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ドイツ語の態の問いです。
反証されている偽な変形文法ではなく、真な認知文法に則って御答え下さい。: 1.ドイツ語では、能動、受動、使役の各態の違いと関係は如何なるものですか。 2.上の絡みで、次の3文の違いは如何なものですか。: A. Es wird hier von drei Personen gearbeitet. B. Es arbeiten hier drei Personen. C. Es laesst sich von drei Personen arbeiten.
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本当は私も John was killed by Mary. John was killed in an accident. の違いや、 There was a man arrested. A man was arrested. の違いや、 This book sells well. のような中動態がドイツ語の方が広く許される理由とか考えたいのですが、それはやっぱり一冊の本になってしまうし、結局お互いに不満の残るQ&Aになってしまうので、この辺にしておきます。まあ尻尾を巻いて逃げ出したと思われても仕方ありませんが。 >どんな概念装置を援用のために総動員して下さっても構いません 図が表示できないので、そもそも無理筋でしたね。 インドでカレーを食うなというくらい無理です。 ○だの◎だの、→だの⇒だの、てんこ盛りにしないと。 >構文文法の「継承」は、そのまま、「適用文法」に似た「変形」と解釈することも出来ますので、TGGへの先祖がえりに過ぎない Goldberg流の構文文法は気をつけないとそうなるかもしれません。 Croft の Radical Construction Grammar はその点ちょっと手強いですよ。 >なお、下記を御高覧下さい。 神学論争なのか、フロイト派心理学なのか、残念ながらあまり議論がかみ合っていないように感じました。 どっちにしろ、認知文法はもちろん、言語学や文法理論とは縁もゆかりもない議論ですが。あ、Herr Back だけは一生懸命応えてくださっていますね。かみ合わないのが本当に残念です。 ただ Colorless green ideas sleep furiously. については誤解としか言いようがないとだけは申し上げます。無意味だと言って切り捨てはしません。逆です。なぜ、文法的なのにおかしく感じるのだろう、それも説明できないだろうか、という議論をしているのです。 繰り返しになりますが、生成文法では、 (1)文法的で、意味論的にも語用論的にも問題なく解釈できる文 (2)非文法的な文(意味は分かる文を含む) (3)文法的だが、意味論的・語用論的にどう解釈していいか分からない文 (1’)大きな犬が太郎にかみついた。 (2’)*大きな犬が太郎がかみついた。 (3’)#豆粒ほどの巨大惑星が、まばゆい暗闇にかみついた。 この三種類を、区別した上で、切り捨てることなく、違いをすべて説明したいのです。 >親GG派の言語学書でも、近頃は、言語普遍とは意味の事であると明かしているものも多いですね。 それこそ「偽物」の親GG派ですね。 昔の生成意味論です。 ああ、今の認知言語学は生成意味論から出発しています。 統語論中心の生成文法がいやで、意味論中心の認知言語学を始めたのです。 >直接話法や直接疑問の文を間接の其れに直すとか、その逆とかの、パタン・プラクティス的な変形の形式化は有用でしょうけれども、それどまりの GG では有りませんか。 Lexique Grammaireでも、生成文法でも、そんなことはしませんよ。 生成文法の論文を読まないのは一向に構いませんが、読まずに批判することだけはやめていただけませんか? さてこれにて失礼いたします。 またお会いできればいいのですが。
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- Biolinguist
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もうやめようと思っていたのですが。 >厳密・厳格な意味で申し分のない文法性を備えた文や文章と、文法性の度合いの低いのと、文法性ゼロのとが峻別されるべき、というのは理解できます。 違います。 Colorless green ideas sleep furiously. は統語的には完璧です。文法性は申し分ありません。 意味解釈上、日常言語から外れるというだけです。 ideas sleep の部分は選択制限で説明できるでしょう。 では、colorless green は? このように、統語論と意味論を分けて論じましょうと言っているだけです。 >意味構成体が入力として前提されるべきでは有りませんでしょうか。 当然です。 誰もそれを否定していません。 ただ、意味はしかるべき形に整えなければなりません。 そのしかるべき形に整える装置が文法であり、統語論です。 つまり、意味と統語は分けなければならないというのが生成文法の主張です。 >意味の入力を無視した、或いは、それの分析・究明なしの文法論は、有り得ないのでは有りませんでしょうか。 装置を研究するのに、それに入れる材料の研究は必ずしも必要ないでしょ? Colorless green ideas sleep furiously. だって、問題ない。 いや、もちろん、意味研究は必要だし、生成文法でもやっています。 無視なんかしていません。(これは声を大にして言いたい) でも、入力と出力装置は分けて考えることは十分可能です。 もう一度、声を大にして言います。 意味と統語は分離できるし、しなければならない。 しかし、この二つは同時に考える必要がある。 入力なしに出力はないし、出力装置のない入力はただのゴミです。 意味しか考えないなら、言語学ではなく、哲学的思弁的形而上学である。 意味と形式の関係を捉えなければ言語学ではない。 これで終わると元のご質問とは全く無関係なQ&Aになってしまうので、「意味と形式の関係」を無理を承知でやってみましょう。 まず出力形式。 XP(Topic) V YP(Comment) XPは何でもよいが、典型的には主語が来る。 しかし中には事象全体が新情報で、Comment としたいときもある。 このとき、XPは空欄でもよいが、言語によってはそれは許されない。 (この部分は統語論が担う) 多くのヨーロッパ言語は許さないので、仮置きの非人称を置く。 仮置きとは言っても、無意味ではないとも言える。 これから後に来るのは全部が新情報の Comment ですという予告になる。 次に、Comment 部分に情報をぶち込むわけだが、ここでも言語によって制限が異なる。 外項を背景化しなければならないなら、そのための操作が必要だ。 受動化しておくか。 語順はどうしよう。V NP のままでいいか、NP V とするか。 英語なら There was a man arrested. だが、他の言語では It was arrested a man. この辺の違いも統語論が担う。 最初のinitiatorも表現したいんだよね。 じゃあ、by NP をつけとくか。 自動詞ならどうする。動作だけを焦点化したいんだけど。 It was danced (in this hall). でよくない? ドイツ語はいいけど、英語は別に制限を設けちゃったから、それはちょっと勘弁して。 意味が入力でもいいですけどね、どうしても言えないことが出てくることがある。ドイツ語では言えても、英語では言えないことがなんと多いことか。 同じ意味のことでも言語によって言える・言えないがあるとしたら、あるいは表現形式が異なるとしたら、それは統語論の出番ですよ。
お礼
誠に誠に有難う御座います。モジュール概念の正当性は理解しております。(認知言語学派が間違っております。)が、TGG派にしましても、認知派にしましても、意味を、既存のコンピューティングの内容として表示や解釈する理論に、如何なる進歩らしい進歩が有りましたでしょうか。「生理言語学 = 機械論 はアウトでは?」なる問いに続きます。
- Biolinguist
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>1.生成言語学派は、THE postulate である、意味論的に不適格だが文法的に適格な文という notion からして偽です。; - "Do 'ideas' sleep, Dad? / What kind of ideas sleep, Dad?" - "Colorless 以下略." からも、『デカルト派言語学』中のチョムスキー自身の告白からも、そういう文が偽な文であって、有意味文の一種なことは、もはや明白です。 誤解があるようです。 チョムスキーが言いたいのは、 (1)文法的で、意味論的にも語用論的にも問題なく解釈できる文 (2)非文法的な文(意味は分かる文を含む) (3)文法的だが、意味論的・語用論的にどう解釈していいか分からない文 これらをきちんと区別しましょう、ということです。 あたりまえでしょ。 (1)大きな犬が太郎にかみついた。 (2)*大きな犬が太郎がかみついた。 (3)#豆粒ほどの巨大惑星が、まばゆい暗闇にかみついた。 (1)と(3)の区別がないと、詩的表現などあり得ない。 「面白い言い方をするね」というのは、大抵が統語的には何ら問題がないが、意味論的・語用論的に日常言語から外れているものをいう。 つまり、おかしな言い方、意味が分からない文には二通りあって、統語的におかしい非文と、意味解釈上おかしい文があって、区別しようよ、という至極まっとうなことです。 >2.三種の態を単純化・教条的図式化し過ぎておられます。: そりゃそうですよ。 こんな狭いスペースでそんな無茶を期待されても。 それならラネカーをお読みください。 Foundations of Cognitive Grammar, Volume I, II. Stanford, California: Stanford University Press, 1987/1991 Ten Lectures on the Elaboration of Cognitive Grammar. Leiden and Boston: Brill. 2017. Distinguished Lectures in Cognitive Linguistics. 認知文法論序説 / ロナルド・W・ラネカー著 ; 碓井智子 [ほか] 訳 東京 : 研究社 , 2011.5 >受動態+by+焦点 . の場合は、動作主も顕在的で、むしろ、強調されている位ですから。 う~ん、ちょっと違う。 談話の流れと前景化・背景化、エネルギーの流れと一緒くたにしてはいけない。 でもそれを説明していると、優に一冊の本になっちゃう。 ところで、ラネカーの認知文法だけが本物ですか? 構文文法とか、メンタルスペース理論とか偽物ですか? 個人的には非人称構文に関しては、構文文法の方が有効だと思いますがね。
お礼
またまた御回答を賜りまして、誠に有難う御座います。
補足
詩語の比喩的表現は、正気の表現か、狂気の表現か、見極めがきわどいものも有りますので、周縁的・例外的なものとして、「埒外」に置かせて下さい。そのうえで、前記の、Colorless が、まったく無意味ではなく、生成言語学の大前提がくづれ去ることを御認め頂きたく存じます。 つまりは、 外被的な意味 = 意味基盤 = (関口存男の)「意味内容」= 字面の意味 =(Wolfgang Wildgen の)LS (linguistic structures) = (Geoffrey Leech の)SS (shallow semantics) 上の意味 = sound-symbolic/phonosemantic な意味構成体の意味の統体 と、 中核・実質的な意味 = 意味上部構造 = 表現意図・「達意眼目」= (関口の)「意味形態」= (ヴィルトゲンの)CS (cognitive structures) = (リーチの)DS (deep-semantics) 上の意味 とを区別しませんと、それらを一緒くたにして、後者が well-formed なのに、前者が成ってないから、と言って、非文法的な文のクズカゴへ投げ捨てるとか、その逆を遣るとか、してしまう、というのが、批判の骨子で御座います。Colorless の例でも、後者は、嘘という表現意図 = 「意味形態」= 「達意眼目」・表現の裏の「考え方」 が、ちゃんとあって、有意味なのに、生成言語学では、切り捨ててあります。それでは、言語の本質的な所 = 言語普遍 を摑みきれないでしょう、と申し上げたいのです。親GG派の言語学書でも、近頃は、言語普遍とは意味の事であると明かしているものも多いですね。 確かに、直接話法や直接疑問の文を間接の其れに直すとか、その逆とかの、パタン・プラクティス的な変形の形式化は有用でしょうけれども、それどまりの GG では有りませんか。 御回答に際し、まともそうな認知言語学ならば、どんな概念装置を援用のために総動員して下さっても構いません、というのが、初めの問いの意図でした。舌足らずで恐れ入ります。 ただ、構文文法の「継承」は、そのまま、「適用文法」に似た「変形」と解釈することも出来ますので、TGGへの先祖がえりに過ぎないと思われます。或いは、構文レベルの、 ニュー・タクソノミー でしょう。 メンタル・スペースの圏論も、抽象的・形式的可能性を全肯定するか全否定するかするほかない可能世界論と大差ない、悪名高い「丸書いてチョン」の理論で、心の働きを捉え尽くせそうにないようです。 なお、下記を御高覧下さい。: https://forum.wordreference.com/threads/es-wird-von-gearbeitet-es-arbeiten.3607268/#post-18374820
- Biolinguist
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>反証されている偽な変形文法 「いくつかある変形文法の内、反証されている偽物の理論を除く」という意味なのか、「変形文法は反証されており、偽物の理論である」ということなのか、あいまい。 ちなみに、変形文法はチョムスキー以外にはいくつかあるが、いずれも反証されていないし、偽物でもないし、潰れてもいない。 たとえば、変形を最も盛大に使うのは、フランスの Lexique Grammaire であるが、辞書的な記述に徹しており、反証のしようがないし、実際非常に便利だ。 >真な認知文法 生成文法も「認知」を前面に押し出している。というか、認知革命を言語学で最初に起こした一人がチョムスキーだし。 なお、反チョムスキーの言語理論は「認知言語学」。 「認知文法」はラネカーの言語理論。一般には「認知言語学」の一種と見なされているが、真も偽もない。 認知言語学は全くバラバラで統一感がないところがいい。 同じ構文文法でも、Goldberg とCroft の Radical Construction Grammar では全く別物。 同じ比喩を扱っていても、Lakoff & Johnson と Fauconnier & Turner では全然アプローチが違う。 >1.能動、受動、使役の各態の違いと関係は如何なるものですか。 ドイツ語に限らず、大まかには同じ。 というか、同じ用語を使う以上、根本から違っていたら問題。 能動:エネルギーが動作主から非動作主に行く感じ。 受動:エネルギーの発生源が隠れているか、存在しないか、内発的 使役:エネルギーの発生源が被使役者を介して、非動作主に >次の3文の違いは如何なものですか。 正直なところ、あまりまともな研究はない。 特に非人称の意味や役割がそもそもよく分かっていない。 論文はいくつかあるが、私自身が説得力があるとはまるで思えないのと、ここでは認知文法の要である図が書けないので、諦めてください。 まあ、基本的には、エネルギーの流れをどうとらえるか、というのが問題だが、ドイツ語だけを考えるわけにはいかないのが現代言語理論のつらいところで、なかなかうまくいかない。
お礼
有難う御座います。
補足
お言葉を返すようですが: 1.生成言語学派は、THE postulate である、意味論的に不適格だが文法的に適格な文という notion からして偽です。; - "Do 'ideas' sleep, Dad? / What kind of ideas sleep, Dad?" - "Colorless 以下略." からも、『デカルト派言語学』中のチョムスキー自身の告白からも、そういう文が偽な文であって、有意味文の一種なことは、もはや明白です。 2.三種の態を単純化・教条的図式化し過ぎておられます。: 受動態+by+焦点 . の場合は、動作主も顕在的で、むしろ、強調されている位ですから。
お礼
またまた御丁寧な御回答を、誠に有難う御座いました。
補足
厳密・厳格な意味で申し分のない文法性を備えた文や文章と、文法性の度合いの低いのと、文法性ゼロのとが峻別されるべき、というのは理解できます。それでも、文法性度の低いのも、意味構成体が入力として前提されるべきでは有りませんでしょうか。意味の入力を無視した、或いは、それの分析・究明なしの文法論は、有り得ないのでは有りませんでしょうか。但し、生成語彙意味論や、概念意味論は、TGGの枠内のもので、TGGの前提を全て活かしているようですので、頂けませんけれども。