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内包による善の定義とは?
- 内包と外延という方法を用いて、善の定義を考えることができる。
- 内包は「正しいことの本質」を求めることであり、外延は「正しいことの現象」を意味する。
- 善の定義は「私より公を優先すること、つまり公の為である」となる。
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例えば、思いやりがある、正直である、人助けをする、正義感がある、人にやさしい、慈悲心がある、公平であるなどなど、これらが外延。 これら外延に共通するもの、それこそが正しいの意味であり、正しいの定義であり、正しいの本質なのである。つまり正しいとは何かの答えなのである。
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- magga
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正しいとは尺度であり、正しいこととは尺度の元となった目的や方向に向かうことであると考えます。 まず、目的があり、それにかなう行為か否か。 《どこかおかしいところはあるだろうか?》 正しさの本質、つまり目的がわからないが、それに向かう行為の正しい行為をこれが正しいとあげられるというところに矛盾を感じます。我思うゆえに正しいという個人個人の信仰としての正しい行為を上げることは可能でしょう。にしてももっと混沌としたそれぞれが矛盾を孕むものとなるでしょう。目的によって正邪はいかようにも設定をされますから。 憶測ですが、今回の思索で、貴方の目指す、目的としての「私より公を優先すること」が、我思う正しい行為をあげて共通点を洗い出すことであらわになったということではないでしょうか? 故に、貴方の目的である「私より公を優先する行為」の中で、公の為にならないものはありません。論理的には。 私の憶測思索が貴方の思索に役に立てば幸いです。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
- kurinal
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こんにちは。 >「私が知りたいのは「正しいこととは何か」である。正しいこと、つまり善の定義である。」 「宗教的に「これが正しい」とされたことを、全然疑わない」のであれば、それが「善」なのでは。 >「正しい行為(外延)で公の為でないものが何かあれば教えてもらいたい。 」 例えば、「人権を無視する「功利主義」」では、 仰る「思いやりがある、人助けをする、愛情がある、人にやさしい、慈悲心がある」などは、 全て「公」に反するものに成りかねないと思います。
お礼
コメントありがとうございます。 >「宗教的に「これが正しい」とされたことを、全然疑わない」のであれば、それが「善」なのでは。< 宗教的ではなく論理的に善の定義をしたのです。ですから私の定義を否定するなら正しい行為で公の為でないものを示してください。そうすれば私は間違っていることになります。
- 雪中庵(@psytex)
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まず、人の生きる目的を明確にせねばならない。 お金や出世といった社会的な二次的な価値が目的ならば、そうした外的他律と自己の充足感は一致せず、短絡的充足の追求と社会的必然は相反するものとなり、善悪は生じる。 しかし、認識の深まりにおいて、自己の社会生命性を自覚化し、自律的に社会行動をとる(助け合いとしての労働)ならば、生きること自体が充足となり、人の生きる上での唯一の価値基準は、人生を通算した精神的な充足量の最大化に統一される。 「善悪」自体、自己中心的に陥りがちな認識を、社会性のタガにはめるために派生した必要悪に過ぎないのだ。 深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。
お礼
長いコメントありがとうございます。 哲学は素人なものでもう少し分かりやすい文章でお願いします。 >善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。< これはあなたが思う善悪であり論理的に導かれたものではないでしょう、ただの自分の考えだけです。 今ままでは皆さん、善の意味を各自ばらばらで使っていますが、私は善を統一したいと考えたのです。ですから論理的に善の定義をしてみました。 ですから善、つまり正しいの定義は私より公を優先する、公の為が善の定義であると言っているわけです。 ですから私の定義が違っているというなら、正しい行為で公の為でないものを指摘してください。
- hekiyu
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言葉を置き換えているだけ、という感じが します。 例えば、公の為が正しい、としていますが、 その公が間違っていた場合はどうなるのでしょう。 つまり、質問者さんの定義は、正しい、間違い、ということを定義して いないことになります。 それとも公は必ず善だ、という根拠でもあるのでしょうか。
お礼
返信ありがとうございます。 >例えば、公の為が正しい、としていますが、その公が間違っていた場合はどうなるのでしょう。< 公の為が正しいというより、私欲を抑えて公の為にと考える事が正しいことであると言っています。 マザーテレサのように私欲を捨て他人の為に尽くす人を善人という。ですからすべての正しい行為、善は公の為という要素がなければならないと言っているわけです。
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お礼
コメントありがとうございます。 私は目的があって善の定義をしているのではありません。 皆さんに正しいとは何ですかと質問しても誰も答えてくれないのです。 あなたは自分の投稿は正しいと思って投稿しているのでしょう、では正しいとは何ですか?分からないでしょう?多くの人は自分が考えたことが正しいと思っているのです。 しかし、そんなバカなことはないでしょ?神ではないんですから。 私は純粋に正しいとは何かを探求して、私より公を優先すること、つまり公の為となったのです。正しい行為はすべて公の為が含まれているのです。私が間違っているなら論理的に否定してください。正しい行為で公の為でないものを示してください。