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徳川吉宗の葬儀の様子を教えてください

徳川吉宗の葬儀の様子はどのようなものだったのでしょうか? 徳川吉宗の葬儀の様子について教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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  • oska2
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回答No.2

>徳川吉宗の葬儀の様子について教えてください。 「神君快晴紫雲録」より抜粋。 [葬列]  6月10日、午後4時ころ棺を御息所(みやすどころ)から、庭に下ろした。ご用係り、役人がこれを受取り、それから行列は山里御門、吹上大道通り、矢来御門までの間を、畳幅3間を通りに敷きつめ、その上を棺を引いていった。表の土間に手子とんびの者200人が詰め、ろくろで巻き上げる。矢来御門までは公方徳川家重、大納言、及び奥女中が棺に付き添い、奥から矢来御門まで、手子とんびの者頭分27人が取り直し、御門外から上野までは、200人のとんびがこれを担いだ。このうち100人はおかごの者、黒くわ等の軽いご扶持ち、また100人は御用聞き、町人願いの当日召し抱えられたものたちによって棺が担がれた。この200人はサラシ帷子一重、麻黄麻上下一具ずつをつけ、かつぎ棒はひのき製で長さが9寸である。  担ぐ者は無言で、道を回るときは拍子木を打って合図する。棺のなかには、ホウレイ綿におよそ4斗7升の朱が混ぜられている。大変な重量のため、筋違橋御門外より担ぐ人の息遣いが荒くなり、上野黒門前でしばらく休憩して、それから上野へ入った。この槨(棺を納める外枠)のなかに寒水石(結晶質石灰岩)が詰められ、その石ひとつひとつに法華経の文字一字ずつがかかれ、その数およそ6万5千という、このすきまには石灰が入れられている。このなかに入る黄金は11箱、ほうれい綿6駄(一駄は36貫)という。 石槨の蓋石に刻まれた銘文 「貞享元年甲子10月21日誕生、在位凡30年、辞職7歳寛延4年辛末(宝暦元年)6月20日斃、68、勅贈太政大臣一位、賜號有徳院、葬于東叡山(寛永寺)、従五位下守大学頭藤原信充拝書」 余談ですが・・・。 遺言により霊廟はつくらず、綱吉の廟に合祀された様です。

noname#224700
質問者

お礼

丁寧な御回答ありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.3

徳川吉宗は寛延4年6月18日頃から具合が悪くなり、翌19日に危篤となり、20日朝8時頃に亡くなりました。 真っ先に決まったのはコンサートや新築の中止で、この辺は昭和天皇のときと一緒です。 23日には大葬担当として大岡越前守忠相以下8名が決まります。 27日に大葬の概要は享保5年に吉宗が定めたとおりに執り行うことが発表されます。 翌閏6月10日(この年は閏年で本来の6月の次は7月ではなく閏6月でした)、朝早くに霊柩は皇居新宮殿を発し、諸大名群臣を引き連れ宮中三殿付近を通過します。 ここから天守閣跡を眺めつつ北の丸公園に進入したところで葬列は一時停止し、上野の山から坊主が迎えに来るのを待ちます。 坊主と合流してから葬列は再出発します。進路を大きく右に変えて、竹橋門、一ツ橋門を通過し、神田錦町、内神田界隈へと進み、小川町交差点を右折、靖国通りを東進、さらに淡路町交差点を左折します。スタバ、藪蕎麦を右手に、ホテル聚楽を左手に眺めながら進み、神田郵便局付近の筋違橋門から総武中央線下を秋葉原駅方向に進み、マツキヨ横で左折します。ここは左折しか出来ません。あとはまっすぐ北上し、上野恩賜公園へと入っていきます。 ヤクの売人を振り払いつつ、京成上野駅と西郷像の間の坂を上っていき、東照宮へと至ります。 江戸城からここまでの道中は諸大名の家臣が提灯を持って居並び、警護を兼ねて見送りました。

noname#225033
noname#225033
回答No.1

誰も見た事がありませんから誰もわかりません。 知ったか回答で良かったら、ググって簡単にコピペ回答ができますが いかがでしょうか?

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