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壁に向かう
おはようございます。 「壁に向かって、坐禅する」 外国人が、そうしている映像も見ました。 【訊きたいポイント】・・・「壁に向かう。敢えて、そうするのは、何故でしょう?」 宜しくお願い致します。
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- Mokuzo100nenn
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日本人もそうしているからでしょう。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
見えているという事は、見えていない事が 分かっていない事です。 そうした誤った入力が断たれる事で、ふだん 不明瞭になっていた環境と自我の境界が明確 になり、相補的に生じている錯覚が顕在化する。
お礼
psytex様、ご回答ありがとうございます。 >「ふだん不明瞭になっていた環境と自我の境界が明確 になり、相補的に生じている錯覚が顕在化する。」 ・・・あれ、今回のご質問は、「(敢えて)壁に向かう」でありました。 「壁」は多分見えていて、でも >「見えていない事が分かっていない事です。」 >「そうした誤った入力が断たれる事で、ふだん 不明瞭になっていた環境と自我の境界が明確 になり、相補的に生じている錯覚が顕在化する。」 「誤った入力に基づく「錯覚」」が、 それまでは、「錯覚」とは認識されていない、 ということですね。 テレビでサッカー見て、アレコレ自分なりに思って居ましたが、 ある日、「中学生のサッカー教室」を見たら、目からウロコでした。 「サッカーって、そういうものだったんだ」って。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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辛抱強いことを面壁九年といいますよね。 中国南北朝時代、達磨大師が嵩山の少林寺に籠こもり、九年間壁座禅した故事ですね。 世間を捨て雑念を去り、自己の中に入るためですね。
お礼
krya1998様、ご回答ありがとうございます。 >「辛抱強いことを面壁九年といいますよね。」 少なくとも、自分は使いませんし、多分、言われても判りませんでした。 >「中国南北朝時代、」 西暦で300~500年代くらいですか >「達磨大師が嵩山の少林寺に籠こもり、九年間壁座禅した故事ですね。 世間を捨て雑念を去り、自己の中に入るためですね。」 「石の上にも三年」とは、ニュアンスが、かなり違うようです。
- doraneko66
- ベストアンサー率11% (535/4742)
追記、人それぞれで言えば 例えばその向きに家族がいるとか、故人の眠るお墓の方向やら何やら、その人それぞれに理由があり、それを何でだろう?って思うなら本人に聞くしかないですね。 本人に聞くまでに至らないなら、人それぞれだろうと考えて、あまりそこにとらわれる意味はないかと思います。 自分自身に意味があれば良く、他人の意味を考えても答えを出すのは難しいと思います。
お礼
doraneko66様、ありがとうございます。 「座禅」なら、人それぞれ、好き好きに、ということで。
- koosaka
- ベストアンサー率43% (78/179)
曹洞宗は「面壁」と言って、禅堂の壁に向かって坐禅します。 それに対して臨済宗は禅堂の内側に向かって坐禅します。 その外国人が、「壁に向かって坐禅する」としたら、曹洞宗の座禅法です。 私の場合、昔禅の修業をしましたが、臨済宗でしたので、僧侶はみんな禅堂の内側に向かって坐禅しました。 そして曹洞宗は始祖・道元が、当時の「公案禅」の流行を嫌って、「只管打坐」を唱え、座っている姿がそのまま「悟り」と言いいました。 私の場合は臨済宗だったので「公案」を用いました。 中国の名僧・趙州禅師の「無字の公案」をいただき、参究しました。 「無字の公案」とは、姿・形のない文字を見て来なさい、という問題です。 その他に日本の白隠禅師の「隻手音声」という公案もあります。 片手で鳴る音を聞いて来い、という問題です。 その問題が解けたら、「悟り」と言われました。 でも、同僚の僧から、「悟りを啓きたかったら、出家して、良い師家について、少なくとも10年間、毎日毎日座禅して、禅問答をしなければならない」と言われ、私は出家するわけにはゆかなかったので、修行を途中で諦めました。 あなたは「壁に向かって坐禅する」のはなぜですか?と質問していますが、別に理由はありません。 たぶん、臨済宗と区別するためかもしれません。 内に向かって坐っても、外に向かって坐っても、目は半眼で、しかも、少し頭を下向きに座っているので、いずれにしても、他の座っている僧侶は見えませんからどっちでも同じです。
お礼
koosaka様、ご回答ありがとうございます。 >「「壁に向かって坐禅する」としたら、曹洞宗の座禅法です。」 なるほど。 >「別に理由はありません。」 壁に向かわない座禅も、あるんですね。
- doraneko66
- ベストアンサー率11% (535/4742)
それは個々によって意味が違うでしょう。 外国人となるとまた別に考えがあるのか はたまた見たままのことを意味しているのか。。。 己の壁に向き合っている、己の中で乗り越えたいものに向き合っている 敢えてではなく、たまたま壁だった 壁の方が集中出来る 何かの神がいる向き とかとか 理由や意味は人それぞれではないでしょうか。
お礼
doraneko66様、ご回答ありがとうございます。 >「理由や意味は人それぞれではないでしょうか。」 なるほど。 あれを何らかの「メソッド」として捉えると、 「どうして?」となるのであり、 「人それぞれ、好きで、そうして居るんだから」ということでは、 個々の問題ですね。 >「何かの神がいる向き」 あ(笑)。「イスラム教の方は、こちら」って、 親切な宿も、あったりするんですよね。
一度、座禅会に参加するといいです。知識だけでは。 壁に向かうというよりも己の心に向かっているんですけどね。 ある禅宗の本山で参禅したことがありました。夏休みに7泊8日。60名近くいたかな。10数年前だったけど。修行僧の体験版。最初の1、2日がきつかった。
お礼
kamodapoo様、ご回答ありがとうございます。 ・・・どうして、「壁に向かう」のでしょう。 壁に向かわない坐禅会の映像も、見たことは有ります。 >「壁に向かうというよりも己の心に向かっているんですけどね。」 ・・・壁に向かって居ると「自由」に成れるんでしょうか。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
1。 【訊きたいポイント】・・・「壁に向かう。敢えて、そうするのは、何故でしょう?」 仏教で、静座して沈思し心性を究明する修行の方法だからだそうです。 http://cjjc.weblio.jp/content/%E9%9D%A2%E5%A3%81 http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2017/0616.html https://www.google.co.jp/search?q=%E9%9D%A2%E5%A3%81&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiE8YTT6evVAhWFYiYKHbP_CwAQsAQITA&biw=1920&bih=783 2。お釈迦様はなさらなかったようですが、有名なのは中国から見れば「外国人」の達磨の「面壁九年」があります。この修行法の始祖は達磨とも言われています。
お礼
SPS700様、ご回答ありがとうございます。 ふーん。 「社会とか俗世とかに背を向けて(というか、目をそらして)」という意味では、なかったのでしょうかね。 (!)「仏教と「禁欲」」という、新しいテーマが浮かびました。 またいつか、ご質問すると思います。 ありがとうございます。
お礼
Mokuzo100nenn様、ご回答ありがとうございます。 「郷に入っては、郷に従え」、 日本人も、もっと海外旅行へ行けば、賢くなるかなあ。