賛成派・反対派の運動次第の面もありますが、この草案のままでは賛成が過半数をとるのは困難だと考えます。
もともと憲法というものは、権力の発動を規制・制約して国民の権利を保護するためのもので、そのことは大日本帝国憲法の制定に大きく関わった伊藤博文も理解していました。憲法制定のための枢密院の審議の際、伊藤は「抑憲法ヲ創設スルノ精神ハ、第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」と明確に述べています。
ところがこの改正草案は逆に現行憲法より国家の力を強大にし、国民の権利を制限する方向で作られています。
例えば12条を「(国民の責務)」とし、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」とあります。アメリカのように何でも裁判に訴えて解決しようという「濫訴の弊」のお国柄ならともかく、金力・権力のある者に人権を侵害されても泣き寝入りしている国民も少なくない日本では「この規定は有害無益」です。「公益」や「公の秩序」を振りかざして民の権利を抑え込もうとするのが「お上」の常套手段だからです。現行の憲法の「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」という程度で十分です。
また天皇を元首と定めていることや、現在の多様な家族のあり方を理解しているとは思えない家族の規定など復古的なベクトルが基調にあります。
9条については言わずもがなで、自衛隊を国防軍とし軍法会議(軍事審判所)を設置するなどこの草案の目指すところは多くの国民が願っている方向とは異なります。またこの草案では憲法を改正して集団的自衛権を含む自衛権を広く認めることにしたうえで、なおQ&Aでは「もっとも、草案では、自衛権の行使について憲法上の制約はなくなりますが、政府が何でもできるわけではなく、法律の根拠が必要です。国家安全保障基本法のような法律を制定して、いかなる場合にどのような要件を満たすときに自衛権が行使できるのか、明確に規定することが必要です。」と述べています。
ところが、この草案後の現実の日本の政治では、憲法の改正や法律の制定によって「明確に規定する」のではなく、一内閣の「閣議決定」によって集団的自衛権の行使を認めてしまいました。このような「往くに径(こみち)に由(よ)る」政治手法で「政府が何でもできる」のであれば、そもそも憲法の改正など不要ではないかと考えます。(その後、安全保障に関連する法案が成立しましたが、それはいわば枝葉の部分です)