• 締切済み

思いやりをサボる健常者と習得に必死な発達障害者

私はアスペルガー症候群のキャリアです。25歳の頃に診断され、現在31で時代背景もあり療育が受けられなかった世代です。 私は生まれつきひとを思いやる能力は欠損しておりますが、自分で情操教育を行ない今まで生きてきました。ただ、気遣いが出来ないとか、些細な行動や発言でひとに嫌われて孤独な人生を送っています。 ただ、日常生活をしていると健常者で生まれつき思いやりを持っているにも関わらず気遣いをさぼる(私に対してではなく)健常者が多いなと思う時があります。 また私の周りには、ひとを思いやる気持ちを捨てて他者なんかどうでもいい他人の悲しみ、友達の悲しみさえどうでもいいと言う癖に長年の親友がいたり、彼女ができたり、愛されたりする人間が居ます。 私は自己中は嫌われるから思いやりのある人になろう。ひとの悲しみも背負ってあげられる人間になりたい。他人の幸せが自分の幸せ。となるように生きてきましたが。嫌われ続ける人生を歩んでいます。 なぜ、健常者なのに思いやりをさぼるのか、その癖になぜ努力してる発達障害者に気遣いがないといえるのか、なぜ心の奥底で他人なんかどうでもいいっていう腐った人間が絶えず好かれるのか教えてください。

みんなの回答

  • manmanmann
  • ベストアンサー率12% (535/4296)
回答No.2

なんていいますか、あなたの考える「思いやり」と他の人が考える「思いやり」の形がずれているんじゃないかな。 「ひとの悲しみも背負ってあげられる人間になりたい。他人の幸せが自分の幸せ。」これ、確かにすごいとおもいますけど、私はこういう人は重くて友達にはしたくないかな…。 かくいう私も、全人類を思いやることなんて到底できません。 ようするに、メリハリじゃないでしょうか。 「思いやる」べきシーンを見極めて、そこできちんとフォローする。 ずっと寄り添っていることだけが「思いやり」ではありません。 私は私自身「思いやりをできる」コップの容量がきまっているため、それをこえた範囲で対応はしません。 きちんと、必要なときに、必要な人へ、必要なぶん出すのが「思いやり」だとおもいます。 あなたが何をみてきたか、詳しくはわからないので推測ですが、あなたはおそらくその思いやりの容量や使いどころを見極めるのが、難しいから、コミュニケーションがうまくいかなかったり、他人が「思いやってない」ととれてしまうんじゃないかなあ。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • E-1077
  • ベストアンサー率25% (3258/12620)
回答No.1

以下長文失礼 前提として 私は心理カウンセラーの資格を持っており 昔でいうASの障害を持っている長男とツレ(彼の父親)と生活しています 息子はSSTをやり続けていて、ツレは皆無です(障害の有無すら分かっていなかった) さて、健常者の思いやりについてですが 普通というか日常生活において、「思いやり」を心がけていない人はたぶん少数なんだと思います しかし常に意識していなくても必要な場面になったら発揮できるというのがあります 横柄であるとか横暴であるとか自己中心的で自分の都合だけを考えて行動する、今でいうところのDQNはかなり少ないはず。目につくのは目立つからであって、本来、人は他人を思いやる気持ちがあるからこそ、社会はスムーズに動くのだと思います 障害があると「特に強く意識する」ということをしますので、何もしていなさそうな人を見ると気になるのでしょう。 また、障碍者の「気づかいが無い」「思いやりが無い」との意見は予測ですが(たぶん)「的を射ていない」ということがあるのかもしれません。気の配り方の方向性がずれている可能性はあります。 これは療育をした場合でも同じで、「そこじゃなくて・・・・こっち」ということはままあります >>私は自己中は嫌われるから思いやりのある人になろう。ひとの悲しみも背負ってあげられる人間になりたい。他人の幸せが自分の幸せ。となるように生きてきましたが。嫌われ続ける人生を歩んでいます。 とのことですが、他人の幸せは自分の幸せでは「ない」と思っています(少なくても私はです) 自分が幸せでなければ他人を幸せにすることはできないと思っています。それを達成するために他人を犠牲にして自分を先に~というのとはまた違うのです。 人の悲しみを背負うことは出来ません。共有し同調し少しでも悲しみが早く薄れるように力を貸すことは可能ですが、背負うというおこがましいことは出来ませんし不可能です。 自己中でない限り(他人を押しのけて自分ばかりを優先するという意味です)自分中心で世界は回るのですから、ある意味独り舞台の主役でいて良いのです。 一方で、逆の行動をしている人が親友を作れたり彼女を作れたりするのは、感情をすり合わせるのに臆しないからでしょう。良い意味でも悪い意味でもお互いの感情をぶつけ合ってそれから先がまだあるのです。一見して気づかいが無いような人でも(無口でただ威張っているだけのように見える怖いタイプなど)でも垣間見せる優しさが他の人にはその人の本質であると取ることもあります。それは相手によりけりです。万人に受けるようなタイプはこれはまた別の次元の話。聖人じゃない限りはある程度感情の行き違いがあるからこそ、人間社会は楽しいのです。 映画や本の評論などもそうです。誰かが良いと評価する。一方でそれは気に入らないとする。だから次にもっと良いものが生まれてくる。 そういう話は沢山あります。 だから人は成長するし面白い。 本当に他の人たちが自己中であるならば、ラッシュアワーの電車はうまくさばけないでしょう。 震災で物資が不足する中きちんと並んで待つような日本人の美徳はどこかに消えるでしょう。 不幸にもあなたは本当の意味での「思いやりのある人」と出会っていないのかもしれません。よってお手本もいない。したがって模倣ができないのかもしれません。もちろん思いやりは真似て出来るものではありません。 良い例がありました 先日私が生の鶏肉を摂取したことにより食中毒になったのです。ひどい吐き気とめまい下痢に襲われて、それでも一緒に食事をした家族にLINEをいれました。健常の娘は普通に「私は大丈夫だ!」と笑顔を見せて、私の体調を気遣ってくれました。同じことをツレに言ったら「俺は何ともない」と一言。息子はLINEの途中で既読することなくすぐに私の部屋に来て「医者に行こう!」というのです。「大丈夫か?医者に行くべきだ。なんでもないならそれでいい。とにかく辛そうだから、俺の運転で申し訳ないが・・・」と申し出てくれる。 その後子供たちは常に「体調はどう?」と聞いてきます。ツレは皆無。 療育していないというよりも自覚していない発達障害の見本みたいなやつです。 息子は心理学を学んでいますので知識をつけてきました。 娘は普通ですから一般的な対応を見て取ることが出来ます。 しかし、これは彼女の持つ性格なのか私の躾なのかは不明ですが、かなり思いやりのある人です 努力の方法と方向が違う可能性を考えてください。 そうすると、他の人の思いやりの範疇が理解できるかもしれません。 不幸にもあなたの周りだけの事象かもしれません。 意識しないで出来るようになれば一番良いでしょうけれど、発達障害はどこを努力したらどうなるのか・・を間違えている場合が多いです。 よって、もう一度「思いやりの仕方」について検証するべきです。

