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世界中の音楽で感じる哀調や悲しさについて知りたい
- イスラムやインドの音楽を含む世界中の音楽で感じる哀調や悲しさについて知りたいです。短調は聴いて悲しい感じがするものであるということは知識として知っていますが、なぜ哀調や悲しさを感じるのか、また、短調の音階に感動できる人とできない人の違いについても知りたいです。
- 世界中の音楽を聴いている中で、私はイスラムの音楽やインドの音楽、スペインのフラメンコ音楽など、哀調や悲しさを感じるものが大好きです。しかし、同じ琉球の音階であるはずの沖縄の島唄には哀調を感じず、奄美大島の島唄には全てに哀調があります。このような違いがあるのはなぜなのか、また、短調の音階に感動する人としない人の違いについても知りたいです。
- 私が哀調を感じ感動する音楽は全て短調なのだろうか、と疑問に思います。世界中の音楽を大雑把に、短調かそうでないかで分けられるのでしょうか。長調しかない国があるとしたら、その国で育った人々は短調の音階に感動できないのでしょうか。個人差があるとしても、その個人差の原因についても知りたいです。なぜ短調の音階が哀しさや悲しみを表現するのか、人の感情に最も訴えるのか、興味があります。
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全ての国の音楽を長調・短調に分けることは不可能です。 というのは、長調・短調と区分している理論が日本でいうところの西洋音楽、つまり12平均律の理論から成り立っているからです。そのなかの短調は二種類あります。 例えばイ短調。 ラシドレミファソラという音階と(1) ラシドレミファソ#ラという音階。(2) 1は理論上調号(#♭)が何もない音階ということで成り立つ音階 2は実際に演奏されるときの音階(弾くとちょっとだけラクダの香りがしますw) 西洋音楽(つまりはBachとかMozartとかBeethovenとかの音楽)だけを取り上げても、結構複雑。 ここから民族音楽の話になります。 日本国内の音楽の中でも琉球音楽とアイヌ民族の音楽は音階が違います。使われている音も違います。そもそもそれぞれに無い音も存在します。これはどこの国の話に置き換えても同じ様に言えるわけです。 で、悲しい風に聞こえるから短調とは言い切れない。表現をしていく上で、自国の音階を使った結果、他国の人には短調に聞こえる・・・かもしれないというだけで、本来はその国の持つ音楽理論上どちらでも構わないという曲だって多数に存在するわけです。 >>世界中の音楽を大雑把に、短調かそうでないかで分けられないですか? 出来ません。 >>私が哀調を感じ感動するこれら上記の曲は全て短調なんでしょうか そうだとは言えません。 貴方が感動する音楽を他人が理解しないから、同調しないからと言って、相手があなたを理解していないわけでもその音楽を受け入れていないわけでもないのでは?ずっと西洋音楽の12平均律の理論で学校で勉強してきた人たちにとって、他国の音階の無い音楽は全部「オリエンタル」で済ますことは悪い事じゃない。 さらに「短調だから哀愁があって私は感動する」という話とは全く別次元。 西洋音楽理論で育った人は短調もしくは無調の音楽を理解できないのか?という質問にも、「全くそういう事では無い」という回答を付けさせていただきます。 人が何かに心を動かされる要因は様々です。育った元の環境や知識はそこに含まれるでしょう。しかし、まったく初めての音楽でも感動することは否定できません。 長調しかない文化で育った人が短調を理解し感動することはあり得ないなどということは、絶対にないです。 個人差はあるのが普通。 そう思った方が音楽やそのほかの文化を理解することにおいて、重要なことです。 音楽に限らず、遺体の埋葬方法だって火葬や土葬の文化の人には、ミイラにしたり風葬にしたり鳥葬にするのはおかしいと感じるかもしれませんが、現地の人にとってはそれが当たり前で普通の事なのですから、理解できなくても受け入れるべきです。よね? 知り合いの人はたまたまその音楽に心を揺さぶられなかっただけで、相手がものすごく「これ好き!」っていう曲をあなたが聞いて(尚且つそれがあなたの好きな短調に区分されていると仮定して)「私はちょっと別に・・」という感想を持たないとは限らないでしょう? 趣味嗜好に関しては、それに理由などありません。てか、それを語っていくことはもう…哲学的な話になってしまうし、それらを矯正することも不可能。 何しろ遺伝子レベルで組み込まれていると言ってもおかしくはないのです。 だから、あなたの言うとおりに、長調で育った人には短調を受け入れられないかもしれない。しかし感動を与えることは可能である。 というのが私の回答になります。 長くてすみませんでした。 これでも八割カットしています。
