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食の偏重

和食の素晴らしさを説くコメントを読みました。 今の子供は本当の和食の味を知らない。 朝から、カップ麺に牛乳を入れて食べる子供、冷凍餃子を焼いたもの を食べる子供など様々です。しかし、最も多いのは菓子パンを朝食に 出している家庭だそうです。 確かに、これでは、味覚の面で問題はあります。子供の内から甘い物 ばかり食べて育った人は糖尿病や痛風に悩まされるでしょう。 しかし、和食は良い面だけではありません。 江戸時代、明治時代の一般庶民は和食のみで、しかも貧乏な家庭は 三食まともに食べていなかった。 江戸時代、明治時代の男子の平均身長は150cm程、女子は130 cm程でした。 これは、和食偏重の弊害が浮き彫りになっている数字です。 ですから、明治政府は外国に負けない体力を兵士に付けさせるために 欧米の食事を勧めたのです。 これを解説しないコメントはどうも頂けないと思うのですが、どう 思われますか。

みんなの回答

  • rikimatu
  • ベストアンサー率19% (629/3297)
回答No.4

江戸時代、明治時代の一般庶民は和食のみでしかも貧乏な家庭は 三食まともに食べていなかった。と言うのは一概には言えないと思います。何故かと言うと基本的に、貧乏な家庭が多かった。という事。農村部に関しては、ほぼ貧乏で日露戦争の時には軍隊に入ったら銀シャリ食べれるぞと言って貧乏な農家の息子が行って白米しか食べないものだから実際の所、戦死者より脚気がらみで死んだ人が多かったらしいです。農家としても米は食べていましたが何がしら、かさ上げして食べていて(大根などで混ぜ飯にして。)豊作の年でそれで1年持つかどうかな幹事。 ちなみに江戸時代に関しては身長の低い理由としては、動物性たんぱく不足と手遊びや竹馬などの遊びが主流でそのためだと言われています。が肉は全く食べなかった訳ではなく、食べてたみたいですよ。肉。犬も食べてたみたいですから。全く食べてなかった時期と言ったら徳川綱吉の生類憐みの令に時期だけみたいで(その時、辺りから犬食は廃れていったみたいですが。)基本、薬食いで薬と言う抜け道だったみたいです。

taikobowmeido20
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 武田鉄矢、「今朝の三枚おろし」というラジオ番組(Webで も配信中)で江戸時代、明治時代の庶民は江戸、東京に行く と具合が悪くなるが地元に帰ってくると元気になる。 という迷信じみたことが言われていました。 これは、江戸、東京では白米。田舎では玄米という食生活 だったからと言われている。と語っています。 玄米は栄養素がふんだんにありますから、脚気も治るらし いですね。 ありがとうございました。

回答No.3

江戸時代の庶民の食生活を和食と言うと語弊があります。また、米食を中心とした一汁三菜が和食だと言っても、定義は難しくなってきています。 食育による教育が、もっと必要なのかもしれませんね。

taikobowmeido20
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうですね。 戦後のGHQからの給食で育った年代から、昭和30年代、 40年代の子供は脱脂粉乳やコッペパンなどが主流になり おかずは不味いものばかりでした。 味覚が見直され始めた頃、漫画で食を題材にしたものが 出始めて面白かったのを覚えています。 「料理人、味平」の「味平ライス」は衝撃的でした。 あれから、様々な食に関する漫画が出てきましたが、最近 は下火になっています。 どうも、子供はそういったモノより好きなモノを食べたが る傾向にあるようです。

taikobowmeido20
質問者

補足

訂正、料理人(誤)→包丁人(正)です 申し訳ございません。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34518)
回答No.2

