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「参勤交代」の実態

江戸幕府へ上がる事を「参勤交代」といってた(気がする)けど、一切の家財道具を「引っ提げて」ある種の宿泊研修みたいなことをしてたんでしょうか? 伝えることだけなら家臣に任せれば良いと思うし、実際にはどういう「勤務」をしてたんでしょうか? また、参勤交代ができるのは江戸幕府由来の(特に徳川家やその縁者のみ)かとも思われるからお金がない地方藩主はあまりできなかったとも聞きます。 社会科や歴史の時間に「ふんわり」聞いただけなのでどういう事をするのか、(その道中に土産や宿泊をしお金を落とすのもあるけどそれが理由ではないはず) 教えてほしいです

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  • oska2
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回答No.5

>ある種の宿泊研修みたいなことをしてたんでしょうか? 藩側から言うと、一種の遠征訓練を兼ねたデモンストレーションです。 「わが藩は、こんなにも素晴らしい」とね。 と同時に、江戸に人質として住んでいる正室・跡取りに会いに行く為です。 ※箱根の関所では「入り鉄砲に、出おんな」が取り調べ対象でした。 ※江戸への武器の入り込み予防と、人質である藩主の正室などが逃げない予防。 幕府側としては、藩の財政状況を悪化させて「武器・武具を買えなくする」事でした。 ※加賀前田藩で、参勤交代片道の費用は(現在価値で)約2憶5000万円。 同時に、東海道などの街道・宿場・問屋場の活性化も行えます。 >実際にはどういう「勤務」をしてたんでしょうか? まぁ、勤務と言う勤務はありません。 「指定された日時までに、江戸に一行は到着しました」 これで、お終いです。 後は、江戸にある屋敷で家族で過ごすのみ。 例外的に、幕府から呼び出しがあれば出仕します。 >お金がない地方藩主はあまりできなかったとも聞きます。 当初は、藩主は全て参勤交代の義務がありました。 が、その後は色々な例外が存在しています。 3万石未満だと、藩主は一度も現地に赴かないで江戸屋敷で生活する場合も多いのです。 藩主が現地にいないので、この藩は参勤交代の義務はありません。 例えば、西条藩(紀伊徳川家分家)などが有名。 そうそう、大藩の水戸徳川家も、参勤交代の義務はありません。 また、藩内で自然災害などが生じた場合は「参勤交代免除」となります。 余談ですが・・・。 先に書いた通り、参勤交代は「莫大な経費が必要」ですよね。 また、石高によって随行員の人数も決まっています。 藩としては、1円でも経費節減をしたい。 そこで、今でいう「バイト・派遣社員」を現地で雇うのです。 〇〇宿場から〇〇宿場までは、藩士だけで移動。 〇〇宿場から〇〇宿場までは、バイト〇人と派遣社員〇人を採用し移動。 これだけでも、大幅な経費節減となりました。^^; 今の地方議員・国会議員も、上級国民と威張らないで見習って欲しいものですね。

noname#246748
質問者

お礼

ありがとうございます。

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  • fujic-1990
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回答No.4

