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昭和の不況
青年将校たちが決起した諸事件の背景には、大変な不況による生活苦があったと思います。 不況の原因は何だったのでしょうか? また、どうすれば不況から脱却できたでしょうか?
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昭和恐慌→高橋是清による金兌換禁止&インフレ円安政策→欧米ブロック経済化→日満支経済ブロック構想→第二次大戦 という歴史の流れですので、当時の政府(高橋是清)は正しく経済対策を行い、それに対して欧米はブロック経済(対日輸出障壁)を行っています。欧米のブロック経済を乗り越える手段は日本にはありません。アメリカなら史実の通り戦争でこじ開けますがね。 ですので歴史の後だしじゃんけんをもってしても貿易で日本経済が成り立つ以上相手にブロック経済をやられると不況脱出なんて不可能なんですよ。
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- gunsin
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既出の回答に無い、農村部の疲弊についての補足回答です。 働き手を兵隊に取られて生産性が下がってましたが、小作料は、 同じだけ納めなければならないので、生活は当然苦しくなります。 そこに、朝鮮からの米が入り、価格が下がったのです。 朝鮮を併合して以来、莫大な日本の税金を使い、インフラの整備 をしたのは御存じでしょう。 その甲斐有って?朝鮮の米の生産量は倍増しました、その、増えた分の米が日本で売られたのです。 朝鮮総督府としては、売ったお金で、朝鮮国内の整備を行うと 考えるのは、自然の流れと思うのですが、韓国の学校では、日本が 米を略奪したと教えてます。 台湾の人は、日本の統治時代を、悪い事と良い事を差し引くと、 良い事が残るのでね、と言ってます。
お礼
農村部の疲弊について、ありがとうございました。 台湾では、狼が去って、豚が来たとかで、後の方の支配の方が酷かったために日本が良く見えたり、 初めての植民地経営で、法に則ったきちんとした支配をしたりしたせいもあったのでしょうね。
- eroero4649
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時系列を分かりやすくするために、あえて和暦で表記します。 世界恐慌が起きたのが、昭和4年です。実は日本は世界恐慌から脱するのはむしろ早いほうだったのです。高橋是清という人が思い切った政策をやったのでね。これは本題とは関係ないので、今回はその中身は割愛します。 で、恐慌で国としてもお金がないわけですから、当然軍事費を削減しようということになりました。それで、昭和5年にロンドン海軍軍縮条約というのを締結しました。アメリカとイギリスと日本の間で、軍艦を作ることを減らしましょうと決めたのです。別にこれ、悪いこととは思わないでしょ? けれどもその条約が不平等条約だということで、特に海軍に不満を持つ将校が数多くいたのです。日本の「愛国的世論」ももちろん不平等条約だと批判しました。 そういった中で、海軍の青年将校を中心にした五一五事件が昭和7年に発生します。 これは軍人による政治家に対するテロ以外の何物でもないのですが、ここで日本、というか日本人は後に敗戦に繋がる大きな過ちをおかしてしまいます。 それは、テロを起こした青年将校たちに「彼らの行動は義挙である」と同情してしまったことなのです。裁判中には、傍聴席にいたあるご婦人が立ち上がり「裁判官様、どうかご寛大な判決を!」と叫んだといいます。日本中から彼らの刑を軽減する嘆願書が山のように届いたといいます。当時の人々は、自分たちの論理でしか考えない政治家に対する不満がとても大きかったのです。 で、結局五一五事件の首謀者たちは彼らが起こしたのはテロでありクーデターであってのに、すごく軽い罪になってしまいました。普通は軍人が政治家に銃を向けて撃ち殺すなんてやったら、当然ながら銃殺刑です。 この結末が後の二二六事件を招くことになります。というのも、軍人や日本人の中に「行動が乱暴でも、義憤、義挙によるものなら許される」というムードが作られたからです。世のため、人のためにやろうとすることなら、やってることがテロでも構わないと青年将校たちは思うようになってしまったのです。 二二六事件が発生するのは昭和11年ですが、このとき、陸軍は「皇道派」と反皇道派ともいうべき「統制派」との間で激しい権力争いが起きていました。皇道派の主なメンバーは荒木貞夫、真崎甚三郎や山下奉文、統制派の有名人といえばあの東条英機です。 二二六事件を起こすのは皇道派の青年将校たちなのですが、彼らは「天皇を奉じ、奸賊を討たん」と息巻いていたんですね。 皇道派って人たちは何を目的にしていたのかというと、分かりやすくいうと「天皇の御親政」です。議会制民主主義をやめて、天皇の直接支配でやろうと。そうすれば天皇のカリスマできっと世の中良くなるだろうと考えていたのです。 そんな単純な話じゃねえだろうと思うところですが、どうも皇道派ってのは「天皇の親政にすればなんとかなるだろう」と思ってたらしいです。やっぱ発想が軍人なんですね。 で、色々細かい事件があるのですがそれは端折りまして青年将校たちが皇道派の重鎮真崎甚三郎に「もう我々は決起します!」