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ヒトへの捉え方の変化と日本の人間関係
- ヒトへの捉え方が変わる瞬間とは、知り合いや上司などを押したり踏んだりした時のことである。
- グループは、個々の人よりも物理的なスペースと音響空間を多く占める。
- 日本では人間関係を築くことが人としての認識の起点となる。
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以下のとおりお答えします。 (お訳は、ほぼ完璧な訳文と拝察いたしました。) >The sudden shift in perception, from object to person, becomes apparent when someone notices that the person he has just pushed or steppped on is an acquaintance, still worse a superior. Suddenly he apologizes progusely and tries to push away the other less fortunate bodies around him to create adequare space between him and the newly dsicovered acquaintance. For the same reason, groups take up more physical space and more acoustic space, in that they speak much louder than separate individuals. In Japan, the recognition of "personhood" seems to begin not so much with being human as with the establishment of personal relationships. >モノからヒトへと捉え方が変わる瞬間というのは、自分が押したり、踏んだりしてしまった人が知り合いだったり、さらにひどいことに、上司だったりした時です。突然、謝りまくって、周りの迷惑している人を押しのけてまで自分とたった今気づいた知人との間に程よいスペースを確保しようとするのです。同じ理由で、グループになると、さらに物理的なスペースと音響空間を占領します。というのも、各々でいるよりも大声で話すからです。日本では人という認識は人が人であることから始まるのではなく、むしろ人間関係を築くところから始まるようです。 ★The sudden shift in perception, from object to person, becomes apparent when someone notices that the person he has just pushed or steppped on is an acquaintance, still worse a superior.:《自分が押したり、踏んだりしてしまった人が、知り合いとか、さらにまずいことに、上司であることに気づいた時が、モノからヒトへと捉え方が変わる瞬間となることは明らかです》。― becomes apparent when someone notices that ~「~に気づいた時~が明らかとなる」の部分も訳に含めましょう。 ★Suddenly he apologizes progusely (→profusely) and tries to push away the other less fortunate bodies around him to create adequare (→adequate) space between him and the newly dsicovered (→discovered) acquaintance.:訳文は、「突然、謝りまくって、周りの迷惑している人を押しのけてまで自分とたった今気づいた知人との間に程よいスペースを確保しようとするのです」というお訳で完璧と思いますが、誤植と思しき箇所が3つ見つかりましたので…。 ★For the same reason, groups take up more physical space and more acoustic space, in that they speak much louder than separate individuals.:《同じ理由ですが、グループになると個人の場合よりも大声で話しますので、さらに物理的なスペースと音響空間を占領します》。in that「~という点で、~なので」を接続詞として、1文で訳せますね。 ★In Japan, the recognition of "personhood" seems to begin not so much with being human as with the establishment of personal relationships.:《日本では、「個人同士」という認識は人が人であることから始まるのではなく、むしろ個人的関係を築くところから始まるようです》。personhoodは、筆者の造語という気持ちで引用符に入れたのでしょう。訳文でも引用符をつけましょう。内容は、「person+hood(性質・状態・立場・身分を表す接尾辞)」という構成から、「個人の間柄、個人関係、個人同士(であること)」といった訳語が考えられます。 ⇒自分が押したり、踏んだりしてしまった人が、知り合いとか、さらにまずいことに、上司であることに気づいた時が、モノからヒトへと捉え方が変わる瞬間となることは明らかです。突然、謝りまくって、周りの迷惑している人を押しのけてまで自分とたった今気づいた知人との間に程よいスペースを確保しようとするのです。同じ理由ですが、グループになると個人の場合よりも大声で話しますので、さらに物理的なスペースと音響空間を占領します。日本では、「個人同士」という認識は人が人であることから始まるのではなく、むしろ個人的関係を築くところから始まるようです。
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