>ですから、明治政府は外国に負けない体力を兵士に付けさせるために欧米の食事を勧めたのです。 残念ながらそれは間違いです。日本人の体格が急速に良くなったのは、戦後からです。 第二次世界大戦の敗北で、日本人は敗北の原因が「日本は神国だとかいって夜郎自大になっていたからだ」にあると思いました。まあ、そう間違いでもなかったと思います。 しかしその反動で「日本的なものは全て時代遅れで悪くて負けの象徴」となり、戦勝国のアメリカ的なものが「イケていて勝利の象徴」となって、人々はこぞって生活や考え方を欧米化しようとしました。 またそういった中でアメリカは増えてゆく自国の小麦の輸出先も模索していました。そこで目をつけたのが「日本人の食生活を欧米化しよう」というものでした。アメリカ産の小麦と牛肉を日本人に売ろうとしたのです。 そういったなかで「コメを食べるとバカになる。パンを食べると頭がよくなる」という都市伝説というかそういう運動があったそうですよ。戦後世代の両親が教えてくれました。その世代は「日本軍はコメを食べていたから負けた。アメリカ軍はパンを食べていたから勝った」と教わっていたそうです。 それで急速に日本人の食事が欧米化しました。それと共に子供たちの身長がぐんぐん伸びたので、洋食は素晴らしいということになっていったのです。 明治時代の日本軍、というか日本人の深刻な健康問題として「脚気」がありました。今でこそ脚気の原因はビタミンBが不足することによっておきる栄養障害だと分かっていますが、当時は原因が分かっていませんでした。 ただ、欧米では滅多に見られない病気なので、日本の風土病なのだろうと思われていました。ただ当時から「栄養の偏りではないか?」という説もあり、脚気の原因を細菌に求める細菌説と栄養の偏りに求める栄養説に真っ二つに分かれていました。 海軍は栄養を疑っていて、欧米では脚気がほとんど見られないことから、当初は欧米での主食であるパンを食べさせようとしました。しかし「パンを食べるくらいなら死ぬ」と反発する水兵が続出し失敗。悩みに悩んだ末にたどり着いた結果が「カレーライス」でした。 カレーライスを水兵に食べさせることによって海軍では脚気が激減し、海軍は栄養説に自信を持ちました。 一方、陸軍では陸軍軍医総監であり、著名な作家でもあった森鴎外が細菌説に固執していたため、細菌説をとり、海軍のような対策をとることができずに対策ができなかったため、日露戦争でも大量の脚気患者を出しました。ちなみにロシア軍兵士の間ではビタミンCが不足して壊血病が蔓延しました。 脚気は白米ばかりを食べることによってなってしまいます。明治時代になると精米技術が全国に普及して全国の人々が玄米から白米を食べるようになり、脚気は明治時代から大正時代にかけて国民病といわれるほどに患者がいました。 明治から大正時代の日本人は、ご飯と味噌汁しか食べていなかったといっても過言ではないほどだったと思います。当時は冷蔵技術がないですから、魚は海沿いの地域でしか食べられませんでした。自ずと海沿い以外の地域はご飯ばっかり食べていたということになっていたのです。 また日本陸軍の幼年学校では厳しい環境にも耐える精神主義を重視していたので、食べ盛りの時期に忍耐力をつけるため栄養が十分にとれなかったため、体が小さくなる傾向がありました。

taikobowmeido20
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 明治時代は文明開化の時代で、全国に鉄道網が広がって食品 が流通してくる時代でした。 東京では、牛鍋屋が立ち並んで、洋食屋が横浜で開店するな ど一部ですが肉食が広まった時代です。 江戸時代では、地方の熊本では馬肉、薩摩では雉など肉食 をしていましたが、東北などではマタギで捕った熊、鹿、 タヌキなどを食していたそうです。 それは、明治になっても変わっておらず、一部の人たちに とって肉食は普通にやっていたようです。 しかし、だいたいの田舎の一般庶民は口にすることさえ できなかったそうです。 回答者さんは時代設定が曖昧で昭和初期の軍隊を紐解いて いるようです。

  • takochann2
  • ベストアンサー率36% (2420/6678)
回答No.1

 和食だから低身長なのではなく、人口増加などで慢性的な食糧不足があったために低身長になったと言われています。  あなたの投稿にも「貧乏な・・・」で食糧不足について言及しながら、なぜか結論が和食のせいになっています。変じゃないですか。

taikobowmeido20
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 貧乏な。 というのは言い過ぎでした。 明治時代も日本全体には富は普及しておらず、寒村では食べ るものも限られていました。 別の回答者さんも書いてある通り、脚気が陸軍で蔓延してお り、白米ばかりの食事では治らなかった病気です。 日露戦争の際の連合艦隊の食事では、ステーキが出されて いたという記載がありました。 士官以上かもしれませんし、下士官以下の水兵にも出されて いたかもしれませんが事実です。

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