を働かせて推し量るしかない、ということなのでしょうかね。何とも頼りない、竜頭蛇尾のような結語結末で申し訳ないです。 >よく受験生用のアドバイスとして評論文のほとんどは起承転結か序論本論結論で構成されているからその流れに沿って読めば自ずと分かると言っているものを見かけたものですが、これは受験の枠に囚われない広大な書物の世界においては全くあてになりません。 ⇒確かに、そう考えるしかないような、難解な評論文に出会うことがありますね。しかし、そうは言っても、いやしくも学術的論稿である限り、何らかの論理や原理に沿った論法を用いているに違いないと見ざるを得ないでしょうから、論理学的弁証法・演繹法・帰納法・帰謬法などに動員をかけて、あるいはそれらを取っ換え引っ換え援用しながら実態を突き詰めるしか手はないのかも知れませんね。受験生ならずとも、これまた心細い限りです。 >一体どうしたらそういう表現も明瞭に理解できるようになるのか読解の方法論や、訓練が必要ならその訓練法と、その訓練法が有効である原理も(受験国語の方法論は納得できなかったので)教えていただけるとありがたいです。 ⇒仰せの件は、私にとってもまた暗中模索の課題でしかありませんが、こんな記憶があります。福沢諭吉が、明治28年に書いたある手紙の中でこう言ったそうです。「書を著しても世間に之を見る者多く、真に之を読む者少なし」と。つまり、「(折角書いた著書だが)世の中の人はちらっと見てはくれるものの、真意を読み取り、汲み取るような姿勢ではなかなか読んでくれない」と言いたいのだと解釈できます。そこで、何とかその深淵なところを読み取るにはどうしたらいいものでしょう。不肖、私のど頭で考えられるのはせいぜいこんなことです。①本文を何度も「こねくり返してみる」、②一度読んでみてから、少し別のことなどをして「間をおいてから再度読み直す」、③他の類書を読んで比較する。同じようなテーマの記事を比較したり対照させてみたりすれば、「間テキスト性とかいう効果」が期待できるかも…。などと淡い期待を抱いております。 こういう問題は、「ここまで来れば大丈夫とか、これさえ物にすればもう完璧」などということはなさそうですね。そういえば、また一つ思い出しました。我々、常日頃から、また有事に際しても、客観的な姿勢で臨むべきである。そういう心的態度の人を称して、「あの人は客観的な見方をする人だ、と言うのだ」というのを聞いたことがあります。すなわち、客観的であることには終点などはなく、《より客観的であろうとする過程》を称して客観的であると評される、結果でなく「プロセスが大事なのだ」、というわけですね。読解の方法を巡っても、同じことが言えるかも知れません。つまり、この方法を抑えれば完璧、などということはなく、「常により正確に読み取ろうと意識することこそ肝心なこと」なのだ、と。
- takochann2
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実用書や科学の本ならば著者のいうとおりに解釈できるべきで、できなければ読む価値のない駄本です。 それに対し文学は、個人の人生や感性に合わせて解釈してよいものです。ただし、一般的な人はどのように考えるかは気にしたらよいでしょう。試験国語は、「著者はどのように考えていると出題者の私は考えたか答えなさい。」というものです。おおよそ一般的な考えになりますが。たまに、この出題者はおかしいんじゃない??というのもごくまれにあります。 ひたすら読書をして、いろんな人の感想を見ましょう。そして人生経験を積みましょう。
- eroero4649
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>本の内容を実践することに念頭を置いた啓蒙書、実用書やビジネス書にはただ一つの読者が言いたいことに対応する解釈があるはずです。 そうとは限らないと思いますよ。私はここで自己啓発的な回答をすることがありますが、どのような解釈をするかは質問者さんに委ねています。少なくとも「これが絶対の解釈である」ということはないです。 >それは私も誰かに何か実践してほしいことについて言うときはただ一通りの解釈を想定しているからです。その解釈からずれたと思われる行為をされてもがっかりするだけです。 自分がそうだからといって、世界中の人々が同じとは限らないです。発達障害の人は「自分の解釈が唯一にして絶対」と思い込みがちですが、そうとは限らないです。 信号の青を見て「青信号というのだから、これは青だ」という人もいれば「これはどう見ても緑色でしょ」と思う人もいます。ちなみに日本語では「青々とした新緑」という言葉があります。緑と青は日本人は曖昧なのです。 目に見える色でさえ様々な見え方があるのですから、言葉はより一層、様々な解釈があります。 聖書やお経の言葉なんてまさにそうで、様々な解釈が成り立ちます。一例をあげれば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉です。 これは現代語訳すれば「善人でさえ極楽浄土に行けるのだ。ましてや悪人が(極楽浄土に)行けないわけがない」という意味です。質問者さんは、この言葉をどう解釈しますか。
お礼
