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草津に六文のマークをいくつか見たのですが

六文は真田のマークですよね? 上田だと思ったのですが 草津ともゆかりがあるのでしょうか?

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  • jkpawapuro
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回答No.3

武田信玄の上野侵攻を実際に担ったのが真田家です。真田の拠点、上田市真田の庄から最初に東進した地が草津です。真田幸隆が武田信玄について真田の庄旧領に復帰したのが1546年、小県郡が武田の勢力下に入ったのが1551年、岩櫃城を攻略したときのが1563年、草津は真田の庄と岩櫃の間ですのでこの1551年から1563年の間のどこかで武田の外様重臣である真田の領地になっています。おそらく1561年、川中島の戦い後だろうと思いますが。 その後沼田城までが真田の領地となりますが、武田滅亡後織田に仕えるにあたり沼田領の一部として草津も織田信長に召し上げられ滝川一益領となりますが、本能寺の変後奪回。 関が原の折には沼田領ですので分家真田信之領となり、真田昌幸本家滅亡後戦後信之が本家となりそのまま真田領です。 その後1656年お家騒動がおこり真田家はまた分家し沼田領は真田分家の領地となり1681年治世不良で真田分家改易まで真田領です。

jvpmbutizw
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回答No.4

草津も真田領でした ちなみに真田幸隆の父 海野棟綱はかつて草津を治めていた時期があります その縁もあるのかと

jvpmbutizw
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回答ありがとうございました。

  • y-y-y
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回答No.2

織田信長が京都で討たれる頃までは、群馬県も真田氏の領地です。 真田氏の当時の長野県の領地は、上田付近の真田町を中心として、長野県の東部(東信)と、長野県の北部(北信)です。 長野県の南部(南信)は、山梨の武田氏に攻められて武田氏の領地でした。 また、当時の長野県中部(中信)の松本市付近は、真田氏と武田氏とも敵対したり、味方したりしていました。 織田信長氏が死んでからは、神奈川県の今川氏と、静岡の徳川氏と、新潟の上杉氏と、愛知の豊臣氏とに挟まれていて、群馬県の地域を今川氏と、互いに競り合っていたのです。 そして、豊臣氏が死んでからは、徳川氏の勢力が強くなると、新潟の上杉氏は山形県の米沢へ移封(国替え)されて、真田氏は徳川氏の配下となったのです。

jvpmbutizw
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回答No.1

詳しくないですが、上田も草津も、でしょうか。 http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/special/sience_of_hotspring/sience_of_hotspring_7-2-1-1.htm

jvpmbutizw
質問者

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