 参勤交代は宿泊研修というよりは、軍事教練ですね。  衣服はもちろん、風呂や、寝床の下に敷く鉄板(縁の下から槍などで突かれないように)なども運んでいたようです。毒を盛られないように、殿様用食材などは所処で調達し、殿様が宿泊した「本陣」や「脇本陣」と呼ばれる宿の調理場で家臣が調理したとか。  事前に依頼しておかないかぎり、本陣では殿様用の食べ物を用意しなかったようです(下痢でもされると大変)。  殿様は「本陣」泊まりですが、家臣たちは近くの寺や民家に、家臣の家の格に応じて分宿したそうです。なので、めったになかったようですが、数家の参勤がぶつかった場合は大変だったようです。  一応、大名なら1万石あたり武士何人、馬何匹、小者何人・・・ という風に決まっているのですが、大名は江戸に藩邸を持っていて、妻子(正妻と嫡子)を住まわせています(人質)。それに伴って、家臣たちの何割かを江戸藩邸に住まわせています(江戸勤番)。  他方、領地にも残さなければなりませんので、「全員を」とはなりませんが、家臣の何割か(加賀百万石の前田家だと2000人以上だったかな?)を引き連れて江戸に上ります。  外様大名の家臣の場合は江戸へ来てすぐ帰る者(立帰り)もいますが、大名はそのまま1年江戸に滞在するので、同様の家臣(江戸詰め)を引き連れて、江戸に来て1年後に(妻子を残して)故郷へ帰ります。  江戸近くの譜代大名の場合は半年ごとに交代します。  「カネがナイので参勤交代できません」などと言わせておけません。大名にカネを使わせて謀反できないようにするのが、参勤交代の主な理由ですから。「できない」などと言えば、謀反の兆しがあるとして取り潰しでしょう。  江戸にいる間、定期的に江戸城に行って将軍に挨拶(形だけ)しなければなりません。  そのほか例えば寺社奉行を務めている大名なら、江戸城の寺社奉行の控え室に詰めて将軍からの問い合わせなどを待っていました。若年寄や老中なら、それぞれの詰め所(部屋)で下記のような書類を見て決済などをしていました。  例えば、勘定役の役人から、「○○橋の付け替えが必要です。今だと三千両必要です」「石垣の修繕は薩摩の島津に命じたらいいかと思いますが?」みたいな書類が届きますので、OKしたり、「高すぎだ。見積もりし直せ」「島津は先頃の噴火の始末で大変だったと聞く。検討しなおせ」などの決済をします。  あるいは、「旗本2000石の○○△左衛門から隠居相続の願いが出ております」とか。「○○△左衛門が抜けたら、話が進まぬ。隠居は認めず、とどめ置け」みたいな。  また、赤穂浪士で有名な浅野内匠頭のように、勅使供応役を命じられて接待に四苦八苦したりする大名もいるなど、江戸にいる殿様の仕事はさまざまです。(まあ、役付でなければたいがいは暇だったらしい)

noname#246748
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (415/1290)
回答No.3

目的は反抗出来ないようにする為です。 1.人質の確保。   A・・殿様(大名)、B・・奥方と嫡子・・・AとBを三年毎に、   地元と江戸詰めを交代します。 2.金を浪費させる。   江戸に住む為に、上、中、下の3つの屋敷を造ります。   参勤交代の共揃いは、石高により、人数が決められます。 金の有る無に関わらず、参勤交代が出来なければ、取り潰されます。 その後には、徳川家臣の直参旗本が派遣され、管理します。 結果として、富の地方分散になり、明治での短期間での鉄道の敷設、 製糸工場の建設など、地方が大きなチカラとなりました。 今、企業が内部留保としてガッポリ、貯め込んでいる、 金を吐き出させて、使う上手い知恵はないのかね~ 知恵伊豆(松平信綱)よ、蘇みかえって、この世に出でて頂戴・・・

noname#246748
質問者

お礼

明治の産業革命にまで影響があるとはしりませんでした。民衆のためにお金を使う、やはりこれが違うのではないでしょうかありがとうございます。

  • watanabe04
  • ベストアンサー率18% (295/1598)
回答No.2

「その間」とはいつでしょう? 領地と江戸との間は「宿場町」に泊まり歩いていますよ。 もちろん宿泊代はすべて大名持ちです。

noname#246748
質問者

お礼

ありがとうございます。参勤交代に関する資料を読む限りは、そういった(経済効果)や(情報の均一化)を狙ってやってたとも言われてます。また、江戸に上った藩主や下級武士は江戸に(憧れ)を持ち、江戸に移り住んでくる人を狙ってきたとも云われてますがどれも本当かどれが本当かはわかりません。もちろん大名もちではあるんでしょうが…

  • watanabe04
  • ベストアンサー率18% (295/1598)
回答No.1

参勤交代は徳川家と関ヶ原の戦いで争った外様大名の為です。 遠いところに領地をもたせ、大名本人が多くの家来を伴って 江戸まで往復する。 これはお金が大量にいるので徳川家への謀反を諦めさせ、 力を削ぎ落とすためだということです。

noname#246748
質問者

お礼

参勤交代は徳川家と関ヶ原の戦いで争った外様大名の為です。 >質問なんですけど、その「外様大名」たちを金銭的に痩せ細らせるためだけに家財道具などを引っ提げさせ江戸までつれてきたということでしょうか? その間は江戸城内に泊まれるとか?

noname#246748
質問者

補足

回答ありがとうございます、