新潟は「潟」というくらいなので、湿田が多かったようでした。
少なくても湿田を作るために河川改修などはせず自然のままで、昭和の前半くらいまで、田に舟を浮かべて稲刈りをしていた所があったくらいです(亀田郷土地改良区 作:記録映画「水との闘い」…だったと思う)。
それでも、干害時に備えて、全滅覚悟(通常はほぼ全滅)で本物の「池」の浅い所や湿地(田植え時季にはそこから田に水をとるので池の水量は減った)にもこっそり苗を植えていたようで、新発田藩などでは知っていてもお目こぼししていたらしいです。
たしか、幕府内で大名3家に領地を交換させる話が出た時、新発田の殿様が余所へ行くのに住民が反対したんだったと記憶しています。結果、新発田の溝口公は、秀吉の命で新発田に来た秀吉恩顧の外様のくせに、一度も移封・減封されずに幕末を迎えています。幕府としてもインネンをつける点がなかったんですね。
ところが、薩長が政権を取るや、「稲を植えていたのだからそこは田である」「いまさら止めたってダメだ」といって池や湿地に地租を課したのだそうです。
で、地租が払えない人々は金持ちに泣きついてその湿地や池を二束三文で買い取ってもらった…ところ数十年後に乾田化されてそれが立派な農地や宅地に変わり、巡り廻って後の田中角栄の金脈事件につながったようです。少なくても、私はそう聞いています。
「情けは人のためならず」を地でいったような「人助け」美談なのですが、事情を知らない革新系の人には角栄さんが財産を盗んだインサイダーに見えたようです。
話がよそに流れましたが、日本全国そうだとは言いませんが、新潟ではちゃんと苗を植えていました。水の中なので、除草などの手間暇はあまりかけられなかったのではないでしょうか。もちろん実体験はありませんけど。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >全滅覚悟(通常はほぼ全滅)で本物の「池」の浅い所や湿地(田植え時季にはそこから田に水をとるので池の水量は減った)にもこっそり苗を植えていた 多分これが想像に近いというか本質に近いのではと思います。 水害対策も干害対策も難しいし世話もあまりできないので、とにかく様々な推進に稲を植えまくって保険を掛ける、それが湿田での稲作なのかなと思いました。