回答ありがとうございます。 自己啓発といってもそこまで哲学的ないし抽象的なものじゃなくて、7つの習慣とかアドラー心理学みたいな学問体系になってる理論について解説してる本とか、そういう言いたいことが明瞭そうなものについて言ってるわけです。 それですらも解釈が異なりうるということでしょうか。特に学問についてはそれだともう学問のとして体をなしてなくないですか? 感想は多様であっていいと思いますが感想が基づくべき正しい解釈は一つしかありえないと思うのですがこれも違うんでしょうか? 夏目漱石の本は読む時期に応じて見方が変わるみたいに聞くことがありますが、そういう文学ならともかく、よにかく論理的に主張するための文章というのは、いつ読むかによってその文の意味合い自体が変わるみたいな、そんな量子力学的な振る舞いをされても困るだけではないでしょうか。 私も自分の表現に対して言いたいことが一対一に対応するように心がけています。つまり今と少しでも言いたいことが違えば私はこの文章にしても微妙に異なる表現で書いてはずだということですね。
- head1192
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そういう読解をしたいのなら要約しながら読むのがよい。 小プリニウスの手紙にも次の一文がある。 「そこで私は本を開き、要約しながら読み進めた」 のちにビティニア総督になる知識人の16歳ころの姿である。 それと、一つ勘違いがある。 実践書に書かれているのはあくまでエッセンスである。 万人に共通することしか書かれていない。 ようするに最大公約数だけである。 しかし実際の実践に当たってはそれだけでは十分ではない。 自分の性格、知識、技能、生き様、環境、そういうものを加味して修正してゆかなければならない。 「自分の場合に翻訳」し、最大公約数以外の約数を補う。 そして血のにじむ訓練をして心にし身にする。 そういう作業が必要なのである。
お礼
回答ありがとうございます。 要約が有効、実用書の記述は最大公約数、どれももっともなことで参考になりますが、今回の私が文を読めないと言ってる場合とはどうも別件な気もします。 比喩を使った表現に対してどう言い換えられるか理解できないということを書きましたが、より詳しく言えば、作者の主張を示す文の特に述語(動詞)が比喩で表現されているという場合です。比喩の部分は寓話的なイメージを持った言葉が連ねられたりしていてるので、比喩そのもののことが起こるわけではないということ、そしてその比喩を通じてその比喩に対応する何かが起こるということを言いたいのだなということは分かるわけですが、何がということが具体的に分からずもやもやするわけです。 趣味の読書なわけですが、その一つの本にかけていい時間の制約がない読書のなかで、どんなに読んでも表現の意味が分からないという問題なのです。これは単なる読解力の欠如というより方法論の無知によるものではないのでしょうか。
- kairibaka
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文章をもう少し短くまとめる練習をしてみればいかがでしょうか? 絶対に正しい真実が長々と書かれている文章は、決して読み手に伝わる文章ではありません。文章をコンパクトにするのは、読み手に理解してもらう為の努力であり、書き手がその努力を怠ってしまってはいけないです。
お礼
回答ありがとうございます。 短く書くべきとのご助言ありがたいことですが、短く書いていた時期もあったのですが、そうすると私が念頭に置いてほしいことも踏まえてないような反応をされることも結構多かったんですよね。それでは個人的な感覚かもしれませんがもはや文を書いた意味がないのです。 というわけで長く書くようになってからあなたのコメントのような批判も多く受け取ってきましたが、一貫して「物足りなさが少しでもあるなら全て書き尽くそう」と決めました。これはもう変わることのないポリシーです。 というわけで、ご意向に沿えそうにありません。申し訳ありません。もちろん回答には感謝しています。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに感想は多様であっていいわけですけど感想が基づくべき文意の解釈は一つであるべきですよね。 特に私は技術評論者の本とかITの現況を知るための本を読むことが割合あるのですが、それでも事実の記述ならともかく筆者が「だからこうあるべきだ」と主張することに対して、なんでそう思うの?論理飛躍してない?それとも私が何か読み落としてる?と思うようなこともあるわけです。 試験国語の答えは確かに問題作成者の解釈によるわけですけど、それは独り善がりな解釈ではなく、そういう文を書いていたらその人はその文に高い確率でこういう文意を込めているものだろう、という「無難な解釈」なのでしょう。だから試験国語を解いて解答を納得して理解するというフィードバックを繰り返せば、おおよそどんな文に対しても解釈については過ちを犯すことがない無難な解釈をする力が身に付くということなのでしょう。 私にはその無難な解釈をする力がまだまだ足りているとは思いません。 しかし受験を飛び出た読書経験においてはもはや解釈に対する解答がついてないわけですよね。(まあ本の内容に関して電話受け付けてるところもあるにはありますが) 問題演習だけして解答を確認しないのでは力がつかないのは数学とか他の教科を考えれば自明なことですけど、ひたすら読書をする、ということが問題演習にあたり、感想を見るということが解答を見る、ということにあたるのでしょうか。 高校までと比べれば随分おぼつかない方法論ですけど、やはり学問には王道はないというやつで、愚直にそうやって力をつけていくしかないんですかね。
補足
お礼に書いた「おぼつかない」というのは、巷の読書の感想には全く見当違いなのものも含まれ玉石混交という意味で学びのたたき台としては微妙なところがありますし、参考書や問題集を解いて復習するのと違ってシステマティックさに欠けるからということです。