noname#239595
質問者

補足

>他人の幸せは自分の幸せでは「ない」と思っています(少なくても私はです) 私は二人で仲良く歩いて通学する仲がよさそうな人たちが好きです。 この二人は死ぬまで一緒にいるんだろうなと思うようなカップルが好きです。 この親子は何世代にもわたって幸せな系譜を作っていくんだろうなというような 感じが好きです。そして、そういうものをみて幸せだと感じます。 >>自分が幸せでなければ他人を幸せにすることはできないと思っています。 私が他人の幸せを自分の幸せとするのか、それはその関係性をえられる事 自体が幸せであり、その幸せはその人との出会いやつながりでしか得られない 幸せだからです。人の不幸は蜜の味といいますが、実際は出る杭を打っても自分が幸せになるわけはないんです。なぜなら、その関係性を作ってる個人同士が 互いを認めあい必要とし合ってるから、だと思います。 だから、私にとっては何のかかわりのない事ですが、ただ幸せそうな絆をみてて 心地よいのです。 だから、私は人を犠牲にして自分が先になんてこともないですし、自分を認めて 自分に幸せにして欲しいと思う人がいるなら、その人のための自己犠牲は厭わないと思っています。 >>共有し同調し少しでも悲しみが早く薄れるように力を貸すことは可能ですが この行為自体が相手の悲しみを背負うことそのものではないですか? 人の悲しみを一緒になって悲しみ、鬱状態になってもなお相手を思いやるそれこそ が相手の悲しみを背負うことそのものではないでしょうか? >>他人を押しのけて自分ばかりを優先するという意味です 相手を優先していても私は自己中を脱することはできませんでした。 なら、何が自己中をやめる方法なのかわかりません。いや多くの人に 好かれた時がはじめて自己中ではないと思えます。 >>一見して気づかいが無いような人でも(無口でただ威張っているだけのように見える怖いタイプなど)でも垣間見せる優しさが他の人にはその人の本質であると取ることもあります。 私の周りにいる人間は「どうでもいい」という人のために泣いてあげることも支えてあげることもしようとしないと自分で他人に宣言するようなような人間ですが、そんな人間が人のために、優しさを見せるわけがないですよ。 全員が自己中であるとは思っていません。ただ、上述のような人間が多すぎると いう意味です。生活をする上でマナーをまもるのと真心で人と接するのはまた別 問題です。 >>不幸にもあなたは本当の意味での「思いやりのある人」と出会っていないのかもしれません。よってお手本もいない。したがって模倣ができないのかもしれません。もちろん思いやりは真似て出来るものではありません。 その例であれば、私は早く病院にいくべきだというでしょう。悩んでる暇があるなら さっさと最良の方法をとればいいと、救急車を呼ぶでしょう。自分以外に運転が出来る人がいればつれていくようにいうでしょう。 >>努力の方法と方向が違う可能性を考えてください。 私の周りには私に思いやりを求めてくれる人はいません。ただ、不幸なことがあれば一緒になって泣くし、助言もする。あくまで、私は可能な限りのことをしてあげるしかしません。誰もがやろうとしない、関わったことのない他人、かかわりえない他人を思いやることをやることが究極の思いやりだと思い生きてきましたが、それが 私の努力でした、それが間違いだということでしょうか?なら、何が必要なのか 教えて欲しいです。

すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A