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禅の修行について
私は、臨済禅の公案の世界に興味があるんですが、 坐禅せずに公案だけに取り組むというのは 禅の修行としてありですか? みなさんの意見を教えて下さい。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
読書で思索するなら、よくやりましたよ。禅の本で。 しかしこういうものは感じとるという事が不可欠ですね。 実際の先達や偉い人から。 そして実際にその場になって体をそう決めていくことが。 禅書を読むだけなら、思うだけです、考えるだけです。 それではただ感心するだけ。 ならなければいけませんからね。 先輩や先達さん、できている人。大事ですね。
- sunabo
- ベストアンサー率35% (24/67)
やっぱ座んないとダメでしょ。だから禅の修行としてナシです。 参考URLの本は禅の公案のカンペです。おもしろいかも。
お礼
やっぱ、だめですか、ありがとうございます。
- koosaka
- ベストアンサー率43% (78/179)
昔、若いときに禅の修業をしたことがあります。 鎌倉の浄妙寺という禅宗寺院で、故・安谷白雲老師に師事して、参禅しました。 師家は故・原田祖岳という大正・昭和の名僧の遺鉢を継ぐ人で、その禅風は曹洞宗と臨済宗を折衷したもので、座るときは面壁で曹洞宗と同じ、そして公案を用いるところは臨済宗と同じでした。 当時は鈴木大拙の英文の禅の本が世界的なブームを引き起こしている頃で、私たちの禅の会にも、外国人がたくさん押し寄せて、国際色豊かでした。 朝から夕方まで座禅三昧、途中、昼食を挟んで、老師から提唱があり、当時は臨済禅師の「臨済録」をテクストに講義がありました。 そして午後3時頃から、参禅が始まり、いわゆる一対一の禅問答が行なわれました。 私の場合、初心者でしたので、座禅のしかたなどを親身に教えてもらいました。 本格的な善問答はしていません。 公案としては、中国の高僧・趙州禅師の「無字の公案」をいただき、参究しました。 姿・形のない文字を見て来なさい、という問題です。 それが解けたら「悟り」と言われました。 この他に日本の禅僧・白隠禅師の「隻手音声」という公案もあります。 片手で鳴る音を聞いてきなさいという問題です。 禅の公案というのは、いずれも無理難題で、合理的・理性的に考えたのでは解けない問題ばっかりです。 禅は、知を越えて非・知に至る、分別を越えて無分別に至る、というものですから。 しかも「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」がモットーです。 その意味は禅は、文字によらず、経典によらず、経典とは別に人の心と心で直接伝え、しかる後、自性を空と知り、成仏する、というものです。 そして、私が同僚の僧に尋ねたところでは、「悟り」を得たかったら、出家して僧侶になり、しかも毎日座禅して、良い師家と禅問答をして、少なくとも10年間は修行をしないと「悟り」は得られないといわれました。 で、私は出家して僧侶になるつもりもないし、しかも10年以上修行するのは苦しいので、それでやめました。 しかも、同僚の僧に聞いたところでは、「悟り」を判断するのは師家の役目であり、本人には悟ったかどうか分からないということでした。 一対一で禅問答をして、師家がその反応を見て、この男は悟ったと分かるので、本人には分からない、と。 で、あなたの質問ですが、「坐禅をせずに公案だけ取り組む」というのは、もちろん、アリです。 禅の公案集としての語録がいっぱいあります。 「無門関」「臨済録」「碧巌録」「従容録」など。 しかし、それを禅の修業とは言えません。 公案に取り組むだけでは、「悟り」は得られません。 坐禅して、参禅し、師家と一対一で禅問答をしなければ「悟り」は得られません。 坐禅だけだと、健康法にはいいと思いますが、「悟り」は開けません。 実際の禅の修業した私から言うのですから、間違いありません。
補足
ありがとうございます。 う~ん、やっぱダメですか。 坐禅をするとお腹が痛くなったり、めまいがするので 正直、あまりやりたくないです。
お礼
ありがとうございます。