あくまで私の個人的な考えですが、この問題は「人を外見で判断してはいけない」と教えてしまった為の矛盾です。
そして、人に迷惑をかけなければ何をしてもいいと思っている子が増えているために出てきている問題です。
社会に出れば「人はまず見かけで判断する」し、生徒も意識的かどうかは別にして外見での判断は行っており、それは当然のことです。
この、人の見極めは自己防衛本能のようなものであり、危機管理の一種でもあると思います。
ちなみに私は身なりからの判断だけでなく顔も見ます。顔は生まれつきのものですが、その人の心は顔にずいぶん表れると思っています。
話は脱線しましたが、自分が自由にする(茶髪にする)ということは、そのことで自分がどう見られようが構わないということです。
自分の意に添わない評価をされることもあるのです。
他の回答者の方が言われているように、茶髪が原因で悪い者に目をつけられたり、何かトラブルに巻き込まれることもあるでしょう。
「そんなのは実際になってみなければわからない」という考えは正してやるべきです。危険性があるのなら近寄らない。基本と思います。
生徒は「俺はそれでいいから染めたい」と言うと思いますが、それは学校という学びの場では主張することのできない自由です。
ルールというものの意味を教えてあげて下さい。
他の人間がルールを守っていることによって、自分が守られているということです。
交通ルールを考えてみればわかりやすいと思います。
学校の校則はそれを破ったからといって誰かが傷つくというものではないかもしれません。しかし、それすら守れないで他のルールが守れるでしょうか。
自分を律する訓練の意味で校則があるのではと今は思います。
注意せずにそれを肯定してしまえば、その子は一生気がつきません。
私も先生に注意された時は「ちくしょう」なんて思いましたが、今では良かったと思っています。
言い方は悪いかも知れませんが「悪法もまた法なり」です。
そして悪法に疑問があれば、それを適法に変えていくのがスジと思います。
お礼
私自身が異質なものを排除する心理と思っていたので、歴史的背景などより納得するところがありました。ありがとうございます。もし、学校で子ども達が、この質問をしてきたらどう答えればいいのでしょう?本能を否定するほど説得力のないものとして毅然と否定すべきなのでしょうか。できれば、子供達にも納得させたいです。その辺の回答もできればお願いします。