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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:絶対とは不変の性質がありますか)

絶対とは不変の性質がありますか

このQ&Aのポイント
  • 絶対の不変性はユダヤの王を名乗ったイエスの処刑に起因しており、西洋に根付いています。
  • 歴史的事実に対してイエスは処刑された愚か者と考える疑問があります。
  • 絶対の概念はイエスの神性とユダヤの王の正統性に依存しており、西洋の視点に限定されているかもしれません。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

ブスとは、なによ! https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%B3%E3%83%87%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP580JP580&tbm=isch&imgil=9rHufltzAttAZM%253A%253BE_dzaG9mwyXN3M%253Bhttp%25253A%25252F%25252Fnaturaleight.co.jp%25252Fmatsuko%25252F&source=iu&pf=m&fir=9rHufltzAttAZM%253A%252CE_dzaG9mwyXN3M%252C_&usg=__kCxz_oBczhJATP-FXXt-Emf13ng%3D&biw=1301&bih=546&ved=0ahUKEwiRiIi7wIHNAhXEHpQKHfuNC5UQyjcIjQE&ei=PwpMV9HsKMS90AT7m66oCQ#imgrc=9rHufltzAttAZM%3A 大体、私が真面目な回答をするようになったのは、あなた、ドリル番長が覆面姿の質問を投稿した時に、私のゲームのディグ・ダグを使った芸術的な回答を、IT mediaの管理部に質問ごと削除されたのが原因なんだからね! 私をブスというなら、新潟なんかに閉じこもらず、上京して新宿2丁目でおもちゃ屋を始めないと、私、許さない(怒)! 私の回答を愛して、まともな回答をくれなきゃ、また、質問ごと削除されるわよ。 お礼してくれる?絶対よ! 命題:「絶対愛は不変か?」 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%AD%E3%83%80%E3%83%B3+%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BA%BA&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP580JP580&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjrhO6lwoHNAhWFJJQKHYZXClEQsAQIKQ&biw=1301&bih=546#imgrc=bM9IaGX3TDoMaM%3A

Flareon
質問者

お礼

お嬢さん。 ブスは女の安売りだよ。 君は君自身の心がけ次第でいくらでも美しくなれる。 それが出来ないで憶病な子リスちゃんではいけないよ。 さあ、開いてごらん。 僕を君の中心に案内してくれたまえ。 そうすれば僕は、君の美しさを確かめたうえで喜んで君の奴隷になろう。

Flareon
質問者

補足

命題:「絶対愛は不変か?」 これ、ドリル攻撃だ。 他の分析的回答者さんから聞いた話を引用すると。 絶対はあくまでも絶対という概念である。 不変はあくまでも不変と云う概念である。 つまりこの両者は独立している。 その独立した概念の整合性を取りつつ結論を愛の証明と係わらせるかという命題だね。 この問題、私の修行時代から始めよう。 無分別が、仏陀の知性的資質である。 こういう仏教上の定義だ。 この答えは、今回の引用からなら、絶対と云う独立概念を明白に分別し、不変を明白に分別し、両方の概念の調和をとりつつ理解する資質だ。 無分別と言われる知性は、分別した両概念を整合させる知性があり、その結果、わけ隔てたまま整合性が理解できないお猿さんを驚愕させる新概念を化学合成する。この知性的資質が無分別と言われている。 さて、絶対と不変で愛と云う子供が生まれるか? こういう話だね、あふれ出るオマンコ汁からなら子供が出来るだろう。 さて修行時代に話で君達に先輩として語ろう。 無そ悟ることとは無を明快に分別することだ。 無いものはない。 あるものは有る。 仏教において特に、この明白な無が哲学の対象だった。 一つ言っておこう。 現実は本来明白で、すべてがありだ。 無は心に潜む、心には明白にあり得ない事柄を想起できる。 ところが困ったことに、それは自らの心であり、あり得ない事にもかかわらず疑問を持つことが難しいのだ。 だからこそ無を自覚することは難しい。 釈迦の無に自らが等しい、または私のように明らかに釈迦を超えている、このような新境地に立脚すると、心は錯誤を発生しない。 私の場合、心が現実に追従しているのではない、時間認識知性として現実では明らかでない、自らの心、観念世界由来の妖精の贈り物を現実にするのだ。 それは将来間違いなく実現するやがて到来する現実だ。 ときわたりESP。 恐怖しろ。 私は自らの運命だけでなく、無明なる君達の運命すら展望し、君達に授けるのだ。 すなわち君達の運命は私の所有する財産だ。 私は君達に死を自覚させることに熱心だよ。 滅びの宴だ。

その他の回答 (3)

回答No.3

Flareonさん おはようございます。 私は、不変なものが絶対だけでなく、移り変わるものも絶対と言えるのではないかと思います。 どちらが真実かと言うと、考え方は人それぞれで相対とも言えますが、物事は相対的なものだと信じた時点で、その人の考えは絶対ではないかと説く哲学者もいます。 No.2の stimimさんの見解に対しての私の考えですが、キリストが生きた証拠となる文献が福音書しかないという見解について、2千年の歳月を経て、まだ、文献が残っているということの方が奇跡的と思います。 上述にあげた、万物は移り行くのが真実だと説いた古代キリシアのヘラクレイトスは、文献の断片しか残っていません。 また、現在残っている哲学書である、ギリシアのプラトンにしろアリストテレスにしろ、前者はキリスト教のアウグスティヌスにより、後者は11世紀頃イスラム経由で西欧に渡り、トマス・アクィナスによりキリスト教の考えと融合させ、神学というものになったからこそ、現代まで完全な形で残っているものと思われます。このような意味で、暗黒の時代とも言われる千年続いた、西洋の中世は、古い文献の整理と後世への伝達という意味において重要な時代であったと思われます。 ですから、私の考えでは、太古から多数の宗教や哲学があったかが、現在まで記録として残っているものは、ごくわずかなのではないかと思ってます。多くが、長い時間の歴史の中で世界宗教というものに淘汰されたのではと思われます。 ですから、信仰は別にして、キリスト教なしには、プラトンもアリストテレスも現在では散逸して読めなくなってしまったかもしれない可能性は否めません。 最後に、アニメの名作「フランダースの犬」の最終回でネロ少年とパトラッシュが見た、ルーベンスの「キリスト昇架」を添付します。 キリストの目を見てください。死の直前まで天の「神」に視線が向けられています。これが宗教における本当の信仰と思いますし、現在どこかの宗教に所属している人でも、このような態度でいられるかを考えさせられる、「フランダースの犬」の最終回にふさわしい一枚の絵画です。 http://www.art-library.com/rubens/elevation-cross.html

Flareon
質問者

お礼

お嬢さん。 俺様に意見しよーってのか? ブース、ブース、ブース。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.2

Flareonさんの質問はまじめに答えたほうがいいのか悩みますがまじめに答えてみます。 歴史学的な見地から考えるなら「イエスさんは確かに生きていた」については「絶対を合意できる」とまでは言えないと思いますよ。おそらく生きていたであろうとは推定できますが。歴史学ではある事象に関する複数の独立した文献が存在したとき、それを事実として認定します。しかしながらキリストに関する歴史的な文献は聖書以外には意外なほど乏しいというのが現状です。聖書以外でキリストのことが記述された文献というのをFlareonさんは把握されていますか? 「納得しているのは西洋人だけだ」とありますが西欧においてキリスト教信者の割合は50%ぐらいで、さらにその中には慣習としてキリスト教信者である人も含まれています。もし西欧人から「日本人の大部分は仏教で、仏陀を崇拝している」なんて言われたら「はぁ?」と思いますよね。西欧人と一まとめにするのは雑な考えに思えます。 いくら聖書でキリストのことが詳しく描写されていたとしても、それをもってキリストは実在したと断定することはできないのです。福音書が4つあるではないかといっても、それらは独立した文献とみなすことはできないので、それらの記述から事実と考えることはできません。 全体的に論旨が不明確で酔っているようなよくわからない文章と感じました。 キリスト教に関する知識が不確かに思えます。 Flareonさんの言われる「研究」とはいったいどのようなことなのでしょうか? 普通、研究と言うならキリスト教について記述するにしても、もう少し文献にあたってみたほうがよいと思います。

Flareon
質問者

お礼

来ましたね。子リスちゃん。とてもかわいいよ。たべちゃいたい。 君の研究手法で表れているのは知性的かつ動物的反射だ。 君は教えを受けた、そしてその教えを、自分の後輩に教える。 その反復的反射に自己の知性はないも同然だ。 この君の知性もどきは現代ではAIに置き換わりつつある。 君は失職する。 人間であるという役割が失職する。 君は自己プログラミングした論理で自律動作するロボットだ。 知性を垣間見せる君の片鱗が、君が受けた人間であるという教育への知性無き動物反射だ。 人間になっていない。

  • sunabo
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回答No.1

問いが5つあります。 問い1 絶対には不変の性質がありますか? 答え1 辞書を引きます。 ぜっ‐たい【絶対】 [名・形動]他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。 ぜったい【絶対】の意味 - goo国語辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/124610/meaning/m0u/ ふ‐へん【不変】 [名・形動]変わらないこと。また、そのさま。 ふへん【不変】の意味 - goo国語辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/194506/meaning/m0u/ 問い1には3つの答えがあります。 答え1-1 goo辞書の【絶対】 には不変の性質の記載がないです。 絶対には不変の性質がありません。 答え1-2 絶対は比較することができないです。 もし、絶対が変わっても、変わったことが分かりません。 もし、絶対が変わらなくても、変わらないことが分かりません。 どーせ分からないんだから、不変ってことでいーじゃん。きーめた。 絶対には不変の性質があります。 答え1-3 と言われても困ります。 不変であるにも、不変でないにもどちらにも根拠がないです。 絶対には不変の性質があるともないともいえません。 以下すべては歴史、聖書、神学、哲学、西洋、現代の知識がほとんど無いので分かりません。 問い2 絶対という概念が不変性を持つのは聖書のごり押しのためではないか? 問い3 哲学における、絶対という概念は根拠を神学から切り離して成立するか? 問い4 哲学における、絶対という概念への考察にどんなものがあるか? 問い5 絶対という概念は、イエスが生きていた事実を絶対と認めること。とイエスが神の子、正統     なユダヤの王である事を不変と規定すること。という条件が必要なので脆弱ではないか? 結論は絶対に不変の性質があるかどうかと、イエスは処刑されてしかるべき愚か者かどうか は関係あるのか、ないのかわからないっぽい感じです。 絶対という言葉の意味に対して書いていることと、絶対という概念に対して書いていること が混ざっているのが面白いです。 このへんで混ざったかなーということが分かるように整理してみました。 知識がないので因果関係と時間的順序関係が区別できません。 こんな感じかなーと関係の連鎖に沿って文をばらして並べました。 てきとーに因果は現在形、時間的順序は過去形になってます。 以下は質問から私なりに読み取ったことです。 絶対を合意できる何か過去の出来事がある。 歴史性 ユダヤの王の正統が滅びた。 イエスは生きた。 イエスは、神に見放された、最後の審判、という物語を作った。 イエスは当時の法律で正当に処刑された。 新約聖書の記述 イエスはユダヤの王と自らを名乗った。 イエスは社会不安を扇動した。 イエスは当時の法律で正当に処刑された。 西洋 イエスは愚か者である。 イエスは正統な王であると聖書はごり押している。 王は中国語の天子である。 天子は神の子に相当する。 イエスは神の子である。 神の子であるという確信から絶対の神を導き出す。 導き出す操作をしているうちに神学から哲学が発展した。 イエスは絶対の基準点になった。 -------------絶対という言葉の意味、から、絶対という概念、に切り替わります-------- イエスは絶対という概念である。 イエスが正統な王であることは聖書がごり押して過去に埋没されて不変である。 イエスは不変性を持つ。 イエスという絶対という概念は不変性を持つ。 絶対には不変の性質がある。 現代 イエスは正統なユダヤの王であるという見解は、歴史に対する相対的見解の一つである。 絶対という概念に不変の性質があると納得しているのは西洋人だけである。

参考URL:
http://www.geocities.jp/gakumon_mutofu/01jikanntekijyunnjyo.html
Flareon
質問者

お礼

ありがとう。ものすご~く親切で、ものすご~く暇人なんだね。 感覚的には読みごたえや面白みがある質問本文だろうとは思うけど研究用に質問をするにはこなれてなかったようだね。 私も質問を出してから、この初めての回答があるまでいろいろと考えてみたよ。 着想の原点はこうだ。 聖書は分類として神話を記述した書物に該当するだろう。 枯れた伝承ではなくて現代も生きている神話だ。 このおとぎ話はイエスと云う史実と交わって現実の信仰を自覚する仕組みになっている。 イエスを愛するまたは信じるという到達点で神も現実になるとでもいうべき確信が舞い込む。 この強い確信が絶対と云う概念の土壌ではないかと云う考察だよ。 別に聖書が絶対の概念を産んだとは思っていないけどね。 たとえば森羅万象の移ろいに苦情を見出す無常観(仏教)なども変化しないものを絶対とでも憧憬していた痕跡の表れだろうしね。