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日本書紀や古事記の原本は焼失したのですか。
写本しか現存していないということは、原本は、おそらく火災により焼失したものと思いますが、焼失したという日記などの記録はあるのですか。 それとも焼失以外の原因ですか。 よろしくお願いします。
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kouki-koureisya さん、こんばんは。 「原本」というのは、古事記で言えば和銅4(711)年9月、元明天皇の命で「太安万侶が記述編纂したそのもの」という意味で使いました。 この原本は、平安時代、御所は度々燃えたので、おそらくそのとき焼失してしまったのでは、という疑問です。 貞観8(866)年応天門の変、延長8(930)年清涼殿落雷、天徳4(960)年内裏焼亡、特に村上天皇の天徳4年の内裏焼亡により、三種の神機の八咫鏡が焼亡したそうですから、村上天皇のその後の譲位しようとしたくらいです。 たぶん、何回かは焼けているでしょうけど、バックアップというか、一応原本をもとにした本があるようです。ほとんどは宗教関係みたいですね。書写本みたいなものかもしれませんね。あるいは木版かもしれません。古事記にもいくつか写本が伝わります。 日本書紀下の方に現存本 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80 古事記 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
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- 441moe
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焼失した記録はないはずです。 学者の説で、前文に13世紀以降に使われた日本語表示が有るので、 前文のみ13世紀に追加した説 古事記全てが13世紀に作られた説があります。 でも13世紀に複写した時に見ていた物は発見されていません。 天皇家が千数百年続いたのは事実ですが、 3王朝、5王朝、7王朝交代説のように途中で、全く別の部族が天皇になった可能性も高く、内容を書き換えて、昔からの物とした可能性あります。 中国・韓国にでも残っておれば参考になるでしょうが、現時点で発見されていません。 考古学は、事、邪馬壱国に限って言えば、近畿説、九州説いずれかが、叉は双方ともが間違っており、東大・京大多々教授も、実はただの嘘つきオジサンかオバサンなのです。 魏志倭人伝には邪馬壹国としか書かれていないのに邪馬台国と呼ぶのが主流です。 一次資料を改竄する科学的学問はありません。 そのような業界である前提で読んで、楽しめば良いでしょう。 当時生きた人は現在この世にはいないので、信憑性高い事実を拾う以外ありません。
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再度のご回答ありがとうございます。 タイトルの「日本書紀や古事記の原本は焼失したのですか」の答えとしては「分からない」 が正解だと思います。 ただ、それだけでは歴史を楽しむことはできないので、原本が焼けてしまったのか、故意に焼いたのか、盗まれたのか、扱いが粗雑で朽ち果てたのか、いろいろ想像したのですが、私一人の想像では限りがあるので、質問しました。 古事記序文は後世の作という説は、雑誌で読んだことがあります。 しかし、「古事記全てが13世紀に作られた説」は知りませんでした。 いつも、ふと思いついたことをよく調べもせずに質問しています。 身勝手な考えですが、質問を楽しんでいます。 今後ともよろしくお願いします。
- 441moe
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わかりません。 焼いた可能性、13世紀に作った可能性もあります。 現在原本と思われる物が発見されていない事しかわかりません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >現在原本と思われる物が発見されていない事しかわかりません 確かに、仰るとおりです。 思わぬところから原本(その一部でも)が見つかる可能性はゼロではないですね。 >焼いた可能性、13世紀に作った可能性もあります。 そんな可能性があるのですか! も少し詳しく教えていただけませんか。
- ithi
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kouki-koureisya さん、こんにちは。 古事記や日本書紀の原本はどうなったのですか、つまり、直接のきろくである「帝紀」・「旧辞」ですが、天武天皇の時代になって、完成しました。編纂者は川島皇子、刑部皇子です。しかし、天武天皇の死後、彼らは持統天皇が上皇になった後も不遇の生活をつづけました。刑部皇子の屋敷は火災にあったようで、その時に燃えてしまったという可能性から、いまだに古い時代に散逸しているという考えに基づく学者もいるようです。 刑部皇子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E5%A3%81%E7%9A%87%E5%AD%90 川島皇子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E7%9A%87%E5%AD%90 帝紀 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E7%B4%80 旧辞 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E8%BE%9E
お礼
ithiさん、こんばんは。 再度のご回答ありがとうございます。 私の質問文が拙かったです。お手を煩わして申し訳ございません。 「原本」というのは、古事記で言えば和銅4(711)年9月、元明天皇の命で「太安万侶が記述編纂したそのもの」という意味で使いました。 この原本は、平安時代、御所は度々燃えたので、おそらくそのとき焼失してしまったのでは、という疑問です。
- yuseikamen
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日本書紀や古事記のみならず万葉集も、源氏物語や枕草子も、 原本や著者自筆原稿などは残っていません。 最も有名な書である聖書に関しても原典はこの世に有りません。 紙に書かれたようなものは年とともに虫食いにあったり 朽ち果てたりして失われ写本しか残らないものです。 また後世、歴史書なんて時の権力者に都合の悪いことは 削除されたり加筆されて原本は人知れず破棄ということも 有るのでしょう。 だから写本によって微妙に内容が異なりますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 長期保存できないような紙質であった可能性は低いです。 正倉院文書には8世紀の帳簿類が多数保存されています。 正倉院以外でも奈良時代に書かれた「光明皇后発願一切経」の一部が現存しています。 また、「日本書紀」の最古の写本(一部)は9世紀のものです。 >また後世、歴史書なんて時の権力者に都合の悪いことは削除されたり加筆されて原本は人知れず破棄ということも有るのでしょう。 『記紀』の原本もそのようなこと(破棄)が行われたのでしょうか、という疑問です。
- ithi
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kouki-koureisya さん、こんばんは。 日本書紀と古事記についてですが、その成立前に620年ころに天皇記、国記というのを聖徳太子と蘇我馬子が編纂させたというのは記紀に書かれています。 しかし、大化の改新の時に天皇記は蘇我氏の館で焼かれ、国記は焼きだされたものの、行方は不明。なので、その事業のやり直しという形で、古事記や日本書紀ができたという事です。そのうち古事記は天皇記・国記と同時期に作られたといわれる帝紀・旧辞を稗田阿礼という人が暗記していた記録を太安万侶が記述編纂しています。 国記 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A8%98 天皇記 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%A8%98 日本書紀 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80 古事記 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
お礼
ご回答ありがとうございます。 620年ごろに成立した天皇記、国記は、大化の改新で行方不明になったということは分かりました。 古事記や日本書紀の原本はどうなったのですか、という疑問です。
お礼
的確なアドバイス、真にありがとうございます。 村上天皇の天徳4年の内裏焼亡を調べました。 ネットで検索しただけですが、 「宜陽殿の累代の宝物、温明殿の神璽鏡・太刀・節刀・契(印の一種)、春興・安福両殿の武具、内記所の文書、また仁寿殿の由緒ある器物はみな灰塵となった。 内裏の全て建物が焼失した。平安京遷都後初めての内裏焼亡であった。」そうです。 ここに“内記所の文書”とあります。 『記紀』が御所のどこに保管してあったのか知りませんが、内裏の全ての建物が焼失したとすれば、この大火で『記紀』が焼失した可能性があります。 もちろん、誰かが持ち出していたかも知れません。 ふと思いついた疑問でしたが、ほぼすっきりしました。