• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:この武将(殿様)、主にどの戦いに、出てたか?)

戦国時代、長曽我部元親の有名な戦いは?

このQ&Aのポイント
  • 質問文章では、連続ドラマ「水戸黄門」で登場した西村晃さん扮する黄門様のシーンや、「かつおのたたき」の由来について触れられています。
  • 質問内容は、戦国時代の長曽我部元親が出た有名な戦いを知りたいというものです。
  • 「水戸黄門」は府県出身者をゲストに迎えて制作された時代劇であり、質問文章で特に注目されているのは、黄門様のシーンや「かつおのたたき」の由来に関する内容です。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.3

長宗我部元親の主だった戦は 天正3年の四万十川の戦、一条氏を破り土佐統一、 天正8年の湯築城の戦で河野通有を破り伊予制圧。 天正10年の中冨川の戦い、阿波制圧。 天正11年の引田の戦、三好ー仙石連合軍を破り讃岐制圧、   四国全土掌握成る。  その2年後 天正13年豊臣秀長の四国征伐に敗れ、土佐一国となる。  (年代には自信がありませんが) 有為天変の生涯です。 先答の WIKI にもありませんが、鰹のたたきなどの餘裕は なさそう、単なるお話の類でしょう。 強いてこじつければ、難戦の阿波攻めに際し、将兵に元気付けの 鰹を食べさせる為、表面をあぶって日持ちさせるようにして、山中 に運んだとか言う事でしょうか。

80568410
質問者

お礼

回答、有難うございます…。 「かつおのたたき込みで、詳しく回答されたので、BAにしたい」と、思います。 又、質問した時は、よろしくお願い、致します…。

80568410
質問者

補足

回答、有難うございます。 回答者さん、貴方からなら、「水戸黄門の中で、出て来た、長宗我部元親が、部下達を労る為、かつおのたたきを、戦場で作ったのは、難戦となった阿波攻め辺りで、これが、かつおのたたきの言われである」と、見られてるのでしょうか?

その他の回答 (5)

  • zep19
  • ベストアンサー率45% (138/306)
回答No.6

はじめまして 元親が參陣した著名な戦いを時系列で並べると ・1560年 長浜の戦い(勝利:対本山茂辰) 長宗我部側1000:本山側2500 元親の初陣、22歳での初陣で他の戦国武将より遅かったが、勝利し家中の信頼を得ました ・1569年 八流の戦い(勝利:対安芸国虎) 長宗我部側7000:安芸側5000 土佐国東部を支配していた安芸国虎と八流で戦い勝利 元親が事前に安芸城に派遣していた別動隊と敗走してきた安芸軍を挟撃、安芸城を落としました ・1575年 渡川の戦い(勝利:対一条兼定) 長宗我部側7300:一条側3500 土佐国西部を支配していた一条兼定配下の家臣を調略し兼定を妻の実家大友氏の元へ追放したが 兼定派の旧臣や国人をかき集め、土佐へ奪回戦を仕掛けてきた為、迎撃 ここでも別動隊に一条軍の側面を攻撃させ敗走させました ・1582年 中富川の戦い(勝利:対十河存保) 長宗我部側23000:十河側5000 本来であれば十河側に織田信孝率いる信長の四国遠征軍15000が加わるはずだったが 本能寺の変により8割が農民の強制徴兵や忠誠心に欠ける牢人衆だった信孝軍は瓦解し渡海せず 十河存保が単独で戦いました この時も元親は別動隊と二手で攻撃し数で圧倒しました ・1586年 戸次川の戦い(敗北:対島津家久) 仙石・長宗我部・十河側6000:島津側20000 仙石久秀を主将とする豊臣九州遠征軍に旧敵十河存保とともに元親も參陣しましたが 島津側の伏撃により惨敗 豊臣側は主将仙石久秀が逃亡 元親の嫡男信親、家臣桑名親光が討死、十河存保も討たれました

  • pringlez
  • ベストアンサー率36% (598/1630)
回答No.5

一言で言えば「諸説あり、確かなことは分からない」だと思いますよ。 私が聞いたことがあるのは『食中毒が流行り生食を禁止する御触れが出て、それを回避するために「火を通した(ことにした)」事から始まった』と言う説です。庶民の食生活に対する規制をかける話なので、たぶん江戸時代の話だと思います。 四足動物を食べることが禁止されたときに、兎を鳥の仲間だと言い張って食べ続けた、だから1羽2羽と数えるようになった、というような話に似ていて、説得力を感じました。 鰹のタタキ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B0%B9%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%82%AD ・漁師のまかない料理から発達した説 ・鰹節を作るときに残る部分を皮付きのまま串に刺して焼いたとするカツオ節派生説 ・土佐藩主・山内一豊が食中毒防止を理由として鰹の刺身を禁じたため、表面のみを焼いて焼き魚と称して食べられたとする説 ・魚の皮下に居る寄生虫などを殺すためとする説 ・明治時代になってから高知に来県した西洋人が、鯨肉を生焼にしてビフテキ代わりにした調理法を鰹に応用したとする説 等、様々な説がある。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.4

80568410さん、こんばんは。 長曾我部元親が出陣した有名な戦いは豊臣秀吉麾下で天正14(1586)年島津攻略戦である戸次川の戦い、嫡男の信親を失ってしまいます。天正18(1590)年に小田原北條攻めです。戦果は下田城を攻略した後、小田原城を包囲しています。 また、文禄元(1592)年から朝鮮出兵を行っています。 詳細は下記のURLを参照ください。 長曾我部元親 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA

回答No.2

豊後戸次川合戦ですかね この戦いで息子の信親が死んじゃって元親はおかしくなっちゃった ちなみに かつおのたたきは長宗我部の家臣団である 一領具足衆が作り出したもの と言う説があります

回答No.1

>「戦国時代、長曽我部(長宗我部)元親が、出た戦いで、 >有名な戦いあれば、1~2個程度で構わないのが、どの >戦いならあるか?」に、なります。 鰹のたたきと関係無いみたいなんで、Wikipediaでもどうぞ。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA