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三河に漂着した異人とは?著聞集から明らかになるその運命
- 承安元年に8人の異人が三河に漂着したという話が古今著聞集にあります。
- 漂流物事典の著者は、彼らがフィリピンあたりから流れ着いたと推測していますが、その実際の経路については議論が分かれています。
- 8人は三河の人々に弓を要求し、断られると襲撃したが、応戦されて退散したとされています。しかし、その後の彼らの運命については定かではありませんが、日本沿岸の無人島で一生を終えた可能性も考えられます。
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>台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡を果たして乗りこえるだろうか、と思うのですが、いかがでしょうか? 当時の外洋船は中国船のいわゆるジャンクが主体でした。 ジャンクの航海能力からすればバシー海峡が特段に難所だったとは言えません。 参考 ジャンク (船) - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ジャンク_(船) 抜粋 船体中央を支える構造材である竜骨(キール)が無く、船体が多数の梁と呼ばれる水密隔壁で区切られていることによって、喫水の浅い海での航行に便利で耐波性に優れ、速度も同時代のキャラック船・キャラベル船・ガレオン船と比べ格段に優った。 また、横方向に多数の割り竹が挿入された帆によって、風上への切り上り性に優れ、一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって、横風に対する安定性が同時代の竜骨帆船と比べ高く突風が近づいた時も素早く帆を下ろすことを可能にしている。 中略 10~18世紀に使われた大型ジャンク船は600~2000トンで、交易用に荷卸用の起重機や柴舟と呼ばれた浅瀬で用いる小舟などが搭載された。乗組員数は100~200人。 >台湾の部族の人間ではないかと思っております。 台湾というよりもそれよりも広義のマレー人(馬来人)の系統の人達でしょう。 中国人つまり漢民族であれば古くから知られていましたので古今著聞集の筆者も敢えて異人とは記載しなかったと思われます。 >その後、この8人の運命はどうなったと推測されるでしょうか? 何とも言えません。 >日本沿岸の無人島に漂着して、そこで一生を終えた、と推測しています。 三河地方から出航してたどり着く無人島とはどこのイメージでしょうか。 漂着民が再度外洋へ乗り出せる舟を手に入れることは難しかったでしょう。 ロビンソン・クルーソーのお話でもない限り何の装備も持たない人間が無人島で暮らすのは至難の業です。 彼等だけで生きながらえていたとすればむしろ三河よりも東の内陸部の方が可能性は高いと考える方が自然ではないでしょうか。 承安元年(1171)と言えば平清盛の時代です。 清盛は宋との交易で財をなした人物です。 当時の知識階級の人達はある程度の海外情報には精通していたと考えられます。 このような状況下で朝廷が敢えて探索の軍勢を派遣した記録がありませんのでトラブルもなく土着の人々に紛れて過ごしていたと考えられます。 蛇足 外洋航海術というのは古くから発達していました。 石鏃に使われる黒曜石も不純物からの推定で関東地方のものは伊豆諸島の神津島産のものでした。 つまり縄文時代後期には既に神津島と往来できるだけの航海術があったということです。 黒潮を超えて正確に神津島へたどり着くにはなまやさしい航海術ではありません。 伊豆諸島には弥生時代の遺跡が残っています。 稲作技術も近年は従来の朝鮮半島経由ではなく揚子江沿岸からジャンク船で渡来した人達が直接伝えたとされています。
お礼
そうですか。そんなに発達していたんですか。意外でした。それと、確かに漢人なら既に来日しているから、漢人と書いたでしょうね。なるほど。それにしても、今でこそ海の彼方には何があるかわかりますが、何が待ち受けているかわからない海原に乗り込もうとする男達の勇気には脱帽ですね。ありがとうございました。参考になりました。