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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:伊予松山藩が葵紋を使用できた理由について)

伊予松山藩が葵紋を使用できた理由について

このQ&Aのポイント
  • 伊予松山藩(いよまつやまはん)が “葵紋” を使用できる理由について考えてみましょう。
  • 伊予松山藩(いよまつやまはん)は久松松平家であり、家康の男系子孫ではなかったので、葵紋の使用は許されないはずです。
  • しかし、田安宗武の六男の松平 定国(まつだいら さだくに)が養子に入って、伊予国松山藩9代藩主に就いたことにより、伊予松山藩(いよまつやまはん)は葵紋の使用が許されたのかもしれません。

質問者が選んだベストアンサー

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  • D-Gabacho
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回答No.1

伊予松山藩の久松松平家に関しては「伊予の葵」というサイトで非常に詳しく解説されています。『松山叢談』「大猷院殿御実紀」など参考文献も明記されており、信頼性の高いサイトだと思います。 これによると久松松平家(定勝系)初代の定勝は、生後まもなく同母兄の松平元康(のちの徳川家康)から松平氏の称号と葵紋を賜ったそうです。 また、伊予松山藩4代藩主定直のとき、大老堀田正俊から旧例のように葵御紋を武具・船具に使用することが許されたとのこと。以前から慣例として代々続けていた武具や船具への葵紋の使用に関して、あらためて公式に幕府の許可を受けたということです。 婿養子の定国が9代藩主になってから3年後の天明5年(1785)、田安家(まだ当時は当主不在)から葵紋を譲られ、それまでの星梅鉢紋の紋服にかえて、一代限り葵紋の紋服の着用を許されました。 定国の子で11代藩主の定通のとき、田安斉匡の娘と婚約したこともあって、文化元年(1818)斉匡から葵紋を譲られて再び葵紋の紋服の着用を許され、さらに天保5年(1834)幕府から葵紋と六ツ葵紋の全面的使用許可を受け、星梅鉢紋の使用は停止されました。 伊予の葵 http://www16.plala.or.jp/iyo13/

noname#246463
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 葵紋の紋服が着用できるようになったのが定国以降なのですね。 武具や船の葵紋は定国より前でも使用できたのですね。 ありがとうございました。

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