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明治時代の結婚

高祖父、高祖母の婚姻についてですが、戸籍謄本を見たところ高祖父は入夫で高祖母は明治37年に1人目の子供産んでて婚姻が明治40年で明治38にも子供を産んでるので2人産んだ後に結婚してることになるんですが、当時は結婚が出産の後になることはよくあったのですか?高祖父と高祖母の家に格差があって婚姻を認められなかったとかですか?

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  • takuranke
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回答No.3

父親は高祖父になっているのなら、 入夫でもめたのかもしれないです。 明治31年に発布された民法の親族編において、 それまでの婚姻事情が大幅に変わることになります。 (女性は結婚前は父親に従い、結婚後は夫に従うよう法律で定められ、 結婚すれば無能力者扱いされ、離婚しても自立が難しくなったため、 これ以降、離婚率が減っていきます)。 また、この民法で男は30歳・女は25歳になるまでは 結婚するのに父母の同意も必要(旧772条1項)となったので、 子を作っていても、 発布より6年近くも経っているので 親の考えが変わったのか、 もともと入夫が嫌だったのかはわかりませんが、 夫(当時の高祖父)が30歳以下だと、 入夫での婚姻は親に反対されていた可能性もあります。

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回答No.2

足入れという言葉がありますね。言葉が存在するということは風習として認められていたということでしょう

  • chomicat
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回答No.1

明治以前と云うと男女交際や婚姻が不自由な時代と現代人は錯覚しますが現在よりももっと自由だったでしょう。 むろん男女の仲ももっと奔放、遊郭の女性は行儀作法、習字、お茶、お花、和歌などにたけていますから、大店の商売人が争って、大金を積んで自分の妻に迎えるという事もよくあったのです。 大店に跡取り(男子)が生まれないと世話する人が多くありますから全く血の つながりがなくても商才がある人を選んで婿養子に、あるいは子ができなくても養子を取るなど、現在よりも自由でした。 自分の息子でも能力がなければ食い扶持(遊んで暮らせる財産)を与えて放り出した様ですね。 かの、本田総一郎は息子さんに「お前は機械類の仕事は出来ない」と後継ぎにしなかった有名な話があります。 自事で恐縮ですが、うちの伯母は私の母親と姉妹のまま一生を独身で過ごしました。 でも子供は生んでいますし(私の従弟)結婚しなかった相手のことも、そのお墓もよくわかっています。 養子縁組をしたり、後継ぎをよそから連れてきたりはごく普通のことでした。 武家の家はいざ知らず商売人はまず人。 貴殿がお調べになった高祖父の婿入りはごく普通の事、そして先に子供が生まれても婚姻は後と言う事も多かったようです。(あまり気にしなかった。あるいは何らかの事情で婚姻が後になった) 当方の家でも過去帳からさかのぼり、除籍謄本などで調べると2代にわたって養子を取った記録があります。 家の格差がある場合はその子女を名家といわれるところに養女として出しそこから婚姻をするなどという事も盛んに行われました。 貴殿の高祖父の時代、ごく普通の事だったと思います。 (高禄をはんだ武家の末裔や明治以降の華族たちは別です) 結婚が後という事を気にする必要はありませんし、家同士の格差があったのか、など考えることもありません。 古い家柄なら、貴殿の家の旦那寺に記録が残っているかもしれませんね。 頼みこんで仔細を調べることはできます。