みたいなことを伝えたのです。それに対して真崎は「お前たちの気持ちはよくわかった」といったのですが、これが青年将校をして「親分が自分たちの後ろ盾になってくれる」と解釈したんですね。日本人あるあるです。それで彼らは遂に決起したのです。 ところが真崎と青年将校たちに思いもよらなかった反応が起きます。事件を知った昭和天皇が激おこぷんぷん丸(死語)になったのです。「朕自ら一軍を率い、賊軍を討たん」とまで言ったといいますから、これはもう完全に見込み違いです。真崎は当初昭和天皇に対し「彼ら(決起した将校たち)も国を思ってのことですから・・・」と同情する発言をしていたものの、天皇のあまりの激怒ぷりを見て「これはあかん」と思い、結局青年将校たちを見捨てることにしました。 「天皇がものすごく怒っている。自ら兵を率いてお前たちを討つといっている」と聞いて、青年将校たちは自らの行動が失敗に終わったことを知り、程なく彼らは鎮圧されます。クーデターは失敗に終わりました。そして彼ら青年将校たちが皇道派であったことから、この事件を契機にして真崎らを始めとして皇道派は失脚、統制派が陸軍の主導を握ることとなります。 さて、ここまで長々書いておいて「で、肝心の不況の話は?」とお思いでしょう。そうなんです、二二六事件というのは本質的に陸軍内部や政治家も巻き込んだ権力闘争であるのです。 もちろん、青年将校たちの決起はむしろ純粋過ぎるほど純粋な正義感によるもので、彼ら自身はこれを機に自分たちが権力を握ってやろうという政治的野心はあまりありませんでした。むしろ彼らが純粋過ぎたがゆえに偉い爺さんたちに利用された面が大きいです。 なお、彼らも決起の理由の一つとして農村漁村の困窮をあげています。当時は東北などの貧しい農村漁村では娘が売られるような状況がありましたが、これは現代風に翻訳すると「格差社会」の問題だったと思います。景気がいい人がいる一方で、貧しくて売られる娘がいる。こんな格差社会は間違っていると彼らは思っていました。 しかし、彼らとてそれに対する妙案があったわけでもなく、ただなんとなく「天皇親政の御世になれば良くなるに違いない」くらいの認識でした。 日本を世界恐慌から脱するために尽力した高橋是清は、二二六事件で青年将校に暗殺されました。彼らにとっては高橋是清は「金持ちの味方をする、憎むべき奸賊」だったのです。 二二六事件の真の姿が分かったのは、事件後非公開で行われた裁判の記録を、匂坂春平という陸軍の法務官(裁判官)がきっちり残していたからです。匂坂氏は当然この資料を秘密にしており、彼は戦後間もない昭和28年に亡くなりますが、その膨大な資料がその昭和も終わろうとする昭和62年に奇跡的に出てきたことによって長年封印されていた「二二六事件の真実」が明らかになりました。 ずいぶんと長い回答になってしまいましたが、最後に。彼らはテロ(クーデター)を起こし、その後に日本はどんどん間違った方向に向かってしまったわけですが、その時代背景には「愛国者の暴走を止められない民意や政治」があり「国民の政治不信」や「格差社会」があったわけです。いえ、私は現代の話をしているのではないのです。 この事件が起きた翌年の昭和12年から、日本の運命を決定づける日中戦争が始まります。その3年後の昭和15年、日中戦争の泥沼化で東京オリンピックが中止となります。その原因は、日本軍が「武漢」に兵を進めたからでした。
お礼
詳しい回答をありがとうございました。 格差社会を是正する政策が必要だったのですね。 高橋是清は「金持ちの味方をする、憎むべき奸賊」 と同時に、軍事費を増やさない憎むべき国賊とも 映ったのかもしれませんね。
- SPS700
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1。青年将校たちが決起した諸事件の背景には、大変な不況による生活苦があったと思います。 おっしゃる通りだと思います。 2。不況の原因は何だったのでしょうか? これは、2・26事件、5・15事件、相沢事件、と、繋がっています。下記では 「実は、事件の起こる6年前、金輸出解禁と世界恐慌により、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に見舞われました。企業は次々と倒産し、町は失業者であふれました。 さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は大変苦しく(農村恐慌)、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出てきました。」とあります。 https://benesse.jp/contents/history/ninirokujiken/ 3。また、どうす「れば」不況から脱却できたでしょうか? 歴史の「たられば」は分かりませんが、当時の政治家が、不況に対応する処置を怠ったことが原因の一つでしょうから、財閥を肥やさないで、庶民の生活向上に留意すべきだったと思います。
お礼
世界恐慌が原因で、 庶民の懐を温める政策が必要だったのですね。 ありがとうございました。
お礼
なるほど。 欧米のブロック経済の背景には、むろん経済的窮地もありますが、アジアで急速に帝国主義化していく日本への牽制もあったのでしょうね。昭和天皇の懸念は的中です。 さらにその背景には、ルーズベルトのような黄色人種への差別意識が強烈にあったことでしょう。