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- aouehou
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補足
長い回答ありがとうございます。もっと長くてもいいですよ(笑)。書かれなかった8割も聞きたいですね。 人間の性格は千差万別ですが、それが何故そうなっているのかを「性格学」で勉強して来た人間ですので、その「個人差」というのをもうちょっと解剖してみたいわけです。 今までに色々経験をしております。音楽に対する好みの差は、料理に対する好みの差にも匹敵する不可思議なものだと感じています。 食文化の差と一言で片付けるのは私を知的に満足させてくれません。 子供はなぜ誰でもピーマンを嫌うのか?というのは、子供の時はピーマンに含まれている物質を感じる細胞が存在していて、その細胞がピーマンを不快な味と認識するので嫌うのだと説明されたのを読んだ時は納得しました。この細胞は大人になるに従って消滅するのだそうです。 そこで、アングロサクソンの料理が何故マズいのかなども、アングロサクソンの舌に存在する味蕾の数がアジア人に比べてかなり少ないとか、白人の30%は味蕾盲であるとかの科学的な話を聞くと納得できることになります。 単なる食文化の差で片付けてしまうのは理科系の私には出来ません。 味に対する差を個人差、文化の差で片付けてしまう人は非常に多いです。 しかし、その差をちゃんと調査して説明している科学者もいます。 音楽ももうちょっと科学的に説明してくれる人がいれば助かるんですがね。 私の知り合いのスペイン人は日本の演歌が大好きです。誰でもというわけではなく、鳥羽一郎が大好きでその中で「志摩半島」が特別いいと言って紹介してくれました。私も聴いてみて一発で感動しました。しかし、人気のある黒人演歌歌手のジェロは全くダメだよと言いました。私も常々そう思っていました。 そして、スペインのフラメンコを紹介してくれました。彼が紹介するフラメンコはなかなか哀愁に満ちていて私も感動しました。 しかし、私の妻は外人なんですが、私が好む演歌に全く感じません。 世界中の音曲で一番好きなのは、インド音楽だと言ってもいいくらい私はインド音楽のあの哀調が好きなんですが、日本人で私の知り合いなどに聴かせると皆、顔をしかめますね。私の妻もそのうちの一人です。インドの数億の民が愛するインドのメロディーは日本人にとっては顔をしかめるしかないほどのもののようです。しかし、一人だけいました。インドの曲を聴かせると「いいなあ・・・」と極まったような表情で聞き入っていました。しかし、彼は例外中の例外です。少なくとも私の知り合いの日本人の中では彼一人です。 沖縄には7年住みましたが、耳にする伝統的沖縄音楽には何も感じませんでした。しかし、たまたまNHKから流れて来た、中野リッキーが歌う奄美の島唄、ムチャカナ節を聞いた時、初めて接した奄美の民謡で意味も全くわからないのに、悲しくて々々、涙がボロボロ出て来て止まりませんでした。その時、何か精神的問題を抱えていて特に心がセンシティブであったということではありません。それがきっかけで、奄美の島唄を色々聴いてみると、全てに共通する「哀調」というものがありました。この哀調が私を感動させるのだと分かりました。沖縄の島唄はなぜ感動しないのか?沖縄の島唄は、基本「宮廷音楽」であり、奄美のそれは「民衆」の生活から生まれたものであるという違いが分かりました。音階の違いについては分かりません。 ヨーロッパでは夏は色々音楽の催しがあります。リズムのある曲が演奏されると、多くの観客は体を揺すって乗って来ます。しかし私はそういう気になりません。リズムだけあったてメロディーが全く凡庸だからです。 しかし、南米ペルーのアルボラダだとリズムのある曲を演奏すると、体が自動的に反応してじっと出来ません。彼らの曲には哀調があるからです。 ヨーロッパではヨーロッパ人と自分との違いを感じました。 自分が感動するものの正体が知りたいです。単に「短調」に感動しているわけではないとすると、短調以外に「哀調」を作り出す要因は何なんでしょう? ファドとかシャンソンのエディピアフなどは、細い声で如何にも悲しそうに歌っているとは想像するのですが、私は全く哀調を感じないのです。 私に彼らの哀調を感じる音楽の「味蕾細胞」がないからでしょうか? 私はアルコールを美味しいと感じることが出来る細胞が、私の舌にはありません。従ってどんなに美味しいとされているワインも、私には只のマズい液体に過ぎません。 私が哀調を感じ感動するオリエンタルな音階を、私の妻や大部分のヨーロッパ人が感じることが出来ないように、私もポルトガル人が感動するファドに含まれている特殊な音階に反応することが出来ないということでしょうか? 推論でも、想像でもいいですから、何かコメントを頂けたら私の理解が深まると思います。宜しくお願いします。