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帝国主義時代の英露の対立
帝国主義時代、英国とロシアは世界中で対立していましたね。東欧、バルカン、小アジア、イラン、バルチスタン、アフガン、チベット、極東、アラスカが主な舞台です。膨張するロシアは謂わば英国の世界覇権を脅かす最大のライバルでした。何度となく訪れた戦争の危機は奇跡的に回避されましたが、なぜ直接対決には至らなかったんでしょうか?
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うーん歴史にIFは無いとなればそれまでですが、非常に難しい質問ですね。 西を南下しようとしたらトルコを中心に反ロ勢力をイギリスが作り、東を南下しようとしたら日本を強化しロシアに対抗させたイギリスですが、案外大陸の真ん中のアフガンをイランインド(現パキスタン含む)に向け南下されるのが一番イギリスにとってつらかったかもしれません。不凍港が欲しく西の海か東の海を南下したロシアですが、カスピ海を越えイランに鉄道を敷きインド洋を目指すとか面白いですね。(このルートは第二次大戦のときのレンドリースによる援ソ物資を送り込んだ3大主要ルートの一つです。) 正直そのIFに対する予測は難しいですが、おそらくインド北部・アフガン・イランの藩王国や王国に武器を与え独立や貿易上の特権を与えることを条件にロシアと対抗させたと思います。ただトルコや日本のような強力な国が無いのでそれでどこまでロシアに抗しきれたかわかりません。
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- jkpawapuro
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ロシアとなぜ直接対峙が少なかったかといえば、それはまずイギリスの外交上手、次にイギリスにそんな余裕もなければ非効率な戦いをするつもりもなかったということでしょう。 クリミアで25万、ボーア戦争では50万近くの大兵力を動員しており、イギリスがロシアと陸上で対峙する兵力がなく不可能かといえば必ずしもそんなわけではありません。ですが列強同士の戦いなど苦労が多い割には金がありません、そんなことは他国にさせ自分は植民地支配を固めそこから利益を上げる、それがイギリスの理想なんでしょう、そのために植民地にはいくらでも大兵力を投入しても列強同士の戦いは可能な限り他国をぶつけ自分が傷つき戦費を費やすことは避ける、外交はそのためにあるというのがイギリスなんでしょう。 典型が日露戦争です、イギリスは南アフリカとインドの植民地を抑えるのが手いっぱいで、ロシアなどと戦ってる余裕はありません、植民地の兵を抜きロシアにぶつけるなど収入源をつぶし戦費を費やす最悪の展開といったところでしょう。そのため日本を引き立て日本に武器を売りロシアと戦わせる、イギリスはそのための支援に徹し決して自分は矢面に立たない、それがイギリスの戦略です。
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あけましておめでとうございます。 コメント有難うございます。 なるほど、納得です。ではロシアがインドに手を出していたらどうなっていましたでしょうか?
- whaihansei
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シニア男性です。 帝国主義時代の定義にもよりますが、英国の 最大のライバルはフランスでした。 18世紀、北米の植民地争奪戦をはじめ、世界中で争い ました。 19世紀中盤には日本でも薩摩をバックアップした英国、 幕府にはフランスが応援しました。 代表的には19世紀初頭、ナポレオンが英国を大陸封鎖 した時これを破ったのはロシアでした。 英国がロシアをけしかけたからですが、実質の技術輸入を ロシアがしていたので禁輸が苦しかったからであります。 その後19世紀末からは遅れて来た帝国主義国ドイツとの 対立がメインとなりますが、今度はフランスとともに対応 しました。 20世紀に入り、第一次大戦、第二次太戦とも英国はドイツ 対抗策として東部戦線でロシアと同盟しました。 この間、ロシアとは、19世紀中盤クリミアでの南下を 阻止し(トルコなどと)、20世紀初頭極東での南下を 日本を利用し阻止しました(日露戦争)。 英国は「敵の敵」としてロシアを利用しつつ、局面では ロシアの進出を同盟により阻止したのです。 これは一国で長大な戦戦を維持することが困難である ことと、北米、アジア進出において、インドの植民地化 までで手一杯だったことによります。 第二次世界大戦後、米国が新たなリーダーとなりますが、 欧州の東半分を押さえたロシア(ソ連)と対立します。 ロシア(ソ連)との全面対立は20世紀後半の最大の 課題になりました。 直接の戦いは「核バラン」により行われませんでした。 これが英(米)とロシアとの関係です。
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あけましておめでとうございます。 コメント有難うございます。
- ithi
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nobunaga1560 さん、こんばんは。 いいえ、1853年から、1856年までのクリミア戦争で直接戦っていますよ。 最もイギリスはフランスやトルコと同盟を結んでクリミア半島に出兵している程度ですが… イギリスはこの時の戦死者や戦費の膨大さに驚いたのでしょう。植民地とは戦争をしますが、世界の列強と戦争をするの避けるようになりました。 次に列強と戦争をするのは第一次世界大戦ですね。 詳細は下記のURLを参照ください。 クリミア戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
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あけましておめでとうございます。 コメント有難うございます。 クリミア戦争の記事拝読しました。思ったより大規模(バルト海まで巻き込んだ)な戦争だったんですね。ロシア軍より英仏・トルコ連合軍の方が動員兵数に比べて死傷率が高いのが驚きでした。ナイチンゲールがいたのに・・
- Merlin61
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すいません、連投です。 結論から言えば、「投入出来る自前の軍隊がなかった」からではないでしょうか。 現在では、海兵隊乗っけた揚陸艦に空母機動部隊くっつけてGO! ついでに空軍で要所爆撃して・・・といったところですが、 蒸気機関が実用化したぐらいの頃ではそんなもんは何もありません。 ついでに言えば、機甲師団も自動車化歩兵師団もありません。 大量の兵力を遠方へ投入する方法が無かったので、 小競り合い程度で済んでいたのでは。 また、「どこで」直接対決するかですね。 英国は島国ですので、「海」しかない。 英国は当時世界最強の海軍国です。 そこに殴り込みをかけるのは、ロシアには荷が重かったのでは。
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あけましておめでとうございます。 コメント有難うございます。
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インドの独立が早まったかもしれませんね。そうなればインパールの悲劇もなかったことでしょう。