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なぜ、山流し流しと、言うのか…?
- 「山流し」とは、甲府勤番での左遷を指す言葉であり、江戸時代の時代劇でよく見られるシーンになります。
- このシーンでは、悪のボスが左遷されたことに対する恨みや報復の意思を示し、正義の味方との戦闘が繰り広げられます。
- 最終的には、正義の味方によって悪のボスが成敗されるという展開がお決まりです。
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No.5です 補足を頂戴しました。 別の番組のご紹介がありました。 当初のご質問の趣旨とは些か離れますが、時代劇を楽しまれる一助として、幕府の役人の取り扱いにつきまして情報を提供させて頂きます。 幕府というのはあくまでも軍事組織が基本でした。 手勢を連れて参陣するという考えが基本となっていました。 役職に就任した場合は、実務に必要な部下は自身の家臣が執り行うことが原則でした。 家臣ですから、俸給はあくまでも就任した長の給与(俸禄)から支払われていました。 これに対して、奉行所の職員はあくまでも奉行所に所属していて、長官(奉行)の家臣ではありませんでした。 職務上の上下関係だけでした。 与力ー同心の関係も職務上だけのものでした。 「手柄らしい手柄を、余り立てない方なので、ボングラ同心」ということであっても上司である与力も長官(奉行)でも首には出来ませんでした。 老中の審議が必要となりました。 老中としても取り立てて失態がない以上首という訳にはいきません。 となると転属させて部署から切り離すこととなりますが、他の部署は全て部署の長の家臣でしたので簡単には行きません。 ここで目を付けられたのが甲府勤番でした。 甲府勤番も奉行所と同じ職制でした。 職員の人事権は老中にありました。 ということで、何時とはなく江戸城中や奉行所のような現在の中央官庁のような部署から排除する際に甲府勤番が使われました。 これが甲府勤番は無能役人や不行跡な役人の配属先ということになりました。 無能と烙印を押されてしまえば、死ぬまで戻れないということになります。 本人が自覚していないで甲府勤番を命ぜられれば、無能扱いされて出世コースから外されたという受け取り方となり、役所から途絶された「山流し」という表現になりました。 現在も競争社会での出世にはお付き合いが不可欠です。 アメリカではホームパーティというものがこの役割を果たしています。 上司の家族や友人を招いてパーティを開きますので、相当に金も時間もかかります。 アメリカのサラリーマンもこのために涙ぐましい努力をしています。 日本ではパーティの習慣がありませんので、高級料亭での接待という形式や金品の贈呈という形式になっているだけです。 お中元お歳暮などという習慣も残っています。 習慣上許容される範囲内とかなんとか、法律上も金額の多寡で賄賂と線引きをしているだけです。 江戸時代には武家層は困窮していましたので最も好まれたのが小判でした。 お付き合いの席で小判を手土産とするのがごく普通でした。 世話になったお礼や挨拶の際の手土産にも小判が使われました。 この小判の量が少なければ、受け取った方も自分をないがしろにしていると受け取りました。 送る側の意志表示の一つとされていて、賄賂などという感覚とはほど遠いものでした。 江戸時代は法制上も習慣上も世襲が基本でしたので役職の空席が非常に少ない時代でした。 わずかばかりの空席を争いますので、江戸城中は現在とは比較にならないほど激烈な競争社会でした。 大名家の御家老連中もお殿様が江戸城中の出世競争に興味を示さないように心がけていました。 ただでさえ苦しい藩の財政を圧迫しますので、蹴落とされないように現状維持が最大の目的でした。 甲府を天領としたのは吉宗です。 新規の天領の支配役ですから老中が任に当たり吉宗の時代にはないがしろにされてはいませんでした。 閑職扱いされるようになったのは松平定信の時代以降です。 これでは、暴れん坊将軍は吉宗を比定していますので、当初のドラマが成り立たなくなってしまいます。 蛇足に蛇足を重ねて申し訳ありませんでした。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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さらに付け加えますと・・・。 勤番支配以下の者たちの仕事は、「領内の見回り」や「土地の測量」等と述べましたが。 これらの仕事に関して追加するとすれば、当然、一日で全てを回ることはできませんし、一日で測量が終わるわけでもありませんでした。 この「領内の見回り」や「測量」と言う仕事が「クセ者」で、江戸で放蕩三昧で流された者たちでしたので、中には、巡回途中や測量中に、各地の名主や庄屋などの家に宿泊しましたが、自棄になった者たちでしたので、酒食の接待を強要したり、地元の娘たちをはべらかしたり、または、路銀を強要したり、果ては、女に手を出したりと、地元の人々にとっては「大迷惑」だったのです。 実際にそのような記録も残っています。 江戸での「悪」が甲府に流されてまでも、さらに「悪」をする。 当然、このような「悪」が江戸へ呼び戻されるはずもなく、自暴自棄になり、どんどん「悪」を重ねていく。 「悪」の循環です。 当然、勤番支配や江戸にまでも耳に届きはしますが、 「ああ、あいつは悪だからしかたがない」 の一言で片づけられてしまいました。 勤番支配も「悪」の者たちに注意をしても聞かない。聞かないから注意をしない。よほどの大事件でも起こさなければ、「のほほん」と務めていれば、3~4年後には江戸に帰り、それ相応の役職にも就けましたから、見て見ぬふりの「だんまり」を決め込んでいたのです。 まあ、中には商人と結託して「賄賂」(まいない)をかき集めたりする者もいたでしょう。 「桃太郎侍」や他の時代劇などもそうですが、「悪」を懲らしめることで主役がヒーローとなり、視聴率も上がるのでしょうね。
>甲府勤番での勤務が、山流しと言うのは、どう言う意味なのか? 「山流し」というのは習慣的な表現です。 島流しからの連想です。 社会から途絶した場所として、海で遮られたのと同様に山岳で遮られたという連想から着た言葉です。 「配流」あるいは「流罪」という刑罰が、現在の刑法犯に対してだけではなく政治犯に対して用いられました。 社会から隔離することが目的でした。 政治犯の場合は罪人として認定することは少なく、むしろ権力闘争の敗者に対して用いられました。 中央官庁から排斥して政治的な影響を剥ぎ取ることが目的です。 古くは菅原道真の大宰府への赴任などが挙げられます。 清盛によって源氏の直系である頼朝が伊豆へ送られたのもこの目的でした。 日蓮や親鸞も思想犯として配流処分されていました。 甲府の位置づけは江戸時代初期には重要な意味がありました。 甲府は山岳地帯で防御に優れた地形であったことから。徳川家が存亡の危機に瀕した場合の避難地とされていました。 詳しくは下記のサイトをご参照下さい。 参考 甲州街道 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/甲州街道 抜粋 近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、甲府城を有する甲府藩が親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。 老中直轄の役職で高位に位置づけられていました。 地方職である天領の役職としては大阪御定番をはじめ京都奉行、長崎奉行、などと同格でした。 江戸時代も半ば以降は平和な時代となり、幕府が脅かされることなど考えられなくなりました。 結果として甲府の位置づけは忘れられたような存在となりました。 山岳地帯で経済的な影響力も少なかったことから、幕府内での出世コースからも外れていきました。 山岳地帯で気候も厳しいことから江戸で都会暮らしに慣れ親しんだ幕臣達からは好まれませんでした。 江戸は平地であることもあり、江戸生まれ江戸育ちの幕臣には山岳地帯は好まれませんでした。 人里離れた山の中というイメージで社会から隔離されたようなイメージでした。 役高だけは高かったことから、次第に小普請組などの閑職者や高齢者などが着任するようになりました。 それが更に進んで、改易寸前の業績不良者などが赴任するようになりました。 このことから何時とはなく懲罰の配流地のような位置づけとなってしまいました。 ドラマで「上様(幕府)め、このワシを、良くも山流しにしてくれたなぁ」とあるのは、幕府から遠ざけられて出世コースから外されたという意味です。 蛇足 幕末に京都から引き揚げた新撰組の処遇に窮した勝海舟が近藤勇を大名格として甲府への赴任を命じたのも、初期の甲府の位置づけを無理矢理持ち出したものです。 お家(徳川家)存亡の時期の大切な役割として近藤勇を納得させました。 郷士で正式な武士扱いされなかった近藤勇は舞い上がりました。 甲府は武田氏の時代から金山が知られており。江戸時代の貨幣単位も武田氏が用いていた単位です。 江戸時代の半ばまでは幕府の小判に対して甲州金と呼ばれる金貨がありました。 このように甲府は金に纏わる話が多い土地柄です。 現在も徳川埋蔵金探しをしている人がいます。 金山があったために天領とされてしまい江戸から派遣された官僚が支配していたことから城郭は立派でしたが城下町が発達しませんでした。 大名領であれば一大城下町となっていたでしょう。
補足
回答、有難うございます…。 どの時代劇番組かは、不明ですが、「江戸にある、南町奉行所で、同僚や上司からは、「手柄らしい手柄を、余り立てない方なので、ボングラ同心」と、呼ばれてた、番組内では準主人公となる、1人の俳優さん扮する、若手の同心。 「手柄らしい手柄を、立てない上、受け持ち地域で、発生した殺人事件を、解決してない」的な事態を、理由にされたかして、甲府勤番への転勤が、命じられた。 その同心は、奉行所で、転勤の辞令が出てから、所属する部署の部屋で、別の俳優さん扮する、直属の上司の与力から、「お前は、甲府勤番への転勤が、命じられたから、甲府に行けば、もう江戸に戻るのは、死ぬ迄無理だろうなぁ…!?」 的な内容で、なじられる様に指摘されてから、甲府へ向かった…」シーンが、入ってた番組も、あります。 このシーンだけで見れば、問題の同心は、若手と言う設定かして、若手の役人達から見れば、「左遷で、配属されたら、死ぬ迄は江戸に戻れない、幕府の出先の役所」と、言うイメージが、持たれてた様に、思います。 因みに、問題のシーン込みによる、問題の時代劇番組。 「準主人公である、問題の同心が担当した、殺人事件が発端で、その後は、甲府の隠し金山が絡む大事件に発展したが、大御所(先代の将軍)の姫、つまり実の娘であり、準主人公の同心を知る主人公は、 配下の側用人等、大御所が用意した、男2人の護衛と共に捜査し、事件の犯人達である悪の一味を、特定して、峰打ちでだが、全員を倒した。 そして、主人公は、「○○さん(準主人公の同心)が、手柄を立てた事にして、ヤって欲しい」と、父親である大御所に、頼んだので、大御所は、別の部下経由でだが、「○○の南町奉行所への復帰と、奉行所内では、番付を上げてだが、手柄にする様に…?」と、言う命令を出したので、南町奉行所 へ、復帰が出来た…」的なストーリーで、最後は終わってます…。
- ithi
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80568410 さん、こんにちは。 それは、吉宗が始めた甲府勤番が旗本、御家人にとって左遷のイメージがあったからです。 ただ、暮らしが派手でにぎやかな江戸の生活から甲府のド田舎生活になるのだから、江戸の生活に慣れた旗本、御家人には酷なのかもしれませんが…しかし最初からそうではありません。どうやら、孫の松平定信が不良旗本や御家人対策として甲府勤番勝手小普請というのを創設したころからだったようです。 小説やドラマは創作の部分が多々あるようです。 詳細は下記のURLを参照ください。 甲府勤番 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%BA%9C%E5%8B%A4%E7%95%AA
- 川原 文月(@bungetsu)
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お読みいただきありがとうございます。 「越後屋、おぬしも悪よのう。フッフッフッ」 「とんでもございません。お代官(でえかん)さまこそ・・・」 まあ、「隠し金山」伝説も各地にあります。 また、埋蔵金伝説にしても「徳川将軍家の埋蔵金」が上州(群馬県)赤城山にあるはずだ、とか、「武田の埋蔵金」は諏訪湖の水中かその周辺にあるはずだ・・・。などなど。 しかし、現代の「超音波測定」や「X線透視技術」などの文明の「力」(りき)を使っても、一向に発見されていません。 甲府について言えば、先に述べた「黒川金山」「湯之奥金山」の他にも、その付近では多少なりとも「金」が産出されたようですが、人手もかかるし、何よりも灌漑などの技術や採掘技術も必要。資材の搬入。金の搬出。金の精錬技術なども必要。全て人海戦術でしたので、「採算」は全く見込めなかったのです。 まあ、時代劇としては、そうした「隠し金山」や「埋蔵金」により私服を肥やして、老中などに小判をばら撒き出世をしようと画策する・・・「定番」と言えば「定番」ではないでしょうか。 ただし、甲府勤番支配だけに限って言えば、「北に対する要」の重要な役職でしたので、3~4年間務めれば、江戸に呼び戻されて、再びそれ相応の役職に就けましたから、無理に画策する必要性は無かった、と言うのが本当のところです。 しかし、勤番支配以下の人たちは「閑職」でしたから、何とかして「抜け出したい」と常に考え、悪も横行したかもしれませんね。 ただ言えることは、「隠し金山」や「埋蔵金」伝説にしても、「全く根拠の無い事」と言い切ることはできません。 実際に、例えば東京などでも、近年になって道路工事中や地下鉄工事中に小判が何千両も出てきた・・・などという話も報道されています。 私も群馬県には知り合いもいますので、「金」と「暇」と「体力」があったら、赤城山で徳川埋蔵金探しでもしてみたい・・・と考えたこともありました。 「夢」があっていいじゃないですか。(笑)
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 他の方の貼ったURLが「ほぼ正しい」です。 (変遷) 甲府は、当初は確かに武田武士(武田信玄や武田勝頼以降の武田家の残党)などの決起や報復を恐れてのいわば「北の砦」で重要な地でもありました。 従って、幕府は甲府自体は軽く考えてはおらず、例えば、3代将軍家光の三男綱重は寛文元年(1661)には、甲府(甲斐)を拝領し「甲府宰相」とも呼ばれていました。 その後、綱重の死後には、宝永元年(1704年)に徳川綱豊(綱重の嫡男・6代将軍家宣)が跡を継ぎました。やがて、5代将軍綱吉に子どもがいなかったため、綱豊は6代将軍候補となり西の丸へ移り、宝永2年(1705)には綱吉の側用人であった柳沢吉保が甲斐・駿河領国に15万1200石余りの所領と甲府城を与えられました。 享保元年(1716)8代綱吉が就任し、甲府は柳沢吉保の嫡男であった柳沢吉里が跡を継いでいましたが、享保9年(1724)吉里が大和郡山へ転封となり、甲府は黒川金山や湯之奥金山などがあったため、幕府直轄領となりました。 これより後は、甲府城代とも言うべき役職の「甲府勤番支配」が置かれるようになりました。 (甲府勤番時代) 甲府勤番支配は、旗本の中から選ばれ、江戸の三奉行(町奉行、寺社奉行、勘定奉行)と同じく、役料3,000石で決して軽い身分ではありませんでした。 しかし、いかんせん、甲府は山の中。 しかも、歴代の城主を見ても、自らは江戸に住んでいて「甲府城主」とは名ばかり。 幕府は金山開発にだけ奔走し、甲府の街は一向に「開発」されなかったのです。 つまりは、城主が常駐して養蚕に力を注ぐとか、農作物の主力産地にするとかの「町起こし」、「村起こし」が一切なされなかったのです。 そのため、いわゆる街が発展しないから、「遊び場所」のない商業も発展しない片田舎となってしまったのです。 甲府勤番支配は家柄や上司である老中などの「引き」や「つて」があれば、次の出世もできたのですが、甲府勤番支配以下になると、金山開発には「金山奉行」なども任命されて、配下になれば多少の仕事はありましたが、それ以外の者になると、甲府城に詰めても「やることがない」。 やる事と言えば、土地の境界を巡る訴状の受付や裁判、これはまだ良い方で、後は、ただ単に領内の見回りや土地の測量程度。 そこへもってきて、街が発展していないから「遊び場」がない。ウサ晴らしもできない。 まあ、城下には多少の飲み屋などもありましたが、それ以外の「楽しみの場所」は何もなかったのです。 こうして、いつしか、旗本や御家人の中でも素行不良の者が「閑職」として送られる地となってしまったのです。 甲府勤番支配自身は自らの出世だけを考えており、部下の評価はしようともしない。 従って、部下たちは手柄の立てようがないから、手柄がない。手柄がないから出世もできない。 甲府勤番を申し渡されたら、いつまで経っても甲府からは抜け出せなくなり、いつしか、「島流し」に対して「山流し」と呼ばれるようになったのです。
補足
回答、有難うございます…。 「桃太郎侍」で、問題のシーンが、登場した回では、「近藤宏さん(故人)扮する、甲府勤番である悪の一味のボスは、役宅で、「武田信玄の隠し金山は、一万両を下るまい、それを使って、ワシは甲府勤番から、勘定奉行へ鞍替えじゃ…!?」的な内容で、「用意した町人を使って、武田信玄の隠し金山を、数千両掘り出した」的な内容で、報告した、部下でもある手下に対して、言ってた…」シーンとして、登場してました。 因みに、この回自体は、「武田信玄の隠し金山を、悪用する企みを、善人側の部下が知ったのを知った、近藤さん扮する悪のボスは、悪側の部下となる1人の手下に、出先の芝居小屋で、開催してたお化け屋敷で、その善人側の部下を、口封じとして、殺害させた…」のが、主なストーリーと、なります。 ただ、画面を見た限り、近藤さん扮する悪の一味のボスは、「ワイロを使って、江戸に戻って、出世したい」的な内容で、間接的に言ってた様に、思います。 この様なシーンが、入った時代劇も、「桃太郎侍」以外にも、何回か見た記憶、あります。
- tacop
- ベストアンサー率75% (867/1154)
こんにちは。 わかりやすく解説されているブログ記事がありました。 参照してみてください。 ■「島流し」に対し、徳川吉宗が始めた「山流し」とは? | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう http://ameblo.jp/k-714-yamasiina/entry-11828600875.html
お礼
「先の回答と、合わせてだが、一口メモ的な回答メインで、詳しく回答して頂いたので、BAにしたい」と、思います。 回答、有難うございます。 又、質問した時は、よろしくお